サイト開設10周年記念企画リク◆九龍妖魔學園紀:皆主 ぼんやりと青空を見上げながら、皆守は開きっ放しの携帯電話を弄んでいた。 無風の快晴のおかげか、昼休みの屋上は春のように暖かい。こうして陽だまりでまどろんでいると、今が二月だということを忘れてしまいそうだ。 『明日は何の日か知ってるか?』 無題の件名、一言だけの本文。携帯画面に表示されているのは、今は遠く北海道にいる元クラスメートに向けて、皆守が昨夜送信したメールだった。 返信がないということは、その暇もないほど忙しいのだろうか。返事を待っているわけではなく、むしろ送らなければよかったと、皆守は今になって後悔していた。 日曜の昨日、寮内でクラスメートたちが騒いでいたので知った。今日は二月十四日バレンタインデー、女性が好きな男性にチョコレートを贈る日だ。 三年生は既に授業もなく補習に切り替わっているというのに、今日はやけに校内に人が多い。男子生徒も女子生徒も、バレンタインのために来ていることは明確だ。皆守は補習と《生徒会》の雑務で登校したのだが、顔見知りに捕まる前に屋上へ避難した。八千穂あたりが派手に騒いで、チョコレートを押しつけてくるかもしれない。バディの女連中もそうだ。皆守宛ではなく、九龍のために用意したものを。 皆守クンに渡せば九チャンに届くでしょ、とかなんとか言う八千穂の笑顔が浮かぶ。自分も彼の詳しい居所は知らないというのに、勝手なものだ。確実に渡したいなら、少し遅れることになるが卒業式にでも渡せばいい。というかそもそもバレンタインデーなど、製菓会社が企てた下らないイベントではないのか。 くわえていたアロマパイプを揺らし、脳裏の八千穂に文句をぶつけておく。だが、九龍はこういうお祭りごとが好きだろう。彼がいればきっと一日中賑やかで、バディたちはもちろん、クラスメートや後輩からも山ほどチョコレートをもらっていたはずだ。容易に想像できるその光景に、皆守はふと笑みを浮かべた。 お前からチョコレートが欲しい。そう告げれば、九龍は用意してくれるだろうか。 昨夜はそんなことを考えて、何故か感傷的になってしまったのだ。とはいえ、日本の行事に疎そうな九龍のことだ。何のためのチョコレートなのか、何故今日それが欲しいのか、彼がちゃんと理解していなければ意味がない。それに用意する暇も、こちらへ送付する余裕もないかもしれない。負担になるようなことは避けたいと思い、あんな謎かけのような意味深なメールになってしまったのだが。 やはり送らなければよかった。更に後悔が募って、皆守はジッポーを鳴らして火をつけた。これではまるで催促しているようではないか。彼からのチョコレートが欲しくてたまらないかのような、いやもちろんできれば欲しいのだが、欲しいという気持ちに偽りはないのだが、それでも。 ラベンダーの吐息を吐いて、とっくに崩れてしまった《墓地》へと視線を向ける。 自分はまだ何も告げてはいない。いつしか友情を超えていたこの想いを、直接言葉にしてはいない。薄々悟られているかもしれないが、自分たちはあのクリスマスイヴ前と何も変わらず、親友のままなのだ。 最近は友人間でチョコを送り合う習慣もあるようだが、それも男同士ではありえないことだろう。九龍が今日は何の日であるかをちゃんとわかっていて、その上で皆守のためにチョコを用意して、直接手渡しは無理でも、こちらへ届けてくれるなら―――。 「……?」 ふと、空気を叩く音がした。見渡すと北東の空に、ヘリコプターと思しき影が一つ。それを視界に入れた途端、持っていた携帯電話がメールを受信した。差出人は葉佩九龍。 「な……」 皆守は心臓を鷲づかみにされた思いで、慌てて本文を開く。 『七分しかなくてごめん、屋上で会おう!』 その意味を考える前に、啓示のように理解が落ちた。まさかと思いながらも、皆守は屋上の柵に駆け寄った。やがてヘリが近づき、皆守の頭上で停滞し、ばさりとロープが垂らされる。 「九ッ……」 呼びかけようとして、声が詰まった。紛れもなく、そこから滑り降りてくる九龍の姿。 「九ちゃん!」 「お待たせー!」 思わず腕を広げた皆守の横、九龍は鮮やかに着地した。学生服ではない、正に映画で見るような『トレジャーハンター』の格好をした九龍は、天香にいた頃より随分と大人びて見えた。そんなに長く離れていないはずなのに、懐かしさが込み上げる。 「やっぱりここにいたか皆守!」 「お前、なんで……」 今すぐ抱きしめてしまいたい衝動をやり過ごし、喘ぐように問いかける。九龍は屈託なく笑って、びし、と敬礼の真似ごとをしてみせた。 「任務中だけど、無理言って北海道から飛んできました!」 あっけらかんと言うと、九龍はすぐ《H.A.N.T》で時計を確かめた。でもマジで時間なくてさ、と苦笑する。 「どう見積もっても七分が限度なんだよね。またすぐ北海道にとんぼ返り」 「七分って……それだけのために、わざわざ?」 いくら同じ国内とはいえ、ちょっとそこまで、というような距離ではないだろう。驚く皆守に、九龍は開いた《H.A.N.T》を示してみせる。 「だってほら、これ」 表示されているのは、昨夜皆守が送ったメールだ。明日は何の日か知っているか。なんだか無性に恥ずかしくなって、皆守はごまかすように癖毛をかき乱した。 「バレンタインデー。女の子が好きな人にチョコを贈る日なんだって? 俺知らなかったから、看守や仲間に聞きまくったんだ」 そういえば彼は今少年院で任務中だったか、と皆守は少し眉を寄せた。天香學園同様、向こうでも多くの友人たちに囲まれているのだろう。それを思うと胸が焼けつくように痛んだが、わざわざ東京へ飛んできてくれたということは、今の仲間よりも天香を、皆守を思ってくれた証拠に違いない。七分しか時間が取れなくても、九龍は会いに来てくれたのだ。 「皆守が知らせてくるくらいだから、日本では大事な日なんだと思ってさ」 「ああ……まあ、な」 無邪気に覗き込んでくる九龍に、皆守は言葉を濁して頷いた。製菓会社が企てた下らないイベントだ、などと先程まで考えていたことは、忘却の彼方へ押しやっておく。 なんでもよかったのだ。九龍に会えるなら、そしてチョコでも何でも、九龍の気持ちが形として己に示されるのなら。 「皆守のことだから、チョコなんてカレーの隠し味程度にしか考えてないと思ってた」 「……今日は特別だ」 とっさに明確な否定ができず、皆守はぼそりと呟いた。菓子類はあまり好きではないが、彼からのチョコはもちろんカレーに使わず、ちゃんとそのまま味わおう。そんな決意と共に、ゆっくりと手を伸ばす。 「九ちゃん……」 「いやあ、皆守がそんなに俺のこと好きでいてくれたなんて嬉しいな、ありがとう!」 言って、九龍が手を差し出した。ほぼ同時に皆守も手を差し出して、なんだか互いに利き手の合わない握手を求めるかのような、間抜けな格好になった。 「……」 「……」 しばらくそのまま、無言の時間が流れてゆく。にこにこと待つ親友の顔を見て、皆守は嫌な予感に捕らわれた。 「……九龍」 「ん」 「チョコは?」 「……チョコ?」 きょとんと笑う九龍の表情は、微塵も疑っていない証拠だ。皆守は手を差し出したまま、引きつった笑みで確認した。 「……バレンタインデーってのは、女が好きな男にチョコを渡す日なんだが」 「うん、俺もそう聞いた。だからもらいに来たんだけど……なんか間違ってる?」 ―――つまり、九龍は自分がもらう立場で当然であると。ここへ来たのは皆守にチョコを贈るためではなく、皆守からチョコをもらうためだったのだ。 「なんで俺がお前にチョコを渡さなきゃならないんだ……」 気持ちのすれ違いを知って、皆守は天を仰ぎたくなった。九龍が目を丸くする。 「なんでって……渡したいからメールしてきたんじゃないのか?」 「だからなんで俺が渡す方なんだよ」 「え、だって……あれ?」 ぶっきらぼうな皆守の台詞に、九龍はしかめ面で首を傾げた。ああ、と唐突に合点したように手を叩く。 「もしかして皆守が俺にチョコくれるんじゃなくて、俺が皆守にチョコをあげ……って待て、なんで俺が女の子の立場だって勝手に決めつけてんだ!」 「お前こそ勝手に決めつけてただろうが!」 「なんだよ、皆守からのチョコ楽しみにしてたのに!」 「俺だってお前からのチョコを…!」 言いかけて、皆守は思わず口を噤んだ。素直に言葉にするのをためらったわけではなく、ふと人の気配に気がついたからだった。半ば恐る恐る視線を向けると、屋上へ出る扉の向こう、覗き込んでいる八千穂の顔が。 「おッ……」 何やら興味津々に見守るその様子に、皆守は絶句して固まってしまった。八千穂だけではない。隣には白岐や七瀬、椎名、双樹といった女性バディの連中もいる。更にその後ろには朱堂をはじめ、男性バディの姿も見えた。 「お、お前ら、いつから……」 「あーッ!」 精一杯絞り出した疑問を遮ったのは、九龍の頓狂な悲鳴だった。 「もう七分経っちゃうじゃないか、皆守の馬鹿!」 言うが早いか、九龍は八千穂たちに向かって駆け出した。わっ、と歓声に迎えられた九龍は、満面の笑顔で女性陣からチョコを受け取っている。それを呆然と眺めながら、皆守はようやく気がついた。 さっきのメール。『七分しかなくてごめん、屋上で会おう!』という内容のあれは、自分だけではなくバディ全員に送信されたものだったのだ。 そう思うと、再会の高揚は嘘のように萎んでいった。自分は特別ではないのだと、彼にとってはバディの一人でしかないのだと、思い知らされた気分だった。当然期待したような、恋愛感情じみたものを九龍が意識しているわけがない。自分は勝手に浮かれて、勝手に空回りしていただけだ。 「皆守」 立ち尽くす皆守の前に、九龍が両手いっぱいの包みを抱えて歩いてくる。ほとんどを腰のポーチにしまい込んだが、今すぐ食べてほしいと誰かにせがまれたのか、小さなトリュフチョコを一つ口に入れながら。 「今度また、卒業式のときでいいや。お前もチョコ用意しといて」 「だからなんで俺がお前に、ッ」 機嫌の悪さを剥き出しにした皆守は、文句を言いかけて凍りついた。バディたちから悲鳴のような、どよめきのような声が上がるのがわかる。―――キス、されている。九龍に。 意識した途端、その唇の柔らかさと、チョコレートの甘さが口いっぱいに広がった。瞠目する皆守をよそに、至近距離の九龍は悪戯っぽく目を細めている。一瞬だけ絡んだ舌がチョコの塊を落とし込むと、唇はすぐに離れていった。 「九……ッお、お前」 「チョコレート味のキス。とりあえず、今日はこれで許してやろう」 言って、九龍はにっこり笑った。皆守が動揺しているうちに、垂らされたままだったロープをつかんで上へ合図を送る。 「おい、九龍!」 ヘリの上昇に伴い、九龍もふわりと浮き上がった。手を振る彼の無邪気な笑顔に、皆守は知らず口元を緩める。 「まったく、お前は……」 どこまで、俺を振り回せば気が済むんだ。 声には出さず呟いて、笑みのまま、口に残ったチョコレートを転がしてみる。好んで食べるものではないが、たまには甘いものも悪くは―――。 「……に」 苦い。 得体の知れない味に、なんだこれはと九龍を振り仰ぐと、彼も似たような表情で皆守を見下ろしていた。文字どおり苦虫を噛み潰した顔で、口を押さえて苦笑して。 「……今の、明日香の手作りチョコ。お前も一蓮托生、死なば諸共ってことで」 「な」 「えーッ何それまずいってこと? ひどいよ九チャン!」 八千穂の悲鳴が聞こえたが、皆守は今すぐ九龍を引きずり下ろして蹴り倒してやりたくなった。何がチョコレート味のキスだ、そんなロマンチックなものか! 「卒業式には倍にして返してやるから、覚悟しとけ!」 チョコもどきを無理やり飲み込んで、皆守は遠ざかりつつある九龍に叫んだ。聞こえたのかどうか定かではないが、小さくなった影がもう一度手を振るのがわかった。 「……だから、必ず帰ってこいよ」 ぽつりと付け足して、今や青空の点になったヘリを追う。甘さと苦さの入り混じった不思議なキスの感触は、九龍が空の向こうに見えなくなっても、皆守の唇から消えることはなかった。
SWEET & BITTER |