遅刻の理由











 繰り返される単調な音楽を、皆守はぼんやり聞いていた。

 持参したアロマスティックは既に燃え尽きていて、かすかにラベンダーの香りを残すだけだ。部屋に戻ればまだあるのだが、面倒なのと意地になっているのとで動けない。このまま根が生えそうだぜと天井を仰いだ皆守は、先ほどから少しも振り向かないでいるジャージの背中を見つめた。

「おい九ちゃん。まだ行かないのか?」

 遺跡に行こうぜ、と誘われたのは二時間前だっただろうか。眠いダルいと文句を言いながらも、ちゃんと準備を整えて、こうして部屋にやってきてやったというのに。

「ん、もうちょっと」

 九龍の応えは相変わらず生返事だ。そんなに面白いのか、そのゲームは。苛々と頭を掻いて、皆守は彼が凝視しているパソコン画面を一瞥した。

 レトロというより時代遅れと称した方が相応しい、シンプルでチープな画面と音楽。始めてすぐその単調なRPGにはまり込んでしまった九龍は、本業も皆守の存在も忘れてひたすら没頭している。

 俺はお前のために貴重な睡眠時間を割いてだな、何度そう言ったことだろう。そのたびにもうちょっとだからと軽くあしらわれ、皆守は椅子代わりのベッドに逆戻りすることになる。気に入らない、と思う。

「うわちくしょ、死ぬ! 死ぬって!」

 ゲームパッドを持っていない九龍は、キーボードをカタカタと押して独り言をわめいた。どうやら強敵と出逢ってしまったらしい。そのまま死んじまえと目を眇めながら、皆守は減ってゆく主人公のHPを眺めた。ゲームオーバーになってしまえば諦めもつくだろう。いや、負けず嫌いなコイツの性格からすると逆効果、か?

「ふー、危機一髪」

 戦闘音楽が終了し、オレンジ色だった画面下が何やら回復アイテムによって白に戻る。ほっとしたように言う九龍は、相変わらずこちらに背を向けたままだ。――本当に、気に入らない。

「おい九ちゃん、行かないなら俺はもう帰るぞ」

 もたれていた壁から身を起こして、皆守は九龍の背中に声をかけた。我ながら不機嫌そうな声だと苦笑すると、返ってきたのはやはり生返事だった。

「んー、もうちょっと」

 ……コイツ、絶対俺の声なんて耳に入ってねぇ。

 苛立ちが怒りに変わり、かえって冷たく沈むのを感じる。感情に任せて手を伸ばすと、さすがに驚いた九龍が振り仰いだ。

「み、皆守?」
「もうちょっと、なんだろ?」

 椅子に座った背後から、腕を回して抱きしめる。ラベンダーの移り香を嗅ぐように、髪に鼻先を埋めて。

「気にせず続けろよ」

 わざと気だるげに、もたれかかって囁いた。ぴくりと跳ねた腕の中の反応に気をよくして、画面を促してやる。

「またさっきの敵じゃないか?」
「うわしまった!」

 苦戦した同じ敵を認めて、九龍は慌ててキーボードを叩く。皆守はそのジャージの襟を捲るようにして、晒したうなじに唇を寄せた。途端に、ぎゃあと上がる悲鳴。

「な、何やってんだお前!」
「いいからそっちに集中しとけ」
「できるかあぁッ!」

 じたばたと暴れる九龍が楽しくて、皆守は思わず本気で抵抗を封じ込めた。首と腰を抱きしめて拘束し、柔らかく耳を食む。

「み……皆守さん?」
「……なんだよ、お前はゲームやってろって」
「ひょっとして、怒ってらっしゃる?」

 徐々に本気で触れてくる唇に、九龍が恐る恐ると言った口調で問いかけてきた。意外に冷静じゃないか、思った皆守はまた苛立ちが蘇って、思い切り首に噛みついた。

「いッ……てーな、吸血鬼かお前は!」
「……49ダメージ」
「は?」
「52ダメージ」

 言いながら舌で首筋を辿り、歯を立てて舐め上げる。九龍が耐え切れず息を詰めた。

「う……ちょ、待て、待てってば!」
「45ダメージ……赤くなってきたな」
「あ、あのな!」

 次第に頬や耳に血が上ってきたことを指摘されたと思ったのか、九龍は皆守から逃れるようにして身を捩った。

「ゲーム! 集中できないだろ!」
「知らねぇよ」
「っていうか、ゲームにまで嫉妬かよ……」
「……いいのか、死ぬぞ?」
「何が!」
「クリティカルで64ダメージ」

 囁いて、皆守はパソコン画面を指した。

「ほら、死んだ」
「え」

 振り向いた九龍の目に、オレンジ色から赤に変わった画面下が飛び込んだ。やがて音楽が消え、黒地に白くゲームオーバーの文字が浮かぶ。

「だから言っただろ、赤くなってきたって。ダメージも読み上げてやったのに」

 しれっとして言う皆守に、九龍は今度こそ真っ赤になって。

「お、お前のせいだ、ロックフォードはお前に殺されたんだ!」
「何言ってんだ、しのつかい、って奴にだろ?」
「問答無用、ロックフォードの仇ッ!」

 言って、九龍は皆守に飛び掛ってきた。思わず抱き止める格好になったベッドの上で、それきり顔を伏せてしまう。

「……おい、九ちゃん」
「うるさい。もう今日は一晩中ゲームやってやる」
「そうか、俺は付き合わないからな」
「責任取れ」

 あのな、と呆れて言いかけた皆守は、その手が縋りつくように学ランを握り締めていることに気づいた。

「……葉佩九龍のHPはもう残り1ポイントなんだよ」

 うう、と九龍が押し殺したように呻く。皆守はくすりと笑って、噛み跡が残る首筋に手を伸ばした。

「……そりゃ、瀕死だな。道理で赤くなってるわけだ」
「回復アイテムもない……」
「セーブポイントまでもつか?」

 既に過敏になっているらしく、指でなぞった肩が跳ねる。九龍はゆっくりと顔を上げて、どこか潤んだ瞳で呟いた。

「……いっそ殺せ、馬鹿野郎」

 交錯した視線に、皆守は無意識に唇を湿した。それが笑みの形を作っていることに気づかないまま。

「ゲームオーバーだな」

 再び倒れ込んできた熱を受け止めると、完全に上向いた己の機嫌を自覚した。なだめるように髪を梳いて、明日は遅刻する覚悟だと笑って応えて抱きしめた。

「じゃあ、とどめを刺してやるから」

 囁く言葉は、さながら殺し文句のごとく。

「俺の腕の中で死ね」











20061228up


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