授業中のメール











 マナーモードに設定していた《H.A.N.T》の振動で、九龍は夢から引きずり上げられた。

 壇上では、教師がチョーク片手に文法を説明している。一瞬現実を把握しきれなかった九龍は、ああ授業中か、とため息をついた。

 英語は元々一番退屈な授業だが、今日は昨夜の夜遊びのせいで一段と眠気が耐えがたい。受信したらしいメールをとりあえず確認するべく、ポケットに手を突っ込んだまま、九龍はまた寝てしまいそうになった。適当な言い訳を作って、おとなしく保健室で休んだ方が無難かもしれない。

 取り出した《H.A.N.T》を机の下に隠し、新着メールを確認する。差出人は皆守だ。彼は二時限目から姿を見せていない、どうせまたサボっているのだろう。

 屋上にいる、カレーパンを買ってこい、超特急。

 簡潔な本文を目で追って、またかと九龍は嘆息した。











 いつものこととはいえ、使い走り扱いに慣れてしまった己の現状もどうかと思う。

 昼休み突入と共に売店に向かい、無事カレーパンを手に入れた九龍は、階段を上りながら深いため息をついていた。

 最初の頃は皆守も気を遣っていたのか、授業中にメールを寄越すことはなかったはずだ。いつメールが来ようとどうせ内容は変わらないのだが、もしマナーモード設定を怠っていたりすれば、教師に無言の圧力をかけられるのは九龍の方なのだ。せめて休み時間を見計らって送るように言おうか。いや、何より授業に出るよう注意すべきか。

 屋上に出ると、晴れ渡った青空が広がった。こんな日は皆守でなくても、一日中ここに寝転んで過ごしたい気分になる。陽光に目を細めた九龍は、そこで思わずパンの袋を落としてしまいそうになった。

「……皆守?」

 彼の定位置、給水塔の陰。超特急などと人に命令しておきながら、本人はうとうとどころかぐっすりの様相で爆睡している。

「お、お前な……」

 衝動的に袋を投げつけたくなって、九龍は笑みを引きつらせた。余程腹を空かせているのだろうと、一応急いで駆けつけたのだ。それなのにこの仕打ちか。メールからまだ十五分も経っていない、起きて待っているのが普通ではないか。少しくらい、感謝の気持ちをくれてもいいではないか。

 拳を握ることで、九龍は理不尽な怒りを抑え込んだ。今までの妥協が積もり積もって、ようやく不満となって現われたらしい。相手が起きていれば文句をぶつけることもできるのに、皆守は変わらず穏やかな寝息をたてている。余計に苛立ちが募り始める。

「おい、皆守」

 起きろ、と声をかけようとしてやめた。普通に起こすのも癪だった。銃でもあれば威嚇発砲してやれるのだが、あいにく今は携帯していない。物騒なことをちらりと考えて、九龍は皆守の前にしゃがみ込んだ。何か一矢報いるような、効果的な方法はないものか。

 給水塔に背を預けてうつむいている、皆守の顔を覗き込む。あまり昼寝に適した体勢ではないと思われるが、どうやら熟睡しているらしい。九龍はふとパイプのくわえられていない唇を見て、いっそキスしてやるのはどうかと悪戯心が湧き上がった。

 日本生まれの日本育ちに、そんな習慣はないはずだ。ただでさえスキンシップが苦手そうな皆守は、きっと驚いて飛び起きるだろう。更に朱堂を毛嫌いしている彼のことだ、相手が九龍とはいえ男にキスされた事実を知れば。

 ふ、と笑いが込み上げた。真っ赤になるかもしれない。すぐ足技が繰り出されて喧嘩になるかもしれない。それはそれで面白い、上等だ、かかってきやがれ。

 猫のような四つん這いの姿勢で、九龍は皆守に近づいた。うつむく顔を下から見上げる形になり、まるで自分の方がキスをねだっているみたいだと客観的に想像する。唇を重ねてもまだ起きないようなら、甘噛みしてやろうか、舌を入れてやろうか。そんなことを思った九龍は、安らかすぎる寝顔をじっと見つめた。

 皆守は寝汚いだけで眠り自体は浅く、気配にも敏感だというイメージだった。が、目を覚ます様子は全くない。こんな近くに他人がいて、ある意味襲いかかろうとしているのに。

「……」

 至近距離で感じる体温に、角度を合わせようと首を傾けたまま、九龍は少し考えた。考えれば考えるほど、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなった。何をやっているんだ俺は、と呆れて理性が落ちる。外国育ちでスキンシップ過多の九龍にとっては、別に相手が男でも女でも、キスの一つくらいどうということはないのだが。

 ――もし、それでも皆守が目を覚まさなかったら。

 こんな悪戯、気づかれなければ意味がない。仕掛けた瞬間に跳ね起きて口を押さえて鳩が豆鉄砲だったりして、何らかのリアクションを返してもらわなければならない。そうでなければ、寝ている相手にそっとキスをするなど。

「なんか、恋する乙女みたいじゃん……?」

 言葉にすると、より一層馬鹿馬鹿しくなった。閉じられたままの瞼を睨みつけて、九龍は唇をへの字に曲げた。馬鹿馬鹿しい。ああもう、まったくもってアホらしい!

 やーめた、とばかりに立ち上がって伸びをする。同時にあくびを噛み殺して、九龍は皆守の隣に座り込んだ。勝手にカレーパンを食べてやろうとして、後の怖さを考えてやめた。

 皆守が起きたら、ちゃんと礼を言わせて一緒に食べよう。んでもって、勝手なメールやパシリはお断りだって言ってやろう。大体、人に頼んでおいて寝るか? 放ったらかしにするか? 畜生、きっちり説教してやるからな。

 密かに憤りながら、知らず九龍も目を閉じる。穏やかな風と、かすかに流れてくるラベンダー。誘われて、睡魔はすぐに訪れた。











 何かが触れた。夢の中で、それだけを認識した。

 だがその正体を考える暇もなく、再び眠りの底へ引きずり込まれる。感じたのは、強くなったラベンダーの香り。唇に残る柔らかな感触。

「……馬鹿馬鹿しい」

 どこか自嘲するような皆守の呟きが、九龍の夢の挟間に消えた。











20080312up


BACK