昼休みの攻防 |
視線を感じた九龍は、隣の友人を見て目を見開いた。 ほぼ同時に屋上の給水塔にもたれて、ほぼ同時に食べ始めたはずだ。自分はまだ一口かじっただけなのに、彼の手には既にカレーパンがない。 「お前、もう食ったのかよ」 「……足りねぇ」 呆れる九龍に、皆守は低く呟いてきた。視線はまっすぐ、九龍が持つカレーパンに注がれている。 「文句言うな、食えただけでも感謝しろ」 軽くあしらって、九龍は二口目を口にした。皆守はまだ凝視している。暗にそれも食わせろという主張だろう。 例のごとく屋上で寝ていたらしい皆守から、カレーパンを買ってこいとメールが来たのはつい先ほどのことだった。パシリかよと半ば苛立ちながら九龍が売店に行ったときには、昼休みのパン争奪戦は既に終わりを告げていた。つまり、買えたのは残り物のカレーパンが二つだけ。 足りないだろうとは思っていたのだ。けれどせっかく買えたパンを二つとも渡して、自分は一人マミーズへ行かなければならないのも癪ではないか。 「……これは俺の分だからな」 皆守から隠れるようにして、九龍はカレーパンを遠ざける。案の定、彼は半眼のまま手を差し出してきた。 「一個で足りるわけねぇだろ。それもよこせ」 「嫌だ。俺の分だって言っただろ、うわ」 更に距離を置こうと逃げる前に、パンを持つ右手が捕まった。手首を握り締めてくる皆守の手を外そうとした、逆の手も捕らえられた。抵抗を押さえ込むかのようにかけられる体重が、思いのほか強い力で圧し掛かる。 「いいから食わせろ」 「だ、断固拒否する」 「……九ちゃん」 「なんだよ、その聞き分けのない子供に対するオカンみたいな呼びかけは……って強引だなお前ッ!」 ふんと笑った皆守は、九龍の右手のカレーパンを無理やり自分の口へ運ぼうとしている。このダルダル不健康優良児のどこにそんな力があったのかといっそ感心しながら、九龍はあくまで抵抗した。皆守が皮肉げに口角を上げる。 「お前がそんなにカレーパンを愛していたとは知らなかったぜ」 「ああ、俺も今知った」 答えて、九龍も笑ってやる。しょうがねぇな、とでも言いたげな苦笑を浮かべると、皆守はますます力を込めて。 「意地になってるだけだろ? 諦めてよこせって」 「だからこれは俺のだっつーの!」 体勢のせいかそれともカレーにかける愛の違いか、両手をつかまれたまま徐々に身体が傾いてゆく。パンを略奪されるのも時間の問題だろうが、そもそも人を押し倒してまで食べかけを奪おうとするだろうか。……ったくカレー星人め、ことカレーとなると人格変わってんじゃないか? 軽く舌打ちをした九龍は、至近距離の皆守を改めて見上げた。いつも茫洋としている鳶色の瞳が、今はしっかりと光を宿している。そこに映るのは九龍ではなくカレーパンだと思うと気が抜けるが、それでも確実に存在する意思の輝き。 その情熱を、カレー以外にも注いでくれればいいのにと思った。彼の射抜くような眼差しの対象が、他にもあればいいのにと思った。――そう、例えば。 ふ、と笑いが込み上げる。次の瞬間、九龍は自ら力を抜くことでバランスを崩させていた。 「……ッ!?」 驚いた皆守がこちらに倒れ込んでくる前に、両手を振りほどいてカレーパンをくわえる。自由になった右手を軸に、軽やかに跳んで身を翻す。 均衡する支えを唐突に失って、べちゃ、と皆守が床に突っ伏した。九龍はそれを見下ろしながら、悠然とパンをかじってやった。ふん、ざまーみろ。 「ゲットトレジャー、ってね」 「……」 ふざけた台詞に、皆守は少し恨めしそうに顔を上げる。 「さすがは《宝探し屋》、と言うべきか?」 「わはは、もっと褒め称えろ」 大げさに仰け反って、九龍はにっかりと笑った。ため息混じりに身を起こした皆守は、苛立たしげに癖毛をかき乱して。 「ちッ、油断した」 そのままやる気をなくしたらしく、給水塔にもたれて座り込んでしまった。普段どおり眠そうな目には、さっきまでの鋭さは微塵も感じられない。彼らしいといえば彼らしいのだが。 「何、もう諦めたのか?」 九龍は肩をすくめてカレーパンを飲み下した。アロマで落ち着かれてしまう前に、残り三分の一ほどになったパンをこれ見よがしに掲げてやる。 「皆守、もう1ラウンドだ」 「は?」 訝しげな友人の表情に、自然と笑みが浮かんできた。我ながら悪戯を思いついた子供のようだと思いつつ、九龍は右手を差し出してみせる。 「ほら。欲しけりゃ、俺ごと奪う覚悟で来いよ」 カレーパンしか見てないから駄目なんだよ、お前は。 挑発する言葉に、皆守はわずかに目を見開いた。一瞬呆けた絶句をすぐ微笑に変えて、取り出したパイプを再度ポケットに入れる。 「……上等だ。本気で行くからな」 「望むところ」 立ち上がる彼にひらひらと手を振って、九龍はもう一度笑ってみせた。また輝きを取り戻し、獲物を狙う獣のように射抜いてくる視線。受け止めるその対象は、紛れもなく自分の姿。 そうやって映された瞳の束縛に、かすかな愉悦が広がった。自覚のないままそれを噛み締めた九龍は、同じ眼差しで皆守を見つめ返していた。
20061218up |