眠れぬ夜をいくつ数えれば |
降り出した雨は、次第に勢いを増していた。 《会議》は顔を出しただけですぐ終わったが、それでも雨の放課後、残っている生徒は既にまばらだ。途方に暮れて空を見上げる者、傘を取りに戻る者、諦めて走り出す者。やれやれとため息をつきながら、俺は下足箱でビニール傘を広げた。 足を踏み出した途端、雨音が派手に傘を打つ。下校の鐘が鳴ったときはまだ小雨だったはずだ。あいつはもう寮に着いた頃だろうか、思ってふと顔を上げると。 「……九ちゃん?」 雨で煙る校庭の向こう、傘も差さずに歩いてゆく学ランの背中。間違えるはずもない、見慣れた奴の後ろ姿だ。用事があるから早く先に帰れと告げておいたのに、まだあんなところにいるのか。 「九ちゃん」 大きく呼びかけると、九龍が振り向いて笑顔になった。遠目でもわかる、その全身はずぶ濡れになっている。 「何やってんだよ!」 反射的に駆け出して、慌てて傘の中に引き入れた。無理やり腕をつかんだせいで、華奢な身体が少しよろめく。 「何って、寮に帰るところだけど」 きょとんとして見つめてくる九龍に、俺は苛々と髪をかき乱した。そんなことは言われなくてもわかってる! 「なんで傘も差さずにだらだら歩いてるんだ」 「だって持ってなかったし」 「……あのな」 だったら誰かに借りるとか、せめて走って帰るとかしたらどうなんだ。 俺は再度嘆息して天を仰いだ。曇天の空からは、バケツを引っくり返したかのような雨が降り続けている。校舎からここまで普通に歩いてきたらしい九龍は、まるで滝にでも打たれたかのごとき様相だ。 「でもほら、たまにはこういうのも気持ちいいかなと思って」 髪から雨粒を落として、九龍が無邪気に笑った。こめかみを経て頬に伝う、透明な水の曲線。その行方を追って、俺は知らず手を伸ばす。 「風邪ひくぞ」 「大丈夫、慣れてるから」 「慣れてるって、お前な……」 呆れながら、指は肌に触れる。冷えた体温を感じ、そのまま手のひらで温めてやりたくなる。そうしたいと思う気持ちに従って頬を包むと、俺の手にも雨が流れた。 「……皆守?」 九龍が不思議そうに見つめている。傘を持たない生徒が、慌てたようにすぐそばを走り抜けてゆく。跳ねる泥を見送って、俺はしばらく瞬きを繰り返した。――駄目だ。 「九ちゃん」 噛み締めるように、その名を口にして確かめた。親友として相棒として、その時が来るまでは隣にいようと決めた、くすぐったいあだ名だった。九龍が笑顔で首を傾げる。言葉の続きを促す仕草だったが、俺は何も言えなかった。 整った輪郭を辿り、ぽたぽたと顎から落ちる雫。首筋をゆっくり濡らして、学ランの襟首に吸い込まれてゆく雨。それらは涙にも汗にも見えて、思いがけず劣情を誘う。似たような姿は風呂で見慣れているはずなのに、それなのに。 体温が感じられないからだと思った。眠れない夜に時折浮上する、夢の中の死体に似ていると思った。目が覚めて夢でよかったと安堵して、あといくつ同じ夜を数えれば現実になってしまうのかと恐れて。 雨音が一層激しくなる。九龍はまだ俺の言葉を待っている。いっそこの雨が何もかも、流して隠して閉ざしてしまえばいいのにと願う。 「……悪い、九ちゃん」 脈絡のない謝罪に、九龍がますます首を傾げた。何か言おうとした唇に触れて、そこも冷たく濡れていることを知った。温めてやりたいと思った。 あの遺跡の底でもきっと同じように、溺れる者が縋りつく激しさで冷えた身体を抱きしめて、そうして。 俺は、お前の死に絶望する。
20070110up |