不埒な指先











 何気なく触れた指先に、九龍が大げさに飛び上がった。

 勢いでロッカーに後頭部を打ちつけ、痛みに涙を滲ませている。皆守は少しだけ目を見開いて、伸ばしていた手を下ろした。

「……何をやってるんだ、お前は」
「いや、急に触られたら驚いて当然だろうが!」

 九龍はずり落ちたタオルを押さえ、反論して首を振っている。それにしても過剰に反応し過ぎだろうと、皆守は思わず苦笑した。

 探索帰りの夜、消灯時間ぎりぎりの浴場には誰もいない。二人で手っ取り早く埃や泥を落とし、広々と湯船を使って、さっき脱衣所に出てきたところだった。

「俺はちゃんと声をかけたぞ」

 湯上がりの髪をかき上げて、皆守はしれっと言ってみせる。自分は既にいつもの部屋着を身につけているが、九龍はまだ髪を拭いている途中で、上半身は裸のままだ。早くしろとばかりにパイプをくわえ、アロマを燻らせて促してやる。

「単純に、目立つ傷痕だからな。気になっただけだ」
「気になったからって、なんで触る必要があるんだよ……」

 待つのが嫌なら邪魔するなと、九龍は小さくため息をついている。ジャージを手にするその腕の付け根、丸く肉が盛り上がっている部分を、皆守は目を眇めて見つめた。

「撃たれた痕か?」
「ん? そう、なのかな?」

 首を傾げた九龍が、さっき触れられた部分を確かめている。その言葉に、皆守はわずか眉を寄せた。

「そうなのかなって……覚えてないのか?」
「ま、日常茶飯事だったからね。強敵を相手にしてできた傷とか、よっぽど難解な罠だったら、わりと覚えてるんだけど」
「……」

 なんでもないことのように、九龍は明るく笑っている。その笑顔に、皆守は苛立ちが湧き上がるのを感じた。彼の仕事は理解しているつもりだが、それでも無性に気に入らない。

「……こんな派手な痕が残っているのに、記憶にないのかよ」
「わ!」

 顔をしかめて、九龍の身体を反転させる。ロッカーに押しつけ、無防備に背中をさらす姿勢を取らせると、九龍は精一杯首を回して睨みつけてきた。

「何すんだよ」
「じゃあ、ここは覚えてるか?」

 文句を無視して、皆守は目の前の肌に指を滑らせた。無数に残る傷痕から、斜めに走る浅い線を拾う。九龍はわずか息を詰めて。

「……墨木と戦ったときに、銃弾がかすった跡だと思う」
「これは?」
「そ、それはトトの攻撃を避け損ねて……」
「こっちは?」
「双樹さんのときに……っていうか、くすぐったいんですけど!」

 傷痕を一つ一つ確かめるように、皆守は指を移動させる。そのたび返ってくる九龍の答えに、ふ、と知らず笑みが零れる。

「覚えてるじゃないか」

 安堵に呟いた皆守の思考は、だがすぐに暗く沈んで渦巻いた。

 《宝探し屋》である九龍にとって、天香は任務地の一つでしかすぎないだろう。ここで負った傷も怪我も、いずれ仕事を終えてこの地を去れば、時と共に薄れてゆくのだろう。当然、それに関する記憶も。

「……でも、どうせ忘れるんだろう? この傷痕のように」

 え、と九龍が聞き返す。皆守は左肩の銃痕に指を戻し、わざとゆっくりそこを撫でる。指先で円を描いて、まるで優しく愛撫するかのごとく。

「ちょ、皆守?」

 焦って逃れようとする身体を、半ば反射的に押さえつける。漏れた九龍の吐息に引きずられ、もっと強く確かめたくなる。指などという末端だけではなく、例えば。

「ッ!」

 爪を立てる勢いで痕を抉ると、九龍はびくりと肩を跳ね上げた。振り返って、ロッカーに貼りつくようにして固まっている。風呂上がりとはいえ、心なしか頬が赤い。

 絶句しているその顔を、皆守はしばらく無表情に見つめた。どんな傷なら、どれほどの痛みなら、彼の記憶に残るのだろう。いつかは癒えてしまう肉体ではなく、いっそ精神そのものに刻んでしまえばいいのだろうか。一生消えることのない、深い深い傷痕を。間近に迫った最後の日に。その、瞬間に。

「……そういえば、傷痕は背中だけじゃなかったな」

 無理やり微笑を浮かべて、皆守は浮き出た鎖骨に手を伸ばした。小さく震える指先を、そこに灯る愚かな執着を、心の片隅で自覚しながら。











20090214up


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