天国と地獄をつむぐ唇 |
これは夢なのかと疑って、何度も何度も確かめた。 五感で感じる全てのものが、熱に浮かされたかのごとく曖昧だ。次第に落ち着き始める呼吸に、皆守はようやく伏せていた瞼を開いた。惚けていた頭に理性が戻り、間違いなく夢ではないと実感した。 薄暗闇の窓を、九龍は放心したように見つめている。汗に濡れた額の髪を払ってやると、黒い瞳がゆるりと動いた。焦点を結んで、至近距離の皆守を映す。 「……夜が明ける前に、ここを出てくから」 少しかすれた声で、九龍が告げる。突然の言葉は、皆守を完全に現実に引き戻した。時間を確かめるため、わずか上半身を起こしたせいで、重なっていた体温が離れる。床に落ちていた開きっ放しの《H.A.N.T》に、ぼんやりと表示されている現在時刻。 「……あと一時間ほどしかないんじゃないか?」 「ああ。ってそんな顔すんなよ、わかってたことだろ」 まだ気だるげな色を帯びたまま、ふ、と九龍が口元を緩める。その余裕が無性に悔しくて、皆守はわざと大きくため息をついた。 「天国から突き落とされた気分だぜ……」 「あはは、それは俺がそばにいないと生き地獄って意味?」 つい先程まで泣きそうに顔を歪めていたくせに、九龍はいつもの調子で笑っている。むっとした皆守だったが、思い直して笑い返した。放り出されていた九龍の両腕を捕らえ、枕に押しつけて。 「行かせない、と言ったら?」 一瞬、九龍は驚いたように目を見開いた。だがすぐに微笑んで、愛されてるなあ俺、などと呟いてくる。 「無理。悪いけど、これでも妥協した方。本当はこうなる前に、こっそり出てくつもりだったし」 「そうだったな」 夕食の後九龍と別れてから、もう一度訪ねてみてよかったと皆守は思う。異変に気づかなければ、無理やり部屋に押し入らなければ、今頃ここには本当に何もなかっただろう。 所狭しと散らかっていたこの部屋も、机やパソコン、ベッドや布団などの備品を残すのみで、今はまるで空き部屋のようだ。飾ってあった鎧も、胸像も、カレー鍋も、何もかもが綺麗になくなっている。そうやって己がいた痕跡を残さず、九龍自身も消えるつもりだったのだろう。誰にも別れを告げずに。 「ホント、嫌になるくらいの洞察力というか、第六感というか」 息の塊を吐き出して、九龍がひとりごちている。皆守はそれを聞き流しながら、目の前の肩、治りかけている傷に唇を落とした。ぴくりと身体が跳ね、皆守にも感覚を伝える。 「……言っとくけどそれ、お前に蹴られたときの怪我だからな」 「知ってる。ここも、俺がつけた傷だろ」 「う、悪趣味……」 悪態を吐息に変えて、九龍は耐えるように目を閉じた。蹴りがかすめただけの頬の傷は、既に薄く痕を残すのみだ。皆守はそこにも唇を寄せる。無意識に、確かめるように。 「忘れないから、大丈夫だって」 「……? 何がだ」 ふとかけられた声に、皆守は我に返った。また少し乱れ始めた息で、九龍は安心させるように微笑んでいる。 「傷痕はいつか消えてしまうけど、想い出は道連れじゃない。だからお前のことも、絶対に忘れないよ」 「……信用できるか、そんなこと」 いつか抱いた暗い感情を見透かされた気がして、皆守はぼそりと呟いた。 「何も言わず出てゆくつもりだったくせに……」 「うん、だからそれは失敗に終わったしさ。それに今お前、忘れたくても忘れられないような記憶、現在進行形で俺に残しつつあるのわかってる?」 苦笑しながら、九龍が両手を首に回してくる。繋いでいた身体に明確な愉悦が走り、皆守は思わず息をのんだ。誘われているようだと感じたのは、だがほんの一瞬だった。 「でもいい加減にしないと間に合わないので、抜いてくれませんか皆守さん」 にっこりと笑われて、皆守は盛大に顔をしかめた。この状態でそれはないだろうと、つかんだ手を握り直す。 「協会から迎えが来るのか?」 「いや普通に羽田まで行って飛行、きッ……」 答えの途中で、皆守はぐいと大きく身体を動かしてやった。言葉を詰まらせた九龍に、再度顔を近づける。思いがけない恍惚に滲んだ瞳を覗き込んで、ゆっくりと口角を上げてみせる。 「言っただろ? 行かせないって」 「……マジで?」 「忘れられないよう、思いっきり刻み込んでやるから覚悟しろ」 「情熱的だこと。じゃあ、俺も何か刻みつけてやるべきかな」 呆れたように笑った九龍は、皆守を引き寄せて首に歯を立ててきた。先日の戦いのとき、九龍の剣がかすめた火傷の場所だ。 「……だったら、背中に爪の痕でもつければいい」 言って、皆守は九龍の首筋に鼻先を埋めた。互いが互いにつけた傷痕に噛みついて、存在を記憶の中枢に刷り込んだ。そうすることで痛みも淋しさも快楽も、全てが共有できた気がした。
20090222up |