木乃伊は暁に再生の夢を見る

6th. Discovery #5










 明るい。
 目覚めた九龍がまず最初に感じたのは、カーテン越しの朝の光だった。それから、鳥のさえずり。柔らかな布団の感触。
「……?」
 一瞬何が何なのか把握できず、しばらくぼんやりと天井を眺める。なんだっけ、と思った。何か暗く、嫌な感じが脳裏にこびりついている。けれど残滓は既にあいまいで、ただその感覚だけが残っていて。
 けほ、と咳が出た。喉が軽く痛んだ。そういえば俺、風邪ひいてたんだっけ。考えて、一瞬にして目が覚めた。
「……ッ!」
 がばり、と起き上がる。見下ろした身体には学ランと学生服ズボンと、骨ばった自分の手。―――そう、自分の。
「戻ってる……!」
 がしがしと頭をかいて、慣れた手触りを妙に懐かしく感じた。思わず自分を抱きしめて、もっとちゃんと確かめようと鏡を探して、そこでようやく気がついた。
 てっきり、自分の部屋だと思っていた。確かに間取りは同じなのだが、きちんと片付けられた床、分厚い本ばかりが並ぶ整頓された棚、かすかに甘い香りのするベッド。―――七瀬の部屋である。
「……そうか、俺……」
 真里野との戦いの後、墓地でファントムとかいう影に会い、雛川の前で気を失ったのだった。そのままどの時点かはわからないが、女子寮で寝ていた自分の身体に戻れた、ということなのだろう。ならば、七瀬も戻れているはずだ。七瀬の身体は、雛川が面倒を見てくれていたのだろうか。
 そこまで思って、九龍は戦慄した。……え、女子寮?
「ちょっと、開けて下さ〜い?」
 突然のノックの音に、びくりと身体が跳ね上がる。そうだよ、女子寮だよ!
 言うまでもなく、女子寮の部屋は男子禁制である。今の自分は心身ともに葉佩九龍で、当然男で、こんなところにいてはいけない存在で。
「もしも〜し?」
 とっさに、窓の外を見た。三階。いつもなら跳んで降りられる位置に非常階段はなく、逃げる場所も隠れる場所もない。その間にも、ノックの音は続いている。
 ため息をついて、九龍は覚悟した。別にやましいことはないわけだし、正直に姿を現すしかないだろうと決意した、のだが。
 思い切ってドアを開けると、目を丸くした管理人がいた。その周りに、大勢の女子生徒たちがいた。……さ、さらし者? うわ、逃げればよかった!
「な、なんで男子が女子寮に……ッ」
「きゃァァァッ!」
「いやァァァッ!」
「この人、C組の転校生よッ!」
「ち、ちょっとちょっと!」
 あっという間に広がる悲鳴とパニックに、九龍もつられて慌ててしまった。管理人がおろおろしている。
「ど、どういうことだこれはッ!」
「だって、月魅の部屋に学生服姿の人が入っていったって言う子がいたから、もしかして噂の不審者が変装して入り込んだのかと……」
「なんで、葉佩くんが月魅の部屋に?」
「いや〜ん、もしかして月魅とッ?」
「いやあの、これはですね!」
 とっさに口を挟んだ九龍も、うまく言い訳が出てこない。勝手に浮上した夜這い説に、悲鳴が興味津々の響きを含んでゆく。おい待て、それは誤解だ濡れ衣だ!
「九龍クン……」
 ものすごい騒ぎの中で、ゆらりと殺気が立ち昇った。その低い響きが、一瞬にして黄色い声を静寂に変えた。女生徒たちの輪の中に、佇む八千穂の姿。
「九龍クンの……」
「あ、明日香ちゃん?」
 じり、と九龍は後ずさった。身体を震わせてこちらを睨みつけるその瞳は、どんな化け物よりも恐ろしい迫力で。
「九龍クンの……」
 彼女が、右手を振りかぶる。迫る拳を、空気を切る音を、九龍はスローモーションのように見送った。
「九龍クンの、バカァァァッ!」
 怒鳴り声と共に、ぐわん、と意識が揺れた。見事な右ストレートに、目の前で星が爆発した。勢いで宙に吹っ飛んだ九龍は、そのまま床に激突する。ばったり倒れた頭上で、女生徒たちの声。
「あ……ちょっと、大丈夫? もろに顔に入ったよ?」
「気失ったんじゃない?」
「ま、女子寮に忍び込んだ罰よね」
 ―――ああ明日香ちゃん、さすが化人一撃殺人スマッシュの持ち主。完敗。
 のん気なその声を聞きながら、九龍はまた意識を手放した。




 葉佩九龍女子寮侵入事件は、その場に現れた七瀬と雛川のおかげで疑いが晴れた。とりあえず不審者を見た七瀬が九龍に相談した、自分の部屋で一晩見張ってもらった、その間七瀬は雛川のところにいた、ということになっている。
 風邪はすっかりよくなっていた。七瀬が安静にしてくれたおかげかもしれない、と九龍は感謝する。そんな七瀬は装備と《H.A.N.T》を九龍に渡した後、そのまま部屋で倒れてしまったらしい。……極度の筋肉痛か。ごめん七瀬。
 しかし裂けた制服、物騒なベスト、ゴーグル、マシンガンに長槍。七瀬も雛川も、思い切り不審を抱いたに違いない。今すぐの事情説明は避けられたが、こうなってはもう追及から逃れる術はないだろう。今度尋ねられたら、正直に話すしかないと九龍はため息をついた。
「おはよ九龍クン! ごめんね、大丈夫?」
 教室に足を踏み入れた途端、八千穂が駆け寄ってきて申し訳なさそうに言ってきた。クラス中の視線が集まっているような気がするのは、今朝の女子寮侵入事件に加え、殴られた痕が目立つせいもあるだろう。
 九龍の左頬には、八千穂の怒りの鉄拳による見事な青痣が残っていた。瑞麗のところに寄って絆創膏でも処置してもらおうかと考えたのだが、余計目立つ気がするのでやめておいた。
「……明日香ちゃん、問答無用なんだもんなあ」
 少しだけ恨めしそうに言って、九龍は自分の席に座る。唇の端が切れているせいで、少し口を動かすだけで痛むのだが、殴った本人の手の方は全く無傷らしい。さすがである。
「うう、ごめんってば! お、怒ってる……よね?」
 八千穂は両手を合わせて頭を下げると、うかがうように九龍を見つめてきた。いつものようにまさか、と笑おうとしたのだが、傷が引きつって妙な笑顔になってしまう。無理するとまた傷が開くかもしれない、思ってそのままの顔で。
「怒ってない怒ってない、説明してなかった俺も悪いんだし」
「……ホント?」
 明るく言った九龍に、八千穂はほっと息を吐いた。もう一度ごめんねと笑って、少し唇を尖らせる。
「でもそうだよ、九龍クンも月魅も、一言言ってくれてたらよかったのに」
 咎めるような口調を、九龍はあいまいな笑みで誤魔化した。ああうん、と言葉を濁す。
「だってほら、先日も覗きとかで不審者騒ぎがあったからさ。明日香ちゃんたちを怖がらせるわけにはいかないなって」
「でもさ……」
「ああもう大丈夫、本当に怒ってないから」
 生傷は男の勲章ってね。笑う九龍に、八千穂はようやく納得した様子で頷いた。けれどすぐに一転して、そういえば、と声をひそめてくる。内緒話をするかのごとく、身を屈ませて。
「あのさ、九龍クンって月魅と付き合ってるってホント? 朝のアレのせいで、すごく噂になってるんだけど」
「は? なにそれ?」
 脱力した九龍は、目を丸くして聞き返した。皆守の次は七瀬かよ、そういう噂を流すのが好きだなこの学校は!
「そりゃあ、九龍クンがいた月魅の部屋に月魅はいなかったけどさ。そもそも月魅が九龍クンに相談して部屋に入れた、ってのが噂の発端になってるみたい」
「いやいや、あのね……単なる噂だから明日香ちゃん」
 頭を抱えながらもさらりと否定して、九龍は彼女にならって声をひそめる。
「ほら、俺は例の仕事があるだろ? 普通に女の子と付き合うなんてこと、できないって」
「……あ、そっか」
 月魅は知らないんだっけ、と八千穂が呟いた。九龍は苦笑しそうになったが、そうそうと頷いておく。うん、まあ多分、七瀬にも近々知られることになると思うんだけどね。
「そっか、そうだよね」
 八千穂は納得したように繰り返して、にっこりと九龍に笑いかけた。よかった、と聞こえたような気がした。……よかった? え、それってもしかして。
 思わず聞こうとしたとき、八千穂の視線が九龍を通り越した。あれ、と少し目を丸くする。
「おっはよー、今日も早いね皆守クン!」
 振り返ると、今登校してきたらしい皆守の、不機嫌そうな目と目が合った。また寮が騒がしくて起こされたせいだろうかと思ったが、何故か殺気すらまとっているような雰囲気だ。睨みつける半眼を九龍にとどめたまま、皆守は鞄を放り投げて。
「……九龍、ちょっと来い」
「え」
 その口調には、有無を言わせない強さがあった。九龍は無意識に笑みを引きつらせて、促す皆守の姿を見送る。な、なんか怖いんですけど。体育館の裏に呼び出してフクロにしてカツアゲする不良みたいなんですけど。
 八千穂と顔を見合わせて立ち上がった九龍は、そういえばと思い出した。皆守には昨夜、消灯までには帰るというメールをしていた。けれど、朝まで帰れなかった。真里野との戦いの後で気を失ってしまい、今まで連絡すらできなかったのだから、もしかするとそれが不機嫌の原因なのかもしれない。そうか、結局俺は約束をすっぽかしたことに―――って、あれ?
 ふと違和感を感じて、九龍は昨日のやり取りを追ってみる。エアコンが直ってなかったら部屋で寝かせてもらっていいかと聞き、だったらカレーパンを買ってこいと言われ、エアコンはまだ故障中、早く帰ってこいというメールをもらい。
 帰ると言って時間どおり帰らなかったのは事実だが、皆守の部屋に行くというちゃんとした約束は、特に交わしていなかったはずだ。カレーパンを渡した時点で約束が成立したのか? いやそんなことないか、じゃあなんで不機嫌なんだ? 俺が部屋に来ると思って、ずっと待っててくれたとか……まさかなあ。
「なあ皆守」
 無言で教室を出る皆守に続き、追いついて声をかけたときに、向こうから来る着物姿が目に入った。それだけで目立って仕方がない男子生徒は、言うまでもなく真里野である。
「は、葉佩!」
「おはよ真里野」
 彼もこちらに気づいて、なにやら意を決したように歩みを速めてくる。
「葉佩、拙者お主に訊きたいことがある」
 九龍の前で止まった真里野は、低い声で言いながら睨みつけてきた。皆守が訝しげに二人を見つめる。
「その、なんだ。お主が七瀬殿と付き合っておるという噂。あれはまことか」
「はい?」
 おいおい、開口一番それかよ。真里野にまでそんなこと言われるとは。
 昨日《墓》に来なかったことや、自分ではなく七瀬を向かわせたことを責められるのかと思いきや、予想外の質問に思わずかくりと気が抜けた。てかその噂、どこまで広がってんだ一体。
「違う違う、単なる噂。付き合ってないよ」
「う、うむ、そ……そうなのか」
 明らかに安堵した表情になって、真里野は小さく呟いた。それを聞いて安心したとかなんとか、もごもごと口の中で押し殺す。
「立場を利用して女子を《墓地》の奥へ向かわせるなど、お主がそんな情のない男だったらこの場で斬り捨てておるところだったわ。だが拙者が七瀬殿に敗れたことは事実、それはお主に敗れたということ。武士に二言はない、拙者もお主と共に戦うぞ」
「あ、ありがとう」
「うむ、な、七瀬殿にもよろしく伝えよ」
 一人で納得した真里野は、では御免と教室へ入っていった。ていうかそれ以上追及することはないのか、お前はそれでいいのか真里野。毒気を抜かれたように、九龍はしばらくぼんやりと見送る。それもこれも七瀬に惚れたがゆえ、ということなのかもしれない。けれど。
 元に戻った今も、彼の恋心は変わらないだろうか。魂が違えば、それは別人の印象を受けるのではないだろうか。もちろん、改めて事実を話したところで彼が信じるわけがないとは思うのだが。
 単なるきっかけだったのかもしれないな、と九龍は思った。
 九龍の魂を宿した七瀬が気になった真里野は、七瀬が七瀬に戻った後も七瀬月魅を気にするだろう。あのときとは何か違うという疑問を抱きつつも、本来の七瀬を知って、そこで初めて七瀬に恋をすればいいと思う。……うん。俺ってば愛のキューピッド。
「……七瀬に敗れた……? どういうことだよ」
 相変わらず不機嫌そうな様子で、皆守が眉を寄せて聞いてくる。ああ、と九龍はあいまいに頷いた。
「とりあえず、屋上行こうぜ」
 言って、階段を踏む。しまったご機嫌取り用にカレーパン持ってくりゃよかった、と後悔しながら。




 朝の爽やかな空気を吸って、九龍は今日も秋晴れの青い空を見上げた。いい天気だな、と屋上の柵に手をかけて、しばらくそれを眺める。皆守は何も言わず、ジッポーを鳴らしてアロマに火をつけた。
「……で?」
 身体を反転させて、九龍は手すりにもたれかかる。話を促すように心持ち首を傾げると、紫煙を燻らせていた皆守がゆるりと視線を合わせてきた。
「……お前、昨夜は七瀬の部屋にいたのか?」
 おや、と九龍は目を丸くする。意外に情報が早いなと思ったが、それだけ女子寮侵入事件が広がっているということだろう。
「帰ってこないから、心配した?」
 軽く微笑んで、口調に揶揄を含めてみる。皆守の半眼が更に細められた。
「別に心配なんてしてない」
「言うと思った」
「……」
 朝の風が、軽く髪を撫でてゆく。致命傷でも負わせてくれそうな皆守の鋭い眼光を、真正面から受け止める。理不尽さを感じながら、九龍はぽつりと呟いた。
「……お前があのとき信じてくれてれば、事態はもう少し簡単に終結してたと思うんだけどね」
 どこか恨みがましげな自分の声に、ようやく気づいて納得する。ああそうか、どうも苛々すると思ったら。信じてくれなかったこと、やっぱり根に持ってたんだ俺。
「皆守の馬鹿」
「……は?」
 眉を寄せた皆守の、眉間の皺が更に深くなる。自覚すると沸々と静かな怒りが湧いてきて、ふん、と九龍は顎を上げてみせた。本人はわかっていないが、頬の青痣が機嫌の悪さを更に過剰に演出する。
「そうだ、お前がいればまだギャグで誤魔化せたんだ。冷静に考えたら、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか」
「おい、何のこと……」
「セーラー服だぞ、スカートだぞ、それで飛んだり跳ねたりして胸元チラリズムで侍誘惑女体化なんだぞ、なのにツッコミ不在なんだぞ!」
「待て、落ち着け!」
 畳み掛けるように声を荒げた九龍を、皆守が少し慌てたように制した。突然向けられた苛立ちに戸惑ったらしく、ゆっくりとアロマを吐き出して。
「説明しろ。何のことだかさっぱりだ」
「……だから、さ」
 はあ、とため息をついて、九龍はうかがうように言葉を紡ぐ。
「昨日の五時限目が終わった後、俺と七瀬の身体が入れ替わったんだ。鴉室さんとお前に会った七瀬月魅は、葉佩九龍だったんだよ」
「……?」
「鏡見て慌ててただろ? あの七瀬は俺なんだって」
 意味がわからない、と皆守が訝しげな顔をする。そうだよな、あのときも信じなかったんだから、元に戻った今になって説明しても信じられないよな。内心拗ねた九龍は、ふと思い出してにやりと笑った。
「そういえばお前、七瀬が胸揉んだとき珍しく動揺してたよな」
「……な」
「意外と純情なんですね、皆守さん」
 ふふ、と七瀬を真似て言ってみるが、もちろん今は似ても似つかない。皆守はまた動揺したらしく、パイプを落としそうになっている。……へえ。コイツってそういうことにドライなくせに、いやドライな分、かえって免疫がなかったりするのかな。
「なんでお前が知って……」
「いい加減信じろよ」
 ぽかんと口を開けている皆守に、九龍はため息混じりに微笑んでみせる。
「本当に……お前だったのか」
「だからそう言ってるだろうが」
 皆守はがしがしと癖毛をかき乱して天を仰いだ。確かに七瀬らしくないとは思ったんだが、いやしかしそれでも、と呟いて。
「……信じられない」
「だろうな。俺がお前の立場でもきっとそうだよ。いいよ、俺はお前が信じたってことを前提にして話すから」
 理性ではわかっている、それは確かだ。だから九龍はそれ以上皆守を責めずに、簡単に事情を説明した。
「そんでまあ《執行委員》だった真里野に勝負を申し込まれて、やむなく昨日はそのまま《墓地》に潜ってたんだ。不審者避けで女子寮云々メールしたけど、あれ嘘ね。だってお前、信じてくれなかったし」
「……それで、七瀬の身体で真里野と戦ったのか」
 まだ完全には信じられない様子だったが、それでも一応信じようとしてくれたらしい。皆守は半ば呆然としながら言った。
「そ。したら純情真里野くんは、七瀬月魅に惚れてしまいましたとさ。中身は葉佩九龍だったんだけどね」
「……ああ、だからさっき」
 真里野のぎこちない態度を思い出したのか、納得したように皆守が言った。その唇がわずかに笑みを刻む。
「それじゃ、女子寮侵入事件は」
「葉佩九龍の身体で、七瀬月魅が自分の部屋に戻ってたんだ。真里野との戦いの後俺は気絶しちゃって、多分ヒナ先生が俺を……てか、七瀬月魅の身体を自分の家に運んでくれたんだと思う。で、朝になったら葉佩九龍は葉佩九龍に、七瀬月魅は七瀬月魅に戻ってた、ってオチ」
 は、と皆守が息を吐いた。笑いを吐き出したような、安堵のため息のような、そんな複雑な吐息だった。
「そうか……それで」
 言って、皆守はようやく笑った。皮肉げとはいえ、今日初めて見るちゃんとした笑みらしい笑みだった。……まさか、本当に心配して待っててくれたのかな。なのに何も連絡寄越さなかったから怒ってたとか。
 訊こうとして、やめた。皆守のことだ、たとえそうだったとしても絶対に肯定しないだろう。図星を指されてまた機嫌を損ねる様子が容易に想像できる。とりあえずいいやもう、なんか知らないけど。触らぬ皆守にたたりなし。
 それで納得したのか、皆守は柵にもたれてゆっくりとアロマを吐き出した。九龍も何も言わず、気だるそうに空を見上げるその横顔を眺めた。
 昨日七瀬月魅だったときに感じたよそよそしさは、当然ながら微塵もない。いつもどおり、葉佩九龍に対する皆守甲太郎だ。それを改めて確認して、九龍は安堵に息をついた。広がってゆく温かい気持ちに、そうか、と自覚する。そうか、俺は皆守のことが好きなんだ。
 ―――あれ?
 意識して、ふと違和感を覚えた。いや、友達なんだからそれで当たり前じゃないのか。……当たり前、だよな?
 何かおかしいような気がして、九龍は隣の友人を見つめ直した。眠そうな半眼、だらしなくパイプを引っ掛けている唇。心持ち上向いた輪郭のラインを、風に揺れる癖毛が柔らかく縁取っている。普段どおり見慣れた友人の姿、そのはずなのに。
「……」
 鼓動が、ことりと動いた。何故か見惚れている自分に気づいて、九龍は戸惑いのまま瞬きを繰り返した。吐き出される薄い煙が、優しいラベンダーの香りが、包み込むように甘ったるくまとわりついてくる。
「……どうした?」
 視線を感じた皆守が、不思議そうに顔を向けてきた。九龍はぽかんと口を開けて、ぎこちなく我に返って、ぼそりと独り言のように。
「……やばい」
「は?」
「なんで俺、お前にときめいてるんだろ」
 刹那、皆守が盛大にむせた。からん、とパイプが落ちた音に、既視感を感じた九龍は思わず声を上げそうになった。
 ―――俺が女だったら、絶対皆守に惚れてるのにな。
 以前何気なく、本当に何気なく言った言葉だった。そんなありえない仮定をしても仕方ないだろうと、皆守に呆れられた。自分でも同感で、でも仮定が成り立つなら、それは限りなく本音に間違いなく。
 いや、と頭を振る。確かに昨日は女だったかもしれないが、今はもうれっきとした男に戻っている。だから、それはありえない仮定として不変のはずだ。―――その、はずだ。
「まったく、何を言ってるんだお前は……」
 呟きながらパイプを拾う友人を、九龍はもう一度意識して見つめてみた。さっきはまるでフィルターがかかったかのように、心臓を高鳴らせてくれたのだが。
「あれ? やっぱり気のせいかなあ」
「あのな……お前、殴られて頭でも打ったんじゃないか」
 心底呆れたように、皆守は落ちたパイプを拭っている。そういえば、と頬の青痣に目を向けて。
「八千穂だろ。派手にやられたな」
 言って、無造作に手を伸ばしてきた。寸前で顔をそむけた九龍は、半ば仰け反った姿勢で皆守を睨む。
「痛いんだから触んなって」
「まだ痛むのか?」
「だって吹っ飛ばされたんだぞ俺、それはもー見事な一発KO」
 口を尖らせる九龍に、皆守が吹き出すようにして笑った。つられて九龍も笑って、引きつった傷の痛みに顔をしかめる。皆守は微笑のまま。
「本当にお前は、傷だらけだな」
 再度伸ばされた手が、自然な仕草で頭を撫でた。すぐに離れた温もりを、一瞬淋しいと思ってしまった九龍は、ぼんやりとそれを見送った。同時に鳴り響くチャイム。
「……授業が始まるな」
「戻るか」
「ああ」
 珍しく素直に出席する気の皆守に、賛成とばかりに九龍は手を挙げた。ついでにごしごしと目を擦って、もう一度その顔を見つめておく。うん、大丈夫。別に普通だよな、やっぱり気のせいだったのか。
「なんだよ」
「ん? 皆守ってイイ男だなーと思って」
「……お前、やっぱり頭打っただろ」
「いやいや、頭打つ前からそう思ってたし!」
「アホか」
 下らない会話をしながら、向けられた背中を追いかける。それは一見、昨日の『七瀬月魅』が見た背中と何も変わりはないけれど。
 ちゃんと、友人という位置が実感できる。それだけで、何よりも嬉しいと九龍は思う。




 教室に戻って、授業が始まって、九龍は七瀬に返してもらった《H.A.N.T》を思い出した。ポケットに入れたまま忘れていたそれを取り出して、未読メールが溜まっていることに今更気づいた。気絶していた昨夜から今朝のうちに、全部で三件。
 教師に隠れて、机の下でこっそり確認する。一件は興奮した七瀬が早朝に送ったらしく、元に戻れました!という報告だ。二件目は同じく朝、瑞麗から。身体の調子はどうだ、と心配する内容だった。
 そういえば、と九龍は瑞麗のメールを読んで考える。
 霊と肉は同じ氣という物質でできている。本来あるべき場所ではなくても、時間と共に交じり合い始めてしまう可能性があると彼女は話していた。
 それほど長い時間ではなかったとはいえ、女性である七瀬の身体と、男性である九龍の精神が、同じ氣として交じり合うことは充分考えられるだろう。あるべき場所を違えるほど共鳴した氣が、互いの肉体や精神に何らかの影響を与える可能性はある。それは恐らく形として存在する肉体よりも、精神の方に顕著に現れるのではないだろうか。もちろん、七瀬の方も同様に。
 つまり突き詰めれば、九龍が七瀬の身体に影響されて女らしくなり、七瀬が九龍の身体に影響されて男らしくなったかもしれない、という結論になるわけで。
 そう思って、九龍は納得した。さっき屋上で皆守に妙な感覚を感じたのは、そのせいなのかもしれない。なるほど女性に影響された精神で、女性として彼を意識してしまったのだろう。ならばちゃんと男である自分の身体に戻れた今は、時間と共に本来の精神が取り戻せるに違いない。……よかった、また変な噂が広がるとこだった。
 三件目、最後のメールは皆守からだった。
『来ないならいい』
 たった一言、それだけのメール。受信日時は昨夜の深夜過ぎ。
「……え」
 思わず、小さな驚きの声を上げた。
 来ないならいい。読み返して、絶句する。
 日付が変わるまで彼は起きていた。しかもその文面から、本当に待っていてくれたのだということが読み取れる。消灯までには帰ると連絡をしてきた友人が、暖かい自分の部屋にやってくるだろうと信じて。
 ―――だから、不機嫌だったのか。
 こっそりと、後方の皆守を盗み見る。相変わらずうとうとしているのかと思いきや、今日は机に突っ伏して堂々と居眠りの最中だ。
 なんだよ、やっぱりカレーパンの時点で成立してたのか? それならそうと言ってくれれば、約束破って悪かった、待ちぼうけ食らわせて悪かったって謝ったのに。
 深夜まで起きていたあげく、拗ねたような一言メールを寄越したくせに、それでも彼は認めようとしないのだろう。素直じゃない友人を睨みつけて、九龍は《H.A.N.T》をポケットに戻した。……まったくもう。
 笑いを噛み殺して、顔を上げる。授業に集中するふりをして、放課後に意識を飛ばす。
 じゃあ、代わりに埋め合わせしてやろうじゃないか。
 文句を言いながらも結局迎え入れてくれるだろう仏頂面を思い、九龍はもう一度こっそりと笑った。




 耐えられず早退して昼間からベッドに潜り込んで、ふと目が覚めたのは消灯前だった。
 もちろん、今から起きる気は毛頭ない。昨夜の分まで睡眠時間を補うべく、皆守は再び目を閉じる。まどろみの中で睡魔を捕まえて、更に堕ちてゆこうとした時だ。
「みーなかーみくーんっ!」
 一気に、夢から引き上げられた。妙な節をつけて扉を叩いているのは、聞き間違うはずもない隣室の友人の声。
 なんなんだ一体、と眉間に皺を寄せた。無視しようと寝返るも、再度名前を呼んでドアがノックされる。……ああもう、まったく!
 苛々と髪をかき乱して、結局起き上がってしまった。昼は学校で夜は遺跡で、散々振り回されている気がする皆守である。しかし、まさか就寝時にまで及ぶとは思わなかった。
「なんだよ」
 できるだけ不機嫌な声を作って、いかにも迷惑だと言うようにドアを開けてやる。そこには待ち構えたようにして、笑顔で布団を抱える九龍がいた。
「こんばんはお邪魔しまーす、ってラベンダーくさッ!」
「……おい」
 無遠慮に上がり込んでくる友人を、皆守はぽかんと見送った。すぐ我に返り、何しに来たと低く問うが、振り向いた九龍は無邪気な笑みで。
「昨日来れなかったから、代わりに来てみた」
「……エアコンは直ったんだろ?」
 しかも、今日はそんなに気温が低いわけでもない。皆守が呆れている間に、九龍はいそいそと床に布団を敷いている。いいじゃん埋め合わせということで、などと上機嫌に言いながら。
「埋め合わせって……おい、九龍」
 なんだその理屈は、と突っ込みを入れる間もなく、九龍はごろりと布団に横になった。
「んじゃ、おやすみなさーい」
「おい待て!」
 わざわざ俺の部屋で寝る意味がないだろうお前は。あまりにもマイペースな彼に、皆守は大きくため息をついて。
「……今日は遺跡は行かないのか」
「うん、昨日頑張ったから今日はお休み。風呂も入っちゃったしね」
 言いながら布団を被って、九龍はすっかり寝る態勢に入っている。ああもう、コイツは。
「そんなとこで寝たらまた風邪ひくだろうが」
 頭をかいて、布団を引き剥がしてやる。取り戻そうと起き上がった九龍の、脇腹を蹴ってベッドに追い込んだ。
「いいからお前はそっちで寝てろ」
 よろめいた九龍はきょとんとして、戸惑ったように皆守を見上げる。
「え、でも主をおいて俺がベッドって」
「誰が床で寝ると言った?」
 布団を投げつけて、皆守はベッドの壁際に寝転んだ。一緒に寝るかとからかったのは確かに自分だが、まさか実施することになるとは思わなかった。大体、なんでこんな妙なことになってるんだ。
「隣で寝ろ。電気消せ」
「あ……うん」
 戸惑ったまま、九龍が答えた。かちりと音がして部屋が闇に包まれる。しばらく逡巡の間が開いた後、無防備に潜り込んでくる友人に苦笑が漏れた。まるで犬か猫だ。
 すぐに、寝息が聞こえてくる。さすがに驚いて、皆守は肩越しに振り返った。徐々に闇に慣れてきた視界の中、本当に即行で眠りについてしまったらしい。苦笑とも諦めともつかないため息を吐いて、頭を抱えたくなった。……まったく。
 まったく、何故こんなに振り回されているのか。何故、こんなに近くにいることを許してしまうのか。
 ―――不快ではないからこそ、葉佩と行動を共にしているんだろう?
 脳裏に、保健医の言葉が蘇る。
 不快ではない、確かにそうだ。不快なら徹底的に拒絶している。けれどイコール心地よいではないし、気にかかる存在でもない、はず。
 昨夜は、鳴らない携帯に苛立った。女子寮に行くとメールを寄越したきり帰ってこない彼が、また誰かを追いかけてそのままあそこへ潜ったのかもしれないと思うと、どうにも気が気でならなくなった。自分の知らないうちに、自分の手の届かないところで、また怪我でもしているのではないかと。
 日付が変わって、一言だけメールして、携帯を放り投げて寝た。苛立っている自分にまた苛立っていた。勝手にしろ、と呟いて―――朝になって、九龍が女子寮に侵入したという話を耳にする。
 待っていた、ああそうかもしれない。エアコンが直らなかったら寝させてくれと言った友人を迎えるために。けれど、彼は来なかった。《墓地》に行ったわけでもなかった。七瀬月魅の部屋にいた。一晩中。
 誰にでも優しく平等な葉佩九龍のことだ、不審者を見たと怯える七瀬を優先するのは当然だろう。だがそれならそれで連絡くらい寄越せと、また苛立ちが募って重なり合う。―――だから何故、自分がこんな苛立ちを感じなければならないのか。
 事情は聞いた。七瀬と身体が入れ替わったという、信じがたいことだったがなんとか納得できた。大体彼がそんな嘘をつくはずもないし、つく理由もない。それはいい。無事元に戻って解決したことはもういい。ただ。
 ―――どうして、それが七瀬だったのか。
 ふいに浮かんだ感情を、無理やり沈めて封印する。考えるな。その正体に気づいて名前をつけてしまえば、平穏が音を立てて足元から崩れゆく。考えるな。まどろんでいればいい、眠ってしまえばいい。ラベンダーに埋もれて全てを遮断して泥のような夢の中にただ己を沈めて緩やかに穏やかに死んでゆけ。
「んー……」
 そう思えば思うほど目が冴える皆守の後ろで、もそもそと九龍が身じろいだ。睡魔の欠片もつかめない皆守は、反射的に振り返ってその腕をつかんだ。寝返りを打った九龍が、ベッドから落ちかけたところだった。―――間一髪。
「……ちッ」
 ほっとした次の瞬間舌打ちをして、放り投げるようにその腕を離した。落ちそうになったら引き上げてくれるんだろ、と笑った彼の顔が思い出される。皆守はがしがしと髪をかきむしると、一端起き上がってベッドを出た。
「……そっちなら落ちる心配はないだろ」
 ひとりごちて、寝ている友人を足で壁際へ追いやる。呻くだけでやはり起きない彼に呆れながら、再度ベッドに潜り込む。あまりにも狭いので床で寝ようかとも思ったが、ここは俺のベッドだと開き直って、半ば無理やり身体をねじ込んだ。
 さっきまで、彼がいた場所。
 残る温もりに目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んでみる。ラベンダーの香りの中、かすかに混じる彼の匂い。鈍いといわれている己の嗅覚にもわかる、それは染みついた硝煙と、それから―――それから。
 懐かしい匂いだ、と皆守は思った。何だろうと閉じていた目を開けて、上半身を起こして、間抜けに寝顔を晒している友人を眺めた。カーテン越し、月明かりの微妙な陰影が、その顔をいつもとは違う雰囲気に彩っている。知らず、手を伸ばす。
「……」
 手のひらで頬を撫でて、指先で痣を辿った。痛みを感じたのか眉が寄せられたが、それだけだった。皆守はそっと顔を近づけて、彼の吐息がかかる位置で。
「無防備すぎるんだよ、お前は」
 呟いて、傷痕に唇を寄せた。痣に沿って確かめるように、舌先で軽く舐めた。九龍が呻き声と共に顔をそむけ、壁際に寝返りを打つ。追うことはせず、ただそれを見つめる。
 直接感じた熱と、触れた呼吸。舌に蘇る味。
「……ふん」
 鼻を鳴らし息を吐いて、皆守は彼に背を向けた。寝転がって目を閉じると、新たに湧いた感情がない交ぜになって渦を巻いた。ラベンダーが香る。眠りが降りてくる。微笑みながら、誰かが名前を呼んでいる。優しい光に包まれて、その手がこちらに差し伸べられる。
 ああ、そうか。懐かしいと思ったのは太陽の、日向の匂いだ。
 夢の中、陽光の笑顔はいつしか九龍になっていた。もっと名前を呼べばいい、もっとちゃんと手を握ってくれればいい。
 そうやって、ここから引きずり上げてくれればいいと思った。




 朝の光に目が覚めて、妙に心地よくて、皆守はぼんやりと意識を浮上させた。
 目線のすぐ下に、素直な黒髪。抱きつくように寄り添っている体温。
「……ん……皆守……?」
 緩慢に開いた黒曜石の瞳が、上目遣いに己を映した。眠そうな顔と、眠そうな声で囁かれた名前。すぐそばで。至近距離で。―――皆守の、腕の中で。
「な」
 驚いて、反射的に飛び起きた。勢いがついた身体が、そのままベッドから滑り落ちる。後頭部に衝撃。強打する派手な音。
「……あれ?」
 それでようやく目覚めたのか、九龍が寝ぼけ眼で半身を起こす。視線をさ迷わせ、床の上で硬直している皆守を捕らえると、やがてにやりと不敵に笑った。
「……ほら、な」
 まるで確信犯のように、悪戯っ子の表情で。
「落ちるとしたら、俺じゃなくてお前だって言っただろ?」
 ―――わざと腕の中に潜り込んだのか、この男。
 悟った皆守は、唖然としていた唇に不穏な笑みを刻んだ。深く息を吐いて、ゆらりと立ち上がって、ベッドを見下ろして片足に力を込めた。
 いやん皆守さんってば動揺しすぎよ照れちゃって、などとケタケタ笑っている友人に、渾身の蹴りをお見舞いしてやるために。






→to be continued.



20130614up


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