Like a Nightfall











 口の中で血の味がした。

 横を向いて吐き捨てると、地面に赤い華が咲いた。すぐさま、蒸発する乾いた音。鉄錆の匂い。

 何発か銃弾を食らってしまった。刃も一度受けた。炎をまとったその剣は、制服に派手な焦げ目を作ってくれていた。

 ただ冷静に、淡々と。

 戦い終えた皆守は、アロマに火をつける。壁に背を預けて、むせ返る温度に眉をしかめて。紫煙で嘆息すると、嫌な臭いがラベンダーにごまかされた。それは、部屋を満たしつつある死臭。

 倒れたままの親友を――否、親友だったものを。

 ただ暗い目で見つめながら、靴底を砂に擦りつける。

 こびりついた血はなかなか落ちそうにない、と。

 軽く、舌打ちをして。











「皆守」

 彼方で、葉佩の声がする。どこか気遣うような、心配そうな声。

「皆守…」

 繰り返される呼びかけに、皆守は思わず自嘲の笑みを浮かべた。

 夢か。夢なのか。かつて親友として共にあった頃のように、無邪気に名前を呼ばれたいという願望か。既に、その笑顔すらうまく思い出せないでいるのに。

 部屋の中央で振り返った自分に、言葉をなくして立ち尽くす姿。そして蹴り上げた脚の下、見開かれた瞳。記憶に残るのはその絶望と。

「皆守」

 死を覚悟した目で発せられた呼びかけは、それでも力に満ちていた。何かを言われた気がした。けれど言葉も差し伸べられた手も、自分には届かなかった。否、拒絶した。彼が微笑んだような気がした。――ああ、まただと思った。

 全てが血に染まってゆく。その色は黄昏の、赤く燃える夕陽に似ていると思う。溶岩と、蒸気と、自分の革靴と。声もなく倒れる彼の身体も、こちらに伸ばされたままの救いの手も。

 皆守はただ、それを見ていた。魂を手放したばかりのその指は、触れればまだ温かいだろうか。握り返してくれるのだろうか。ぼんやりと、そんなことを考えていた。

「皆守ってば」

 遠く、声がする。目の前で倒れているただの肉塊ではなく、もっと高みから、明確な意思を持って。聞き慣れたその強い響きに、皆守は拳を握り締めた。

 違う、夢だ。彼がそんな風に自分を呼ぶことはもうないはずだ。たった今、殺したのだ。踵に伝わる衝撃も、骨が折れる鈍い音も、流れる赤い血の色も、全てが鮮明に刻み込まれている。アロマを吸いながら、靴底を擦りつけながら、皆守はため息を吐いている。ただ、その死体に向かって。

 相変わらずこの区画は熱いな、そんな格好で戦える九ちゃんを尊敬したくなるほどだ。ちッ靴が汚れちまった、大体お前は無謀な戦い方ばかりしすぎなんだよ。俺を頼ってるのかなんだか知らないが、焦ってフォローしてるこっちの身にもなれ。お前、俺が眠いとかダルいとか言ってうとうとしてるだけじゃないってのわかってんだろ。まったく命が幾つあっても足りやしない、俺がいなかったらとっくに死んでるぞ九ちゃん。ああもう泥だらけじゃねえか、おい聞いてんのか、なんで倒れてんだ、黙ってないでなんとか言え。なあ、それより寮に戻ったら俺の靴弁償しろよ、もう落ちないんだよお前の血が、まああれだけ蹴りまくってりゃ当然だけどな、せっかく苦しまないようにしてやろうと思ったのに、九ちゃん、ほら早く起きろ夜が明けちまうぞ、おい九ちゃん、明日朝一の授業雛川だから遅刻したらうるせェだろ学校行く前に靴をなんとかしないと八千穂もうるせェぞ見ろよこの擦っても拭ってもこびりついて取れなくて何度も何度も繰り返し重ねて踏みにじったお前の――

「皆守!」

 不意に、赤い悪夢が弾け飛んで。

――!」

 ものすごい力で、意識が浮上させられた。衝撃に見開いた目が、至近距離の黒い瞳と交錯する。絶句でも絶望でも、もちろん死体でもない親友の顔。

「九…」

 思わず発した声が、かすれて途切れて息の音になる。覗き込んでいた葉佩の眉が、心配そうに寄せられた。

「…大丈夫か? ものすごくうなされてたぞ」

 見てられなくて、起こしたんだけど。

 そう言う葉佩の向こうに、見慣れた天井が映る。ぎこちなく視線を動かすと、揺れるカーテンと白い衝立が見えた。――保健室。

「九ちゃん…」

 今度は上手く発音できた。おう、と葉佩はいつもの笑顔を浮かべてみせた。

「朝から調子悪そうだったもんな、大丈夫か?」
「…え」

 熱はないかと言いたげに額に手を当てられて、初めてひどく汗をかいていることに気づいた。呼吸が荒い。心臓が耳元にあるかのように、激しく早鐘を打っている。

 ――夢だ。夢だったのだ。

 ゆっくりと、皆守は息を吐き出した。思い出した。単純に午後の授業が気だるくて、誰もいないのをいいことに潜り込んだベッドだった。いつものサボりではなく、体調を崩しているように見えたのか。

 確かに、最近はラベンダーも効果がない。夢見が悪く、よく眠れず、原因はわかっているだけに堂々巡りになる。ここなら、保健医の香のおかげでましかと思っていたのだが。

 灼熱の幻を追い出して、皆守は部屋の外のざわめきを追った。触れている手が心地よくて、無意識に目を閉じる。ちゃんと血が通っている、生きている者の温度。いつもどおりの學園、いつもどおりの午後。紛れもなく、こちらが現実。

「ああ、大丈夫だ…」

 軽く肯定したものの、やはり語尾はかすれていた。まだ、うまく自我が取り戻せないでいた。

「わかった、怖い夢でも見てたんだろ」

 少しからかう口調で、葉佩が聞いてきた。その顔に、最期の笑顔が重なった。誰かの幻が点滅した。かすかに香る、紫の花の。

――ッ…!」

 息が詰まるような気がして、皆守は跳ね起きた。驚いた手をつかんで、そのまま引き寄せて抱きしめた。葉佩が呆気に取られたのは一瞬で、すぐ慰めるように肩を叩いてくる。

「よしよし甲太郎ちゃん、そんなに怖い夢だったのか?」

 今度は完全に揶揄が混じっていたが、皆守は何も言わず更にすがりついた。確かなぬくもり、脈打つ鼓動。まだ、彼は生きている。生きて、ここにいるけれど。

 あれはただの夢ではない、近いうちにありえる未来の図だ。今までどおり彼は残る扉を開いて、いずれあの灼熱の区画へ進入することになるだろう。共に行くのか、それとも一番奥で待ち受けるのか。どちらにせよ、自分は。

 ――何故。

「…お前が…」

 何故、このままではいられないのか。

「お前が、死ぬ夢だった…」

 吐き出すと、わずかに腕の中の身体が強張った。

「あら。化人にやられちゃった? それとも罠? 《生徒会》?」

 すぐに茶化すように、葉佩は首を傾げてみせた。次は生意気な後輩かな、弓道部の部長さんかな。意表をついて早くも阿門様だったりして。おどける葉佩に、皆守は答えられず腕に力を込めた。

 守ってやると誓った。いつの間にかそう思っていた。その感情に嘘偽りはなく、だからこそ、どうすればいいのかわからなくなる。脳裏に瞬く殺意はあまりにも矛盾していると思いながら、どこかでそれが当然だと思う自分がいるのだ。どうしてこうなったのだろう。いつからこうなったのだろう。あるいは、最初から決まっていたのだろうか。彼が転校してきた日に。屋上で、言葉を交わした時に。

「…とりあえず、まだ次の授業あるからさ。皆守はもうちょっと寝てろよ、顔色悪いし」

 ぽんぽんと再度肩を叩いて、葉佩が軽く身じろいだ。誰にでも向けられるその優しさを、今この瞬間だけとはいえ独占できている。皆守はゆっくりと腕の拘束を解いて、残った体温を噛み締めた。

 離れた彼が、もう一度笑う。大輪の花が咲くようなその笑顔を、近いうちに自分が壊してしまうのだ。あの暗い遺跡の奥で。むせ返る灼熱の地獄で。

「九ちゃん…」

 呼びかけると、立ち上がった葉佩が振り返った。そのまま黙り込んだ皆守に、きょとんと瞬きをして。

「ん?」

 言葉を促すように、見つめてくる。絡んだ視線と、貫く闇の色。全てを見透かすかのごとく、どこまでも深い黒曜石の瞳。

 何も言えず、目をそらした。視界の隅、ベッドの下に、無造作に脱ぎ捨てられた自分の革靴が見えた。地面に擦りつけるイメージ。何度も何度も何度も、血は拭えない。犯した罪は消えない。忘れられる、わけがない。

「…皆守?」

 夢の余韻に耐えられず、皆守は胸を押さえた。

「本当に大丈夫か?」

 ルイ先生呼んでこようか、と葉佩が心配そうに言う。今度は緋色が重なった。引きずり込まれるような気がして、皆守は無理やり微笑んでみせた。

「…ああ、誰かさんが夜な夜な連れ回してくれるからな。寝不足なだけだ」

 わざと、皮肉げに言ってやる。悪かったなと膨れる葉佩の、予想どおりの反応に安堵して、皆守はベッドに戻った。その刹那。

「しょーがねーだろ。頼りにしてんだから」

 何気なくつけ加えられた一言に、ぐっ、と息が詰まった。また、胸の痛みが来た。――頼むから。頼むから、もうこれ以上俺を。

「授業、終わったら迎えに来るよ。特別に地上最強カレー作ってやるから、一緒に食おうぜ」

 無邪気に手を振りながら、葉佩は保健室を出ていった。静かに、気遣って扉を閉める音がする。授業の始まるチャイムが鳴る。皆守は布団に潜ったまま、感情の嵐が過ぎるのを待った。その後に訪れる睡魔を恐れた。どうせ、自分は本能に流されるしかないのだ。

 ラベンダーが欲しくなる。埋もれてまみれて、ただ穏やかに眠りたいと思う。けれど香りも睡眠も、既に安らぎには成り得なくて。

 捕らわれて、堕ちてゆくのがわかる。浅い眠りの境界で、螺旋のように現実と虚構を繰り返す。空間が緋色に染まる。温度が上昇する。

 灼熱の幻の中央で、対峙する二人が見えた。第三者として夢に降りた皆守は、なす術もなく同調して取り込まれた。銃を構える親友と、悠然とアロマに火をつける自分。

 冷めた理性で、無意識が見せる夢を受け入れる。この幻影は、逃れられない未来を映す鏡なのかもしれない。だとしたら、今度は。

「九ちゃん」

 微笑んで、パイプを外す。その手で、自分を指して。

「今度は、お前が」

 ――俺を殺せ。











「黄昏螺旋」
20060204UP


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