Lovable Alian











 その日、皆守甲太郎はすこぶる機嫌が悪そうに見えた。

 いや、「見えた」というのは単純に、俺が第三者だからそう表現しただけだ。けれど不機嫌極まりない様子があからさまで、誰が見ても同じことを思っただろう。だからこの際、改めて断言することにする。

 その日、皆守甲太郎はすこぶる機嫌が悪かった。











「九龍クン」

 三限目の数学の後。俺が教科書を片付けてると、隣の八千穂が話しかけてきた。聞き慣れないそれに一瞬違和感を感じて、ああそうかと遅れて納得する。そうだった、名前で呼んでもいいかって聞かれたんだっけ。

 資金稼ぎに八千穂と取手に付き合ってもらって、遺跡に潜った昨日の夜のことだ。もちろん、二つ返事でOKした。彼女は嬉しそうに笑って、あたしのことも名前で呼んでね、って言ってきた。

 名前かあ。明日香ちゃん。九龍くん。いいよな、そうやって呼び合う関係。なんか青春って感じだね。

 拳なぞ握り締めて、思わず感動を噛み締めてみる。今まで日本の普通の高校生なんてしたことなかったもんだから、こういう學園生活は憧れだったのだ。八千穂、じゃなかった明日香ちゃんを始め、天香って可愛い女の子多いし。その点でもホント幸せ者だ俺。

 で、よかったら取手、いや鎌治! お前も俺のこと名前で呼んでくれていいぞ!って言ったんだけど、なんだか視線を外されてしまった。相変わらず細い声で、え、まだ早いよ、とかなんとか言われてしまう。よく見ると、どうもほっぺたが赤い。

 どうやら取手にとって、名前呼びというのはそんなに照れることらしい。時期尚早とかいって遠慮することらしい。まあ「まだ」早いって言ってるんだから、そのうち名前で呼んでくれるようになるだろう。そのときは俺も鎌治って呼び方を定着させよう。

 転校初日には、考えてもみなかったことだった。遺跡がどれくらいの規模か知らないけど、さっさと調査して切り上げてしまうつもりだった。素性は明かせないから孤独な仕事だし、秘密を隠したまま友達を作るなんて器用なことはできないし。大体友情なんて築いたが最後、ここを離れがたくなるじゃないか――そんなことを思っていたのに。

 今では遺跡の広さと、どういうタイミングだか「時期」が来ないと開かない次の扉と、初日にして俺の決意をぶっ壊してくれた明日香ちゃんに感謝してる。まさか、バディと呼べる友人たちがここまで増えるとは思わなかったけど。ある意味なし崩し的。

 とにかく、楽しい。本当は死と隣り合わせだってことも、それに巻き込んでしまってることも、忘れるくらい楽しい。プロ失格だと思わないでもないが、本当はバディ志願も丁重に断るべきだとは思うが、それでも。

 なんにせよ、別れの時はきっと卒業より早く来るに決まってるんだから。こうなったらなりゆき任せの刹那主義葉佩九龍、とことんまでこの學園生活を楽しんでやると密かな決意。

「なに、明日香ちゃん?」

 内心を隠して、俺は満面の笑みで答えてみせた。ちょっとだけ間をあけて、明日香ちゃんは照れくさそうに笑う。やっぱり可愛い。恋愛感情ではないけれど、その芽生えみたいなものはあるんじゃないかと思う。多分、お互いに。いやそんなこと言ったら、ヒナ先生とか七瀬とか白岐とか舞草ちゃんとかリカちゃんとかも同じ、ってこれはさすがに遊び人思考かな。自惚れかな。…反省。

「あのさ、皆守クンなんだけど」
「ああ…」

 笑顔を引っ込めた明日香ちゃんに、やっぱりか、と俺は頷いてみせた。教室の隅をちらりと見て。

 確かに気になってたんだ、あの不健康優良児。今も自分の席で机に両足を乗せて、目を閉じてアロマを吹かしている。今日はまだ一言も言葉を交わしてない。朝一応寮のドア叩いて、ガッコ行くぞって声はかけたんだけど、返事がなかったから放置してきたんだよね。

 皆守はいつもどおりの重役出勤だった。授業中にも関わらずがらりとドアを開けて、堂々と教室を横切って、どっかりと席について。教科書もノートも出さず、パイプをくわえて窓の外を見ている。

 おいおい先生も少しは注意くらいしろよと思ったら、数学教師は何事もなかったように黒板に向かっていた。なるほど、特別扱いってわけね。問題児皆守甲太郎、臭いものに蓋をされる。ラベンダー臭かったりカレー臭かったりするのは確かに事実か。

「…皆守くんってなんかこう、近寄りがたい雰囲気よね」
「うん、何考えてるかわからないっていうか…」

 ひそひそと囁く女子生徒の声に、俺は隣の明日香ちゃんと肩をすくめ合った。もう10月だってのに、いまだクラスに馴染めてない存在ってどうよ。俺なんて転校1ヶ月にして見てくれこの馴染みっぷり。そんなアイコンタクト。

「ねえ、あれはなんか怒ってる顔だよね皆守クン」

 内緒話のように顔を寄せて、明日香ちゃんは眉をひそめてみせた。うん、そうなんだよな。何考えてるかわからないってのは俺も同意できるけど、喜怒哀楽はわりと読める男だと思う。本当は優しくて世話好きで、案外いいヤツなんだってこともわかった。言葉や態度のせいで誤解されやすいけど、とにかく第一印象「近寄りがたい雰囲気」ってのはもう感じない。

 …まあ、今のヤツにはあまり近づきたくないけどさ。なんかこう、あからさまに不機嫌オーラがにじみ出てるんだよな。寝たフリして聞き耳立ててんのバレバレだぞ。そんなことを思いながら、目の端で皆守を見てたら。

「九龍クン、何かしたんじゃないの?」

 いきなり明日香ちゃんに言われてびっくりした。え、なんで俺。

「心当たりない?」

 …うーん、心当たりねえ。

 俺はちょっと首を傾げて、ここ最近の記憶を辿ってみた。皆守の機嫌を損ねるようなこと、何かしたっけか俺。あ、もしかして。

 留守中にカレー盗んでるのがバレたのかな。

 それとも売店最後のカレーパン、俺がゲットレして食っちまったのを根に持ってるとか。

 あるいはもらったカレー鍋、一度も使わず机の上のインテリアにしてるからとか。

 もしくはこの間一緒にマミーズ行ったとき、俺がカレー以外のもんを頼んだから?

「…えーと…」

 …見事にカレー関連しか出てこないってのもすごい。思わず頭を抱えると、明日香ちゃんが不思議そうな顔をした。

「あるんだ?」
「いや、ありすぎて…」

 呆れた。それぐらいしか思いつかなかったから、本当にそれらが理由だと仮定して、皆守に呆れた。

 でもまあどれも些細だけど、ヤツにとってはご機嫌斜めどころか、直滑降の勢いでどん底にさせる原因だったのかもしれない。カレー星人・皆守のことだから、なんだか納得できてしまうような気がした。

 そうか、皆守が不機嫌なのは俺がカレーを――って、違う! なんでだよ、俺か? 俺のせいなのか? 単にアイツがカレーに異様な執着を見せる、心の狭い男だって結論には達しないのか?

「おい、葉佩」

 一人心中漫才してたら、憮然とした声がかけられた。噂をすれば皆守だ。普段と変わりなく眠そうな半眼だが、どうも剣呑な光が見え隠れする。

「屋上、ちょっと付き合え」
「え、でももうすぐ次の授業」

 反論するも、有無を言わさず首根っこをつかまれた。猫みたいに襟持たれて、引きずられるように連れてかれる。な、なんか意外に馬鹿力だぞお前、その力こそ遺跡で発揮してくれ!

 少しだけ心配そうに、けれど励ますように、明日香ちゃんが微笑んだ。頑張ってね、そう小声でつけ加えて。

 ああ、なんか知んねーけど皆守の不機嫌は俺のせいなんだな。だから自分のしたことは自分で責任持って解決しないとなんだな。確かにこのままじゃ雰囲気だけで怖い。バディにしたくない。遺跡で会いたくない。むしろ友達とか言いたくない。なあ、プリクラ返上していいか?

 無言で階段を上がりながら(もちろん襟はつかまれたまんまだ)、俺はそんなことを考えていた。











 屋上には誰もいなかった。さわやかな秋風に、響き渡る四限目開始のチャイム。昼寝日和のいい天気だ。

 着くなり皆守は俺を放り出して、自分はさっさと給水塔にもたれかかった。アロマに火をつけて、ため息なんてついて。離れてる俺のところまで、風に乗って香るラベンダー。

 …あのさ、皆守。人間には言葉っつーコミュニケーション手段があるんだからさ。そんなじろりと睨まれたってわかんねっつーの。

 黙ってたら、ちょいちょいと手招きされた。犬か猫か俺は。仕方なく隣行って、同じように給水塔のそばに座り込む。

 しばらく、お互い無言だった。皆守はアロマパイプ持ってるからいいけど、俺はどうも手持ち無沙汰。だからってここでハントいじったら、更に機嫌悪くなるんだろうな。

 ほけっと、空を見上げる。墓地の木々がわずかに頭を覗かせているせいで、ここが大都会・新宿だということを忘れそうになる。皆守曰く、天香學園は「牢獄」らしいからな。「閉ざされた黄昏の町」とも言ってたっけか。詩人め、学校を指してその表現はどうかと思うぞ。

 沈黙の中、俺は隣を盗み見た。皆守は相変わらず流れてゆく雲を半眼で追って、アロマの煙を漂わせている。なんだっけ、初めて会ったときも思ったな。…コイツ、ここが嫌いなのかなって。

 ふとした瞬間に時々覗く、皆守のどこか遠い瞳を俺は知っている。それは授業中の教室だったり、こんな風に空を見上げてるときだったり、遺跡で戦ってるときに一瞬だけ交錯する視線だったり。

 乾いていて、何も映してなくて。その奥底にあるものを探ろうとすると、次の瞬間には目をそらされて、いつもの皆守甲太郎に戻ってしまう。そこで、彼のことを何も知らない自分に気づくのだ。よくつるんでるけど、遺跡では第一バディだけど、周囲の友達認定は受けてるけど、もちろん俺自身も友達だと思ってるけど。

 知りたいとは思えど、踏み込んだら突き放されそうだ。そんな予感がするのは、きっと気のせいじゃない。

 俺の視線に気づいているのかいないのか、皆守はラベンダーのため息を吐いた。近頃は俺からも同じ香りがすると、明日香ちゃんたちに言われた。それくらい、いつもそばにいる近しい存在なのに。

 …なんか、あれだな。すぐ隣にいるからこそ見えないというか、遠いというか。このカレー星人め。

「…葉佩」

 ぼんやりとこの間の異星人事件を連想したりしてたら、唐突に皆守が言ってきた。

「昨夜、潜っただろ」
「あ?」

 とっさに反応できなくて、思わず顔を上げる。視線は合わず、墓地の方に向けられているのに気づいた。ああ、遺跡か。

「潜ったけど」

 それが何だ? 質問の意図がわからず、俺はきょとんとしてしまった。夜の日常茶飯事で、皆守もそれを知っているはず。

「誰と」
「え、明日香ちゃんと取手」
「…なんで」

 どこかトゲのある言い方に、俺は少し怪訝な顔をした。なんでそんな問い詰める口調になってんだお前。

「なんでって…相変わらず新しい扉は開かなかったから、昨日は軽く金稼ぎで。これでも働く苦学生だよ俺、資金源が特殊なだけでさ。化け物狩ったり遺跡で食料調達したり、ちょっと特殊すぎるけど」

 軽い口調で正直に言うと、皆守は苛々とその癖っ毛をかき乱した。これは明らかに怒ってるときのポーズ。

「そうじゃなくて、なんで八千穂と取手なのかって言いたいんだよ」
「…へ?」

 勢い、間抜けな返事になった。なにそれ。そこに理由が必要なのか。

「単に、攻撃に役立つバディがいいかなって。強力だからな、明日香ちゃんの殺人スマッシュ」
「…取手は」
「取手も攻撃できるっしょ? あと精気くれたりもするし。蝙蝠やら蜘蛛やらミイラやら得体の知れない水槽お化けやらの精気だけど、これがまた効くんだよねー」

 そう言って笑っても、皆守は無言だった。だからなんなんだよお前、言いたいことがあるならちゃんと言えよ異星人。日本語話せんだろ。

「…そうか」

 それきり黙り込まれてしまって、次の言葉を待っていた俺は、吉本ばりにコケるリアクションを取るべきかどうか少し悩んだ。なに一人で納得してんだよ、まったく。

「そうか、じゃないだろ」

 業を煮やして、俺は少し怒った表情を作って言った。皆守がパイプを噛むのがわかる。そのまま、視線は合わさずに。

「…そうだな、俺はあまり役には立ててない。アロマを吸いながら、お前を見守ることしかできないからな」

 ぼそり、と呟くようにそう吐き出した。違和感を感じて、俺は思わず目を丸くする。え、なんだ、今の。聞いたことない声色。まるで――そう、拗ねてるみたいな。そんな感じ。

「皆守?」

 もう一度その声を聞きたくて、名前を呼んでみる。あ。ちょっと待て。よく、よく考えてみると。

 もしかしたら皆守をバディに誘わなかったのって、昨日が初めてなんじゃないだろうか。ああそうだ、初めてだ。え。えーと、なにそれ。なんだそれ。まさか皆守、お前。

「ひょっとして…」

 ――連れてかなかったから、不機嫌なのか?

 浮かんだ疑問を、ちゃんと言葉にするのはためらわれた。図星なら言い当てられて更に機嫌を損ねるだろうし、ふざけんなとか言って蹴りが飛んできそうだし。知ってんだ俺、コイツがその気になったらすげー怖いの。あの宇宙刑事とかすどりんとか、一撃で倒れ込んでたもんね。

 だからとりあえず、じっと見つめてやる。

 妙にカンのいいところがあるヤツだから、俺が言いたいことはちゃんと見透かしているのだろう。けれど皆守は目をそらしたまま、何も反論しなかった。ゆえに、それは事実だと思えてしまった。つまり、それって。

 それって、いわゆる嫉妬ってやつなのか。

 今までずっと一緒に潜ってたのに、急に外されたからか。自分を外してまで同行した、明日香ちゃんと取手に嫉妬ということなのか。…うーわ、嘘。マジで? 皆守が?

 たどり着いた答えに、俺は半ば呆然としてしまった。えーと、それがお前の不機嫌の理由? バディ要請されなかった、イコール役立たず認定された、そんな図式勝手に作って。あげく自己完結して勝手に拗ねて。

「お前…」
「…なんだよ」

 言葉にならない俺に、皆守は更に不機嫌さを増して眉を寄せた。突き放した口調、でもその真意は。

 ――ああもう、なんだコイツ。

 苦笑、するしかなかった。意識して外したわけじゃない、本当にたまたまだ。その証拠に、皆守を誘わなかったのは昨日が初めてだった、それに俺が気づいたのはついさっきのこと。

 馬鹿じゃねえの、と思った。馬鹿だ馬鹿。馬鹿すぎて、呆れてしまって、かえって笑いが込み上げた。ちょっとだけ、本当の姿が見えたような気がしたのだ。

 だって、妙に大人びてドライで他人なんぞ関係ないって顔してる、あの皆守甲太郎がよ? それって、まるっきりガキの思考回路じゃないか。なんか、可愛いと思ってしまうじゃないか。

「…よし、わかった」

 突然立ち上がった俺を、驚いて皆守が見上げてきた。それを見下ろして、わざと不敵に微笑んで。

「じゃあ皆守、今晩付き合え。朝まで付き合え。今までの区画、とことん探索してやる。二人っきりで!」
「な…おい、葉佩」
「夜食必要かな、現地調達でもいいけど…そうだこの際井戸でカレーパーティーやるか、お前にもらった鍋で」
「葉佩!」

 待て勝手に話を進めるなとばかりに台詞を遮られた。かまわず、俺は先手を打って告げる。役に立ってないわけないだろ。

「俺には、お前が必要だって」

 嘘じゃなかった。本心だった。遺跡で色々頼りになるとか、その他打算的理由を抜きにしても、心からの言葉だった。もちろんそう言える存在は皆守だけじゃないけれど、ここはあえて主語を強調しておく。

 俺の台詞に、皆守はおもしろいくらい絶句してくれた。鳩が豆鉄砲、そんな比喩を思い出して笑ってしまう。なんだよ、殺し文句なんだからもっと嬉しそうな顔しろよ。俺はずっとそう思ってたのに、言葉にしないとお前には伝わらないんだろ?

「…朝まではよせ」

 俺のにやけ笑いに気づいたのか、皆守は視線をそらして憮然と言った。今更強がったって遅いもんね。

「二人っきりもやめろ」
「なんでよ、親交深められそうじゃん」
「葉佩、お前な…」

 にっこり笑って首を傾げてやる。取手みたいに赤くなってないかなと思ったけど、表情に変化はなかった。ちッ、友情にまで嫉妬深いくせに素直じゃないなあ。強敵め、いつか陥落させてやる。

 で、勝手に夜の予定を立てて、そのまま昼寝としゃれ込んで。

 一晩中、皆守を連れ回してやった。ざまあみろ。











 ――ああ、眠い。

 誰かさんみたいな台詞を開口一番、俺は明日香ちゃんに挨拶した。おはようって九龍クン、遅刻だよ? そんな声を聞きながら、睡魔に耐えられず屋上に向かう。保健室でもよかったけど、今日も天気がいいし。昨日に続いて昼寝日和。

 駄目だ、夜遊びしすぎた。目が覚めたら、とっくに一限目が始まってる時間だった。ちゃんと皆守のことも頼りにしてんだぞって意思表示に、昨夜は遺跡をとことんまで探索しつくしてやったのだ。結局カレーパーティーはしなかったけど、朝まで遺跡。男二人で朝帰り。…笑うしかねえ。

 屋上には思ったとおり、先客がいた。さすが支配者だ。俺より登校は早かったみたいだけど、ここで昼寝してりゃ一緒だよな。

「おー、皆守」

 あくびを噛み殺しながら軽く手を挙げると、給水塔にもたれていたヤツがこちらを見た。お前、なんかすっきりした顔してんな。俺は睡眠不足だってのに、なんか釈然としない。ああそうか、戦ってたのは俺だけか。敵がいようがいまいが、お前はいつだってうとうと寝てるもんな。それに思いがけず助けられることもあるとはいえ、基本的にお前自身は何もしてないから――

「よォ、九ちゃん」

 …………………………はい?

 心の中で文句を並べ立てていた俺は、その瞬間に思わず固まった。え、あの、今、ものすっごく聞き慣れない単語が聞こえた気がしたんですけど。

「お前も昼寝か?」

 続ける皆守の表情に変わりはなく、けれどさっきの単語を反芻した俺は返事ができず、そしたら。

「九ちゃん?」

 フリーズ状態の俺を訝しんで、皆守がもう一度言った。間違いなく、俺に向かって言った。九ちゃん。九ちゃんて…なんだそれ!

 眩暈がした。ぐるりと視界が回転した。青空が見えた。

「おいっ、九ちゃん!」

 珍しく慌てたように、皆守が立ち上がるのがわかる。うわ、もういいってそれ恥ずかしいって、てかそんなあだ名初めて聞いたって、今までそんな風に呼ばれたことないって!

 睡眠不足の上、強烈なボディを食らってしまった気分だった。いっぱいに広がる空と雲に、ああ倒れたんだ俺、とぼんやり意識した。背中に当たる屋上の冷たさを、他人事のように感じてしまう。太陽が眩しい。

「どうした、大丈夫か?」

 引っくり返った視界に、皆守の心配そうな顔が覗き込んできた。なんだよお前、つい昨日まで普通に葉佩って呼んでたくせに。なんだよそのいきなり急上昇な親密度は、突然のステップアップは!

「お前…今何て言った?」
「? 大丈夫か?」
「いや、その前。俺のこと…」
「九ちゃん?」

 あっけらかんと、当たり前のことのように。

 そう、まるで随分昔からそう呼んでいたかのように。

 アロマパイプを口から外して、不思議そうに小首を傾げる皆守に、俺は完全に脱力してしまった。

「九ちゃんて…」

 呟いて、ただただ呆れる。まだ九龍って呼ばれた方がいい、むしろそう呼んでくれ。一文字あげくちゃん付けなんて、めちゃくちゃ仲がいいみたいじゃないか。いやそりゃ仲がいいのは悪いことじゃないんだけど、どうも慣れないというか照れくさいというか、ガラじゃないというか…ああもう!

 内心パニクりながら、取手もこんな気持ちだったのかなと想像してみた。名前で呼び合う友人関係は確かに憧れだ。でも、ちょっとこれは一足飛びすぎやしないか? 遺跡を探索しまくった昨夜のうちに、皆守の中で一体何が起きたってんだ?

 昨日から今朝にかけて、ちょっとはコイツのことがわかってきた気がしたはずなのに。

 駄目だ、やっぱり理解不可能。友情を育んだ分、更に遠く何億光年の彼方。

「ほら、九ちゃん」

 人の気持ちも知らず、皆守が手を差し伸べてくれる。おい待て、もう決定なのかその呼び方。たかが呼び名、されど呼び名。そこに友情と信頼の高さが表れてるなら、諸手を挙げて歓迎できるほど嬉しいこととはいえ――とはいえ。

 なんか、悔しい。何が悔しいって、予想外なのが悔しい。振り回されてる気がするのが悔しい。これで俺がコイツを名前やあだ名で呼んだら負けな気がする。何の勝負だかよくわからないけど、とにかく負けだ、負けなんだ。ちくしょう、一生名字で呼んでやる!

 わけのわからない意地を張りながら、俺はどこまでも秋晴れの空と、視界の半分を占拠する友人の顔を見た。逆光だけど、微笑んでいるらしいことはわかった。こんな優しい表情もできるんだ、おぼろげにそう思った。

 とりあえず、断言しておこう。昨日と違って、これは絶対。

 ――その日、皆守甲太郎はすこぶる機嫌が良かった。

 そんな、一日の始まりを。











「友情と距離についての考察」
20060223UP


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