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馬鹿な夢を見た。――それだけだったのだ。 悲鳴が聞こえて、俺はようやく我に返った。 息が荒い。鼓動がうるさい。思い出したように肩が痛みを訴えて、裂けた制服と赤く染まるシャツが見えた。弾丸がかすめた結果だが、大した傷じゃない。 部屋の隅で、誰かがすすり泣いている。ああ八千穂か、俺はふらついて壁に背を預けた。そういえば戦っている最中も、制止するような悲鳴を上げていた。ハンターの死亡を確認しました、抑揚のない機械音声がした。――うるせぇな、と思った。 目の前には、声もなく倒れた死体。終わった。終わったのだ。否、俺が終わらせたのだ。 「……九ちゃん」 呼びかけに、もちろん返事はない。俺は震える手でジッポーを取り出して、消えたアロマに火をつけた。 「俺は、忠告したんだ」 薄い紫煙で視界が曇る。燻らせたラベンダーは穏やかさを誘う香りなのに、動悸はちっとも収まらない。 正体を告白したとき、九龍は何も言わなかった。知っていたのか、俺の問いかけにただ微笑んだだけだった。いつから知っていたのか聞きかけて、やめた。もうここまで来たからには関係ない。事実は変わらない。 遺跡の最深部、炎が上がる玄室。俺が任されていた区画よりはマシだが、忘れていた温度が汗をにじませる。地面に落ちたそれを見送って、俺はもう一度声をかけた。 「なあ九ちゃん、黙ってないでなんとか言えよ」 うつ伏せに倒れている九龍の顔はうかがえず、ただ静かに赤い血が広がりゆくだけだ。なあ、恨み言の一つでもぶつけてみろよ。俺はお前を騙してたんだ。俺はお前を裏切ったんだ。 沈黙を守る九龍は、学園祭で行われた探偵喫茶を思い出させた。見事に『死体役』を演じてみせながらも、奴は俺の演技に笑いを隠せないようだった。 「似合わないな、皆守」 『死体』になっていた九龍は、誰にも聞こえないよう俺に囁いた。 「馬鹿、喋るな」 脈を調べるふりをして、俺もこっそり囁き返した。吹き出すのを堪える顔で、九龍は再度完璧な『死体』になった。 「九ちゃん……」 あのときと同じように笑ってくれれば、皮肉げに答えてやれるのに。この三ヶ月そうして過ごしてきたように、まるで仲の良い親友のように。 「……似合わないだろ、俺が生徒会副会長なんてな」 せめて詰って罵って、蔑んでくれればよかった。あの瞬間向けられた微笑に、全てが赦されたと錯覚した。敵として対峙しながらも、まだお前はそうやって笑ってくれるのかと。 気がつけば、九龍が倒れていた。何も考えず、その身体を抱き起こしていた。急速に失われてゆく腕の中の体温に、改めてその死を思い知る。閉じられた瞼はぴくりとも動かない。当然だ。これは演技でもなんでもない、本物の死体なのだから。 ぽたりと、九龍の頬に涙が落ちた。九龍が泣いているように見えたが、九龍であるはずがなかった。けれど俺じゃない。俺は、お前のために涙を流せる立場じゃない。胸の奥が鈍く痛む。覚えがある、これは喪失感に起因する痛み。 「皆守クン、どうして……」 虚ろに目を向けると、責めるように声を上げた女生徒が泣き崩れるところだった。頭がぼんやりしていた。何故非難されているのかわからない。何故彼女が泣いているのかわからない。 「……」 呼びかけようとして、呼びかける言葉を持たなくて、喉で絡んでくぐもった。何かが壊れかけているような気がした。それが理性や自我といったものならば、いっそ放棄してしまえば楽になれるのかもしれないと思った。姉が生きていると思い込んで、幻を作り出した取手のように。死という概念そのものを忘れて、代わりはいくらでもいると信じた椎名のように。 顔を上げると、いつの間にか長身の影が立っていた。阿門、と無意識に呟いた。俺を見下ろすその目には、なんともいえない感情が湛えられていた。低い声が何かを告げた。賛辞なのか同情なのか憐憫なのか、俺の耳には聞き取れなかった。 無言で九龍のゴーグルを外し、血に濡れたそれを差し出す。受け取った阿門が、同じく無言でゆっくりと頷く。ぼやけて歪んだ視界を閉ざす、既に見慣れた《黒い砂》。《宝》と引き換えに《墓》に縛りつけて、俺を《墓守》たらしめる抗えない呪縛。 これでいい。これで、俺はまた忘れる。自らお前を失った俺は、お前の命をしてもう一度、お前の全てと引き換えに。 次第に薄れゆく意識の中、小さな嗚咽を自覚した。ああやっぱり泣いているのは俺なのか、そう思って少し笑った。 わかっている。馬鹿な夢を見た。それだけだったのだ。 夢から覚めた俺は、また怠惰な日々を浪費するだろう。胸に痛みを抱えたまま、それが何なのかもわからずに。 「さよなら、九ちゃん」 血と涙で汚れた頬を撫でながら、俺は静かに目を閉じた。 お前がいない偽りの世界で、新たな夢を生産するために。
「あさきゆめみし」 |