爆発音がした。ぎゃあ、という悲鳴が聞こえた。どんがらがっしゃん、と何かがなだれ落ちる派手な音もした。穏やかな日曜日の朝、自室で惰眠を貪っていた皆守は、驚いてベッドから飛び起きてしまった。

 間違いなく、隣の部屋の騒音だ。何かと賑やかな隣室の住人は、休日も朝から何やらしでかしているらしい。まったく、安眠妨害にもほどがある。皆守は髪をかき乱して、苛立ちのまま廊下へ出た。

「おい九ちゃん、何やってんだ」

 ノックして声をかけてみるが、聞こえるのは呻き声だけだ。まさか怪我でもしたのかと、皆守はノブを回した。鍵はかかっていなかった。

「……九ちゃん?」

 視界に飛び込んできた部屋は、まるで嵐が通り過ぎたかのような有様だった。キッチンの棚が倒れ、鍋が引っくり返り、黒板消しが散乱している。呆気に取られていると、その黒板消しの山が動いた。

「皆守、窓開けて窓!」
「は?」
「早く!」

 がらがらと山が崩れて、焦った様子の九龍が覗く。何故か切羽詰まった声に、皆守はよくわからないまま部屋に上がった。途端に鼻を刺す、妙に癖のある甘い香り。

「また何か変な調合でもしてたのか?」

 顔をしかめながら、転がった物を踏まないよう足を踏み入れる。以前も九龍のせいで、男子寮はちょっとした異臭騒ぎになったことがあった。薬品類なら仕事に必要なのだろうとまだ納得できるのだが、原因が料理だったというから呆れることしきりだ。遺跡産の怪しげな食材で一体何を作る気だったのか、いまだに定かではない。

「ごめん、息、止めた方がいいかも」

 九龍は質問には答えず、咳込みながら言った。耐えられない刺激臭ではないが、甘ったるい香りは部屋全体に充満している。今更言われても遅ぇよと眉間に皺を寄せて、皆守は一番奥の窓を開けた。香りはすぐに、初冬の冷たい空気と入れ替わっていった。

 眼下の空き地では、男子生徒数人がサッカーをしているのが見える。どうやらクラスメートの連中が、模擬試合がある明日の体育のために無駄に張り切っているようだ。奴らも朝から元気だな、と皆守は目を眇めた。

「サンキュ、助かった……」

 這い出てきた九龍は、窓枠に身を乗り出して外の風を堪能している。その身体からさっきの残り香を感じて、皆守はアロマパイプを揺らした。

「で? 何の騒ぎなんだ、一体」

 唯一散らかっていないベッドの上に座り、じろりと九龍を睨んでやる。香りを払うようにぶるぶると頭を振っていた九龍は、ああうん、と視線を泳がせた。

「えーとまあ簡単に言うと、調合失敗して、んで爆発した」
「爆発って……何を調合しようとしたんだ」
「媚薬」
「……は?」

 告げられた単語に、皆守は思わず目を見開いた。なんでそんなものをと聞くと、調合レシピに載っていたから、という簡潔な答えが返ってきた。《宝探し屋》の好奇心は、ありとあらゆる方面で発揮されてしまうらしい。

「作り方にも色々あるから、全部試してみようと思ったんだけど。本来は液体状で完成するはずなのに、何故か気化して爆発したんだ」
「じゃあ、さっきの匂いは」
「そう」

 まったく悪びれる様子のない九龍の肯定に、皆守は今更派手に咳込んでしまった。それで息を止めろと言ったのか。部屋に充満したその成分を逃すため、窓を開けろと焦っていたのか。

「媚薬ってつまり、いわゆる惚れ薬か? 最初に見た人間に惚れてしまうという……」
「え、そうなの?」

 皆守が一般的な『媚薬』のイメージを口にすると、九龍は少し意外そうに首を傾げた。

「よく髪とか爪とか血とか入れるって言うから、てっきり俺、薬が完成した時点でその持ち主に惚れることが決まってるのかと思ってた」
「いや、どこの黒魔術だそれは」
「そっかあ。じゃ、失敗はそのせいだったのかな」
「……そのせい?」

 呆れて突っ込みを入れた皆守は、ぽつりと呟かれた言葉を聞き逃さなかった。

「お前、何か入れたのか」
「うん、髪の毛。俺の」
「……」

 ということは何だ、惚れる対象が九龍だと限定して調合された媚薬か?

 癖のある甘い香りを思い出して、皆守はまた咳込んでしまった。今のところ、自覚症状は特に何もないのだが。

「……吸っちまったぞ、さっき」
「あ、でも飛散したのは少量だから大丈夫、と思う。効き目も一晩で消えるし。多分」

 何やら頼りない口調で、九龍が慌てたように首を振る。そんなもの作ってどうするつもりだったんだ、と聞くのは無意味だろう。好奇心が満たされれば、彼はそれで満足なのだ。九龍がそういう人間だとわかっていながらも、皆守は苛立ちを隠すことができない。

 効果の程は定かではないが、被害者が自分だけならまだしも。――たとえば、もっと大規模な爆発が起こってしまっていたとしたら。

「……好奇心は猫をも殺す、ってことわざ知ってるか?」
「え?」
「もうちょっと、後先考えて慎重に行動しろ」

 忠告は我ながら低く、怒りが滲み出た口調になった。突然不機嫌になった皆守の様子に、九龍は戸惑ったように言葉をなくしてしまう。

「ご、ごめん」
「……いや」

 謝罪は珍しく弱々しげで、皆守はきつく言いすぎたかと内心で舌打ちした。ごまかすようにジッポーを取り出し、アロマスティックに火をつける。とりあえず吸ってしまったかもしれない媚薬の香りは、ラベンダーで中和しておこう。

「というか、害はないのか? ああそれに爆発したんだろ、怪我とかは大丈夫なのか?」

 フォローすべく聞いてみるが、九龍からの答えはない。窓のそばに立ったまま顔を伏せている彼に、皆守は違和感を感じて立ち上がった。

「九ちゃん?」

 訝しげに声をかけると、九龍は首を振って深く息を吐いた。どうしたんだと思った皆守は、今更ながら気がついた。

 調合に失敗した媚薬は、九龍の間近で爆発した。ということは、一番被害を被ったのは九龍自身ではないか。

「おい、自分で自分に惚れたとかいうオチは笑えないぞ」

 鏡を見てうっとりする九龍なんて嫌すぎる。想像してしまった皆守は、苦笑を浮かべて嘆息した。だよな、と微笑み返す九龍だが、目が所在なげに宙をさまよっている。

「まあ、ナルシストになるくらいならまだギャグで済むんだけど。そ、それよりなんか」
「なんだよ」
「……息が苦しい」
「なんだって?」

 訴える九龍の呼吸が、心なしか次第に荒くなっている。よく見ると顔も赤い。失敗したせいで何か健康を害するものに変化したのかと、皆守は心配になって手を伸ばした。刹那。

 九龍が過剰に反応した。びくりと身体を跳ね上げ、手が触れる寸前に身を引いた。あからさまに逃げる仕草に、皆守は思わずぽかんとして動きを止めてしまう。

「あ……ご、ごめん」

 窓際に張りついた九龍が、我に返ったように呟いた。無理やり作られた形の笑顔はどこか引きつり、泳いだ視線が皆守を捉える。熱っぽく潤んだその瞳に、皆守はどくんと鼓動が動くのを意識した。――なんだ、これは。

 自覚して、我ながら冗談じゃないと驚いた。確かに九龍のことは特別だと思っているが、それ以上の感情を抱いたことはなかったはずだ。そんな資格すらないのだからと、奥底に抑えて閉じ込めていたはずなのに。

「……九ちゃん」
「な、何?」
「もう二度と、こんな恐ろしい調合はするな」

 呟きは思いがけず、縋るような響きで落ちた。吸い込んだのはごくわずかだというのに、薬のせいだとわかっているのに、溢れる気持ちが止まらない。それは紛れもなく、度を超えた愛しさのようなもの。このまま手に入れてしまいたいという、欲望のようなもの。

「え、み、皆守?」

 衝動のまま、九龍の両手をつかむ。反射的に逃げようとする身体を、窓際に押しつけて拘束する。怯えた目で見つめてきた九龍の、どこか蕩けたような表情に、また大きく鼓動が跳ねた。大量摂取は催淫効果をもたらすのかもしれないと邪推した。今彼がその作用で恋をしたのは皆守ではなく、九龍自身だったとしても。

「……悪いが、きっちり責任は取ってくれ」

 耳元で低く囁くと、九龍は身体を震わせて凍りついた。その髪から、移ってしまったラベンダーの香りがする。パイプで吸う同じ花の香より、気化してしまった甘ったるい媚薬より、九龍から香る己の匂いに誘われる。その事実に、めまいがする。

「あれ、皆守?」

 そのとき突然、第三者の声が飛び込んだ。驚いて振り向くと、ドアのところに数人の男子生徒が立っている。

「……なんだ。何か用か」
「い、いやその、お前にじゃなくて」

 氷の視線で睨みつけた皆守に、彼らは少々怖気づいたようだ。だが早く出てけと言わんばかりの不機嫌オーラを感じながらも、彼らはそこから動かない。

「な、なんか急に……なあ?」
「そ、そうそう、急に葉佩が気になってというか」
「葉佩の顔が見たくなって、というか……」

 口々に言う生徒たちを睨んだまま、なんだそれはと皆守は眉を寄せた。よく見ると、さっき下でサッカーをしていたクラスメートたちだ。悟った途端、一人ずつ蹴り飛ばしてやりたい衝動にかられた。

 つまり、先程の危惧が現実になったということか。窓から流れ出た媚薬成分に、彼らも少なからず影響されてしまったのだ。

「あ、そうだ葉佩、よかったら一緒にサッカー」
「断る」

 顔を輝かせた一人が言い終わらないうちに、皆守は台詞を奪って全員を追い出しにかかった。文句を言い始める騒ぎにつられて、何事かと他の生徒たちも集まってくる。これ以上ややこしいことになってたまるかと、皆守は自らを盾にして、強制的に彼らを廊下へ排出した。その瞬間に。

 ばたん、と九龍の部屋のドアが閉まった。がちゃりと鍵のかかる音もした。生徒たちと一緒に廊下へ出ていた皆守も、当然ながら締め出されてしまった。

「……おい、九ちゃん?」
「ごめん、洒落にならないから明日カレーパンで責任取るっつーことで勘弁! 大丈夫、一晩で元に戻るから!」

 部屋の中から、半ば自棄になって叫ぶ九龍の声が聞こえる。呆気に取られた皆守は、ぽん、と肩を叩かれて振り返った。

「そうか、皆守でも振られるのか……」
「は?」

 納得したように頷くクラスメートたちに、皆守は思いっきり顔をしかめてしまった。なんでそうなるんだと言いかけるが、彼らは勝手に盛り上がっていて人の話を聞いていない。

「ならば俺たちにもチャンスはあるってことだ!」
「おお! そうだ、いっそ葉佩九龍ファンクラブを結成するか!」
「なるほど、抜け駆けはなしという協定だな!」

 風に乗って運ばれただろう媚薬が少量だったせいか、何やら変な方向へ話が進んでしまっている。いや、少量でこの効果だという恐ろしさに注目すべきか。

 とりあえず何もかも脱力して、皆守は盛大にため息をついた。知らず揺らしていたアロマパイプの、その残り香を追いながら。

「……畜生」

 悪態をついて、ドアの向こうを睨みつける。まだ騒いでいるクラスメートたちを、お前らとは違うとばかりに片っ端から蹴り飛ばしておく。

 この気持ちが一晩程度で消えてなくなるわけがない。そんな薬で左右されるほど生半可なものではない。九龍のせいで、ここまではっきり自覚した。明確に、鮮やかに。――己を偽れないほどに。

「明日は覚えてろよ、九ちゃん」

 カレーパンごときで懐柔されてたまるかと、皆守はドアに背を向けて笑った。











誘惑ラベンダー
20080420UP


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