階段の縁に乗り上げた九龍は、すぐにそうしたことを後悔した。まさかそんなにタイミングよく、誰かが通りがかるとは思わなかったのだ。 単純に、急いでいた。授業中の廊下は静かすぎて、踊り場に飛び降りるよりは効率がいいだろうと、縁を滑り台代わりにするつもりだった。午後の授業は既に始まっているが、急いで教室に駆け込んで、すみません屋上で寝ててチャイムに気づきませんでしたと正直に話せば、雛川も笑って許してくれるはずだと。 現れた人影を認めたとき、九龍は既に滑降し始めていた。ちょうど階下から上がってきた男子生徒が、振り向いて目を見開くのが見えた。 「……葉佩?」 ―――喪部だ。よりによって。 「ちょ、どけ!」 勢いを殺すこともできず、とっさに避けることもできない。驚く喪部の顔が迫って、なす術もなく、二人は正面衝突するしかなかった。否、単純に九龍が喪部に飛びかかったような図になっただけなのだが。 「悪い、喪部!」 ぶつかった衝撃にくらくらする頭で、九龍はとりあえず素直に謝った。内心で、対応できなかった己を叱咤する。予想外のハプニングとはいえ、《宝探し屋》にあるまじき失態ではないか。ていうか喪部の方も避けてくれればいいのに、お前もいわゆるお仲間じゃないのか、反射神経は大事だろうが! 廊下に押し倒す形になった喪部を真正面から覗き込み、上半身を起こして、彼の顔を確認する。自分の顔も手のひらで確かめると、九龍は無意識に安堵した。ああよかった、また入れ替わったりしたら大変だ。あげく喪部となんて洒落にならん。 「……キミにそういう趣味があったとはね」 心持ち顔をしかめながら、ふうん、と喪部が九龍を見上げてくる。何がだと眉を寄せたが、よく見れば九龍は喪部の腰辺りに馬乗りになったような体勢だ。慌てて退こうとすると、がしりと両足がつかまれた。 「どうせなら、ボクは押し倒されるより押し倒す方が好みだけど」 「……同感だ。お前こそ、そういう趣味でもあったのか?」 口角を上げる喪部に負けじと、九龍も笑って言ってやる。その間にも逃れようとしているのだが、拘束する喪部の力は恐ろしいほど強い。 「ああ、わかった」 九龍の挑発を軽くあしらって、喪部は更に口端を歪めてみせた。 「皆守甲太郎は、押し倒される方が好みなんだね」 「は? 皆守?」 「それとも、キミは騎乗位が好きなのかい?」 一瞬ぽかんとした九龍は、太腿を撫でられて即座に飛び上がった。そのまま、勢いで廊下の壁に張りついてしまう。 「ククク、なるほど」 喪部は面白そうに喉を鳴らし、ゆっくりと立ち上がって。 「なかなか調教しがいのありそうなじゃじゃ馬じゃないか」 「……いや、この場合の馬はお前の方じゃないか?」 怒りより先に呆れが勝って、九龍は思いきり脱力した。一体何をどう解釈したらそうなるんだ、ていうかなんで皆守がそこに出てくるんだ。もしかして二人は付き合ってるとかいう下らない噂を、喪部も耳にしたのだろうか。 「皆守にそんな話してみろ、問答無用で蹴られるぞ」 どことなく潔癖症でロマンチストなイメージがある親友を思い浮かべて、まったく、と九龍は嘆息した。笑みのまま、喪部が両手を広げてみせる。 「ボクはそうは思わないけどね。一度、彼に試してみるといい」 「試すって、何をだよ?」 「さっき、ボクにしたことさ」 訝しげな九龍の視線を受けて、喪部はわざとらしく首を傾げた。 「押し倒して乗っかって、淫乱に腰でも振ってみせればいい」 「ちょっと待て、俺はそこまでしてないぞ」 「きっと動揺するよ。取り澄ましたドライの仮面が剥がれるかもね」 気が抜けて突っ込むが、喪部の笑みは崩れない。転校初日から思っていたことだが、どうも彼とはいまいち会話が通じないような気がする。 「……とにかく、ぶつかって悪かった。それは謝っとく」 頭を掻いて、九龍はもう一度ため息をついた。んじゃお前も授業出た方がいいぞと言い残し、教室へ向かって廊下を駆け出す。背後で、喪部が笑う気配がした。 放課後になって屋上に戻った九龍は、定位置に皆守を発見して呆れてしまった。 コンクリートに仰向けになった姿勢と、のんきに熟睡する姿。約二時間前、昼休みが終わったときと何も変わらない。 五時限目が始まる前は、九龍もこの隣で惰眠を貪っていた。起こしても起きない親友に業を煮やし、フォローしてやらないからなと言い捨てて、自分だけ教室へ駆け込んだのだ。あれからずっと、彼はここで昼寝をしていたらしい。 「おーい皆守。ヒナ先生が職員室に来いってさ」 目が笑っていない雛川の笑顔を思い出して、九龍は隣にしゃがみ込んだ。少し呻いた皆守が、気だるげに瞼を持ち上げる。 「面倒臭ぇ……」 それだけ言うと、ごろりと寝返ってしまった。また聞こえてきた静かな寝息に、九龍は思わず苦笑する。 「今度呼び出し無視したら、課題出すって言ってたぞヒナ先生」 熟睡されてしまう前に、担任の言葉を告げる。どうせ下校のチャイムが鳴れば、皆守も起きて寮へ帰らざるをえないのだ。それにこの時間になると、さすがに屋上は肌寒い。 「……課題? 知るか、そんなこと……」 目を閉じたまま、皆守が邪険にあしらった。相変わらずだな、と九龍は苦笑を嘆息に変える。教師に何を言われても、暖簾に腕押し糠に釘という彼の態度が、いわゆる『ドライ』という評価につながっているのだろう。 「……ドライ、ねえ」 平和そうなその寝顔を眺めながら、九龍はぽつりと呟いた。 世間一般的な皆守のそのイメージは、繕った仮の姿だと九龍も思う。そういうふりを装っているだけで、実は世話好きで友達思いの熱い男だということは重々承知だ。眠そうだったり不満げだったり、そんな印象が強い表情も、最近では時折見せてくれる柔らかい笑みに打ち消されている。 記憶を辿ると、皆守が本気で焦ったり狼狽したりした様子は、今まであまり見たことがないような気がした。せいぜい、九龍の言動にぽかんとした顔をする程度ではないだろうか。 ―――きっと動揺するよ。取り澄ましたドライの仮面が剥がれるかもね。 脳裏にふと、喪部の言葉が蘇る。深く考えず、九龍は寝ている皆守の腰を跨ぐように乗り上げてみた。どうせ起こすついでだ。 「……九ちゃん?」 皆守が緩慢に片目を開いて、胡散臭そうに九龍を見上げてくる。 「何をやってるんだ、お前は」 「動揺した?」 「なんだそれは。どうでもいいが重い、どけ」 「一応これ、騎乗位の姿勢なんだけど」 「きッ……あのな、九ちゃん……」 一瞬絶句した皆守は、すぐにがしがしと癖毛をかき乱して嘆息した。返す言葉に困っているだけで、動揺しているわけではないようだ。 「スキンシップも程々にしろ、度が過ぎると単なる攻撃だぞ」 「攻撃ってなんだよ。うーん、駄目か。やっぱり喪部の言うとおり、淫乱に腰を振らないと」 「喪部?」 その名を聞いた途端、皆守の声が一気に低くなった。寝起きの茫洋とした瞳に、鋭く刺すような光が浮かぶ。九龍はそれに気づかないまま、悪びれずに笑って。 「ああ、たまたまあいつとこんな感じの体勢になったんだよ。皆守にも同じことしたら動揺するかなって……わ」 「へえ」 唐突に、皆守が上半身を起こしてきた。傾くバランスに合わせて倒れかけた九龍は、背中に回された両腕でがっちり支えられる。 「喪部にもこうやって襲いかかったのか、お前は」 「いや、別に襲いかかったわけじゃ……って近!」 壁にもたれた皆守の上で、半ば無理やり抱きしめられている姿勢は、なんだか親に抱っこされている子供のようだ。あげく、何やら不穏な笑みを浮かべた顔が目の前にある。 「じゃあ、動揺してやるから腰触れよ」 「そ、それは何か違うだろ! ていうか何この体勢!」 両手を突っ張って、九龍はなんとか距離を取ろうとした。うろたえる皆守の様子を揶揄するつもりが、逆にこちらの方が狼狽させられている。からかわれているだけということはわかっていたが、それでも九龍は自制できないまま、恐ろしく動揺している己に気がついた。 だ、だってこれ、騎乗位通り越してるというか、密着度が高いというかあからさまというか、とにかく露骨すぎるんだって! 意識すると、頬が熱くなっているのが自分でもわかる。九龍から抱きついたりすることは日常茶飯事だったが、皆守が積極的に触れてくることはあまりなく、その事実が余計に動揺を誘う。面白そうに見上げる鳶色の瞳も、笑みを浮かべる唇も、何もかもが近すぎて。 「……九ちゃん」 ふいに皆守が囁いて、手のひらを九龍の背に滑らせた。ラインを確かめるように、肩から背骨を下りて腰へ―――。 「う、ぎゃあああッ!」 今度こそ悲鳴を上げて、九龍は跳ぶように皆守から逃げた。勢いで何度か後転し、後ろ手と尻餅をついた状態で絶句する。 「な、な……ッ!」 何しやがんだ、という言葉すら出てこない。ぱくぱくと口を動かすだけの九龍を、少し目を丸くして見ていた皆守は、やがて盛大に吹き出した。 「あっはっは! 何て顔してんだ、九ちゃん!」 皮肉げでもなく、柔らかく儚げでもない、心底楽しそうな笑い声。初めて見るその表情を、九龍は呆然と見守った。 「そんなに大げさに反応するようなことか?」 「え、や、だって……」 笑いが止まらないらしい皆守に、何も言い返すことができない。皆守はひとしきり笑うと、やがて立ち上がって手を差し伸べてきた。優しく慈愛に満ちた、あの微笑で。 「ほら、帰ろうぜ。もうすぐ下校の鐘が鳴る」 「あ、うん……」 半ばへたり込んでいた九龍は、素直にその手を借りて起き上がった。そこでまた思い出したのか、皆守が面白そうに口角を上げる。 「初めて見たな、お前のそんな顔。写真でも撮っておくべきだったか」 喉を鳴らして、耐えきれずに破顔する。さっきと同じ屈託のない、無邪気な年相応の笑顔だ。九龍は仏頂面になりながら、心の中で文句をぶつけた。 ―――その台詞、そっくりそのままお前に返してやるよ。 「たまには反撃してみるもんだな」 「……なんだよ反撃って」 「九ちゃんがスキンシップと称して俺に仕掛けてくる攻撃を、同じように返してやるだけだ」 「だから攻撃じゃねぇよ、純粋な愛情表現だぞ!」 「わかったわかった」 適当にあしらいつつも、皆守はまだ笑っている。九龍は憮然としたまま、まあいいけど、と深く息を吐いた。 早鐘を打つ己の鼓動は、なかなか落ち着いてはくれなかった。
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