次の扉に手を掛けた九龍は、そこでふと気がついた。

 戦闘を終えた後、普段なら皆守がすぐ後ろに来てくれるはずだ。敵影消滅の《H.A.N.T》音声とほぼ同時に、九龍の邪魔にならない位置から、さりげなく守るようにして。

「皆守?」

 扉に手を添えたまま、九龍は振り向いて声を掛けた。部屋の中央で立ち止まっていた皆守が、我に返ったように顔を上げる。その表情に、九龍は少し首を傾げた。

「どうかした?」
「あ……いや」

 どこか曖昧な笑みを浮かべて、なんでもないと皆守が言う。九龍はきょとんとしながらも、気を取り直して扉を押し開けた。次の部屋に化人はおらず、《H.A.N.T》が別区画への移動を告げただけだった。

 今夜のバディは皆守一人だ。もう一人は取手を誘っていたのだが、急に体調が悪くなったらしく、こちらが申し訳ないくらい平謝りのメールが来た。探索目的はギルドの依頼品入手のみで、二人でも問題はない。予定どおり決行とばかりに九龍は皆守を連れ、いつもどおり最初の部屋から順に踏破してきていた。

 眠いだるいの文句を言いつつ、皆守は相変わらず的確に九龍をサポートしてくれている。先程も死角から来た化人の攻撃を、彼がとっさに蹴ることで助けてくれた。その洞察力や反射神経に、九龍は何度も感謝している。蹴り飛ばすという、かなり乱暴な方法が難点ではあるが。……そりゃ《宝探し屋》たるもの、一般人よりは丈夫だけどさー。

 もう少し優しくしてくれればいいのにと思いながら、九龍は足を踏み出そうとして止めた。皆守が立ち止まったまま、まだ追ってこないのだ。まさか先程の戦闘で、何か怪我でもしたのだろうか。

 その可能性に思い当たり、九龍はもう一度振り返った。何やら小さく嘆息してから、皆守がゆっくりとこちらに歩き始めるのが見える。ひょこ、と不自然に跳ねる左足。

「……足」

 一目で判断して、九龍は顔を強張らせた。あれは明らかに負担を掛けない歩き方だ。

「怪我したのか」
「いや」

 皆守が即答する。それでごまかしているつもりかと、九龍は眉をしかめて駆け寄った。

「見せてみろ」
「……」

 短く告げると、皆守は少しばつの悪そうな顔になった。癖毛をかき乱して、大したことはないなどと呟いて。

「捻っただけだ。歩けないことはない」

 やっぱりか、と九龍は思わず舌打ちした。恐らくさっきの戦闘中、無理な体勢から九龍を蹴ったせいだろう。

「井戸に行こう。ほら、支えてやるから」

 言って、九龍は手を差し伸べた。魂の井戸と呼ばれる治癒の場所は、擦り傷から重度の怪我まで一瞬で治してしまう。骨などに異常はなさそうだが、寄った方がいいだろう。

「いやいい、大丈夫だ」

 懐に潜るようにしてその左腕を首に掛けさせてやると、皆守は少し慌てて逃れようとした。む、と九龍は眉を寄せる。

「大丈夫じゃない、引きずってただろ」
「多少痛む程度だ、一人で歩ける」
「無理するなって」
「してない」

 既に化人は殲滅しているし、井戸の部屋まで戻るのもそんなに遠くはない。半ば無理やり背中に手を回した九龍に、皆守が予想外に抵抗した。さすがの九龍もとっさに支えきれず、バランスを崩して。

「わ、ちょ」
「ッ!」

 足を踏ん張って持ち直そうとしたが、皆守ともつれ合うようにして遺跡の床に倒れ込んでしまった。後頭部を打ちつけて呻く九龍の上に、遅れて皆守が覆い被さる。……ああもう、何やってんだか。

「ったく……お前が変に動くからだぞ」

 少しくらくらする頭で苦笑して、九龍は視線のすぐ下の癖毛を睨みつけた。顔を上げた皆守が、至近距離でぱちりと瞬きをする。

「……悪い」
「へ。ああ、いや」

 短く謝る真剣な表情と、間近で動いたラベンダーに、九龍は少し動きを止めた。思いのほか思考を酩酊させる、甘く優しく柔らかな香り。

「だ、大丈夫か?」
「ああ」

 無理やり笑顔を作ってみせるが、皆守は頷いたきり動かない。いや退いてくれないと起きられないんですけど、と九龍は笑みを引きつらせた。

「悪かった。九ちゃんこそ、怪我はないか?」

 気遣うように囁く声が、低く耳朶をくすぐってゆく。更にふわりと微笑まれて、九龍は心臓が跳ね上がるのを感じた。

 およそ皆守らしくないその顔は、最近よく見せてくれるようになった表情だ。恐らく、まだ九龍にしか向けられたことがないだろう。それは無防備で無意識な感情の表れであり、皆守の素直な気持ちであり、心からの笑顔であり―――

「おお俺は大丈夫、それよりえーと、重いです皆守さん」

 妙な雰囲気を払うべく、九龍は引きつった笑顔のまま身じろいだ。何故か早鐘を打つ己の鼓動を自覚して、内心で必死に否定する。意識する方がおかしい、相手は親友でそもそも男だ。断じて自分にそんな趣味はないはずなのに、花の香りや触れた体温、熱を帯びているようにも見える眼差しが。

「九ちゃん」

 ふいに頬を撫でられて、九龍はびしりと硬直した。なんでそんな声で呼ぶんだ、てかなんでそんな風に触ってくるんだ、そう言おうとした言葉が喉で詰まる。喘ぎにも似た呼びかけが、吐息混じりに鼓膜を震わせる。皆守の手のひらが頬を滑る。視線が逸らせない。魅入られたように動けない。

「……なんて顔してんだよ」

 ふ、とまた微笑まれた。それは俺の台詞だと反論する暇もなく、すぐ乱暴に頬を引っ張られた。知らず凍りついていた九龍は、いきなりの痛みに悲鳴を上げる。

「いってぇ、何すんだよ!」

 勢いで皆守を突き飛ばし、つねられた頬を押さえると、痛みが鈍く主張してきた。……うわこいつ今、思いっきり引っ張りやがった!

「九ちゃんが変な顔してるからだ」

 涙目の九龍に構わず、皆守は面白そうに笑っている。何だその理由と憤慨するが、彼は揶揄と皮肉混じりに口角を上げるだけだ。何事もなかったかのように立ち上がる姿を、九龍は恨めしげな目で見送った。

 ジッポーを取り出し、アロマスティックに火をつける優雅な仕草は、普段の皆守と何も変わりない。それを眺めながら、九龍もため息混じりに身を起こす。

「とにかく、さっさと井戸行くぞ」
「……ああ」

 ぶっきらぼうに応えた皆守が、ゆっくりとラベンダーの吐息を吐いた。わけもわからずつねられた理不尽な怒りは残っているが、そういう態度の方が彼らしいと、九龍はどこかで安堵もしていた。

 ―――あんな皆守は知らない。あんな顔も、あんな声も、まるで壊れ物を扱うかのような触れ方も。

 まだ痛みの残る頬が、じんじんと熱を訴えてくる。九龍は余計な思考を振り払い、もう一度皆守の懐に潜り込んで、今度こそ支えてやるべく肩に手を回した。

 何かに耐えるように、皆守が固く目を閉じたことには気づかなかった。











Fragile
20090821UP


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