こんこん、とノックの音がした。 カレーレシピを熟読していた皆守は、反射的に雑誌から顔を上げた。九龍もパソコンから目を離し、きょとんとして同じ方向を見ている。視線の先は廊下へ続くドアではなく、その逆側、カーテンが閉められた窓の外だ。 「……おい、九ちゃん」 「ん」 「お前の部屋は、いつからそっちが出入口になったんだ?」 ため息混じりに携帯を出して時計を見てみると、午前零時前。いつの間にかとっくに消灯時間も過ぎていたらしい。 探索に出かけない夜、皆守はこうして九龍の部屋に入り浸ることが多かった。既に習慣と化しているだけで、特に何か用があるわけでもない。協会へのレポートとやらを作ったり、調べものをしたりする九龍を見守りながら、たわいのない雑談を交わすだけだ。 今日も夕食後、グルメ雑誌を手に九龍を訪ねた。暇さえあれば自室で寝ていた以前を考えると、随分と心を許してしまったものだと自分でも呆れる。今や睡眠よりラベンダーより、彼の隣に安らぎを見出しているのではないかと自嘲するほど。 こここん、とまたノックの音がした。首を傾げていた九龍が、何やら合点したように立ち上がった。 「ああ、うん。こっちをドアにする人もいるってことで」 「……三階だぞ? もしかして、亀急便ってやつか?」 仕事が早すぎてその姿を見たことがない、宅配業者のことを思い出す。寮に届く荷物は管理人が一括で受け取っているが、九龍の場合は武器や爆薬など物騒なものが多いので、直接部屋に届けるよう頼んでいるらしい。ネットで非合法なものを扱っている業者だ、どうせ常軌を逸した手段でここに来ているのだろうと思っていたが。 「ううん違う、あれだ。えーと、闇討ち」 「は?」 それを聞いてまだ残っている《生徒会》の面々が浮かんだが、そんなことをする連中ではないとすぐに否定した。しかしファントムのこともあるし、九龍が敵対しているという組織の存在もある。とはいえ。 「近頃の闇討ちは、ノックして訪ねてくるのか?」 カーテンに手をかける九龍を見て、皆守は少し眉を寄せた。 「ああ間違えた、闇討ちじゃなくて……何て言うんだっけ」 言いながら開かれたカーテンの向こうは、暗闇で何も見えない。皆守はしかめ面のまま、無意識に警戒を強くした。何にせよ三階の窓から訪ねてくる相手など、ろくなものではないだろう。九龍は気にした様子もなく鍵を回し、そして。 「ハローベイベーお兄さんが夜這いに来ぐはッ!」 「失せろ」 窓から現れた男に、皆守は電光石火の足蹴りを食らわせていた。その素早さに九龍が驚いているが、構っていられない。 自称私立探偵、鴉室洋介。行方不明の生徒を探すためこの學園に入り込んでいるらしいが、胡散臭いことこの上ない男である。九龍に興味を持ち、更に好意まで抱いているのが非常に気に食わない。 「く、首が……って無気力少年じゃないか、なんでここに?」 一撃で昏倒したと思われた鴉室は、なんとか窓枠に張りついたらしくすぐ立ち直った。皆守はそれを睨んで、くわえていたアロマパイプを噛む。 「おっさんこそ、夜這いってどういう意味だ」 「いやまあそれは言葉のあやというものでわはは」 「やっぱり鴉室さんか、どうしたんですか?」 不機嫌極まりない皆守と、笑ってごまかしている鴉室をよそに、九龍はにこにこと笑顔を浮かべている。皆守はそれも睨みつけて、無言で窓を閉めようとした。 「悪かった、悪かった無気力少年! ちょ、ちょっと待ってくれって!」 鴉室が慌てて窓に縋り、情けない顔でわめいてくる。 「ほら今日、めちゃくちゃ寒いだろ? 俺機関室で寝泊まりしてるんだけど、もう凍死しそうでさ!」 「知るか」 「うわああ閉めないで話を聞いてー!」 言い合う間にも、窓の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。確かに暖房器具も何もないあんな場所で、朝まで過ごすのは辛いだろうが。 「で、話って何ですか?」 どう追い払おうか考えている皆守の横から、ひょいと九龍が割り込んだ。鴉室があからさまに顔を輝かせる。 「機関室はもう無理、正に冷凍庫状態。だから今夜一晩だけでも、ここに泊めてくれちゃったりなんかしたりしないかなーって」 「……調子に乗るなよ、おっさん」 うかがうような鴉室の言葉に、皆守は低い声で言い放った。そもそも彼は不法侵入者だ。警察に通報しないだけありがたいと思え、そう言外に殺気を込める。 「まあ、確かに寒いですからね。一晩だけなら」 「マジか九龍君!」 皆守のどす黒いオーラに気づかないのか、九龍はあっけらかんと了承した。おい九ちゃん、と皆守は慌てて腕を引っ張って。 「この部屋には銃だの爆弾だの、見つかったらやばいものが盛りだくさんだろうが」 「ちゃんと隠してあるし、簡単には盗めないようにしてあるから大丈夫だよ」 「……妙なオーパーツは。突っ込まれたらどうする」 「ちょっと変わった収集癖のある男子高校生ということで」 「あのな……」 どう考えてもちょっとでは済まないだろう、と皆守は癖毛をかき乱した。ひそひそと小声で話し合うその間に、鴉室は靴を脱いで嬉しそうに部屋に上がり込んでいる。 「やっぱりあったかいねえ、幸せだねえ、文明の利器最高……!」 窓を閉めた鴉室は、室内温度に本気で感動しているようだ。サングラスの奥にうっすら光る涙まで見えて、さすがの皆守もほんの少しだけ、気の毒になってしまった。 九龍のことだ、このままでは同情して本当に泊めてやりかねない。いや、本人が大丈夫だというなら皆守が口を出すことではない、ないのだが。 「つってもどうするんだよ九ちゃん、コイツを床に寝かせるのか?」 「うーん、予備の布団ないし……狭くなるけど、ベッドで二人一緒に」 「駄目だ!」 半ば遮るようにして、皆守は思わず怒鳴りつけてしまった。あまりの剣幕に驚いている九龍に気づき、ああいや、と頭を掻く。 「あー……おっさん。身長いくつだ」 「へ。182」 「こんな大男と一つのベッドなんて、布団を取られて落とされるのがオチだ」 もっともらしく理由をつけて、鴉室をドアの方へ追いやりにかかる。そんなに言うほどでもないでしょー、などと言われた文句は聞き流した。 「一晩くらいいいじゃんか。別に俺が床でもいいし」 「それじゃ九ちゃんが風邪をひく」 「でも放っておけないだろ」 本気で鴉室を心配しているらしい九龍に、皆守は盛大にため息をついた。優しいところが彼の長所だが、優しすぎて自身すら犠牲にしかねないのが難点だ。 「誰も放り出すとは言ってないだろ? おっさんには俺の部屋を貸してやる、一人で寝ろ」 「え」 予想外だったのか、抵抗していた鴉室がぴたりと動きを止めた。え、と九龍も目を見開く。 「え、じゃあ皆守は?」 「俺がここで寝る。それでいいだろ」 少なくともコイツよりは場所を取らないだろう。そう主張すると、まあ確かにと九龍はあっさり納得した。何か言いたそうな鴉室を無視し、皆守は内心で胸を撫で下ろす。この男と二人きり、まして同衾などさせてたまるかという、心の内は読み取られていないようだ。 「えー、無気力少年の部屋か……」 「嫌なら出てけ」 「いやいや、なんつーかラベンダー臭そうでなあ」 「安眠効果をもたらすアロマだぞ、よく眠れるじゃないか」 ぶつぶつ言い続ける鴉室を廊下へ出し、隣の自室に移動して鍵を取り出す。部屋を提供してやるのは癪だが、九龍と一緒にするよりは断然ましだ。ドアを開けてやると、ふと鴉室が口元を緩めるのがわかった。 「ま、ともあれ助かったよ」 「……勝手にそこらの物触るなよ。あと、煙草も吸うな」 「了解。んじゃ、九龍君によろしくな」 肩をすくめる鴉室に無言の圧力を掛けながら、皆守は扉を閉めようとした。その寸前で。 「そうそう少年」 思い出したように、鴉室がにやりと笑う。 「一緒のベッドだからって、襲ったりするんじゃないぞ」 「な」 「九龍君の喘ぎ声が聞こえちゃったりしたら、お兄さん眠れなくなっちゃう」 「ッ!」 ぶん、と反射的に繰り出した蹴りは、とっさに閉められたドアによって阻まれた。おやすみ無気力少年、と鴉室の笑い声がする。 「……とっとと寝ろ!」 怒りの行き場をなくして、皆守は扉越しに怒鳴りつけた。二、三度ドアを蹴ってやろうかと思ったが、精一杯の理性で制御しておく。 大体、自分はそんなつもりで九龍の部屋で寝ると言い出したわけではない。とりあえず鴉室を追い出したかっただけだ。というかあの男は何を考えているのか、喘ぎ声とは何だ。単なる想像だとしても許せない、九龍のそんな声など―――。 「皆守?」 「!」 掛けられた声に、皆守は大げさに跳ねた。隣室の扉から、九龍が不思議そうに顔を覗かせている。 「なんか、すごい音がしたんだけど」 「あ、ああ……いや、なんでもない。気にするな」 「そ? んじゃ、俺らも寝ようか」 「寝……ッ」 何気ない九龍の発言が、よからぬ妄想を連れてくる。皆守は慌てて振り払って、脳内で鴉室を足蹴にした。本当にそんな気は一切なかったというのに、完全に奴のせいだ。 まさかさっきのあの発言は、それを狙った仕返しなのではないだろうか。苛立ちを抑えつけて、とにかく鼓動を落ち着かせるべく、消えていたアロマに火をつける。だが精神安定剤であるラベンダーも、浮かび上がる想像を追い払ってはくれない。 同じベッドで、すぐ隣で、九龍が無防備に眠る。子供のような寝顔、安らかな吐息、薄く開いた唇、微妙に触れる体温。 ―――そうして全てを過剰に意識してしまった皆守は、一晩中眠れずに、頭を抱え続けることになる。
冬窓カラミティ |