目的が同じならば、と彼は言った。
静かに優しく、森は夜を迎えていた。
少し離れた木々の向こうに、焚き火の赤い光が見える。時折仲間たち
の笑い声が風に乗り、満天の星空に吸い込まれてゆく。
魔物の城、デスパレスへの道中。
ユーリルは一人野営場所を離れ、湖のほとりに座り込んでいた。
満天の星空、頭上高く輝く満月。いつかもこうして、一人夜空を眺め
たことがあった。あれは導かれし八人が初めてそろった、ハバリアの夜
だっただろうか。それともイムルの夢を忘れようとした、ガーデンブル
グへの旅路か。世界樹を後にした、ロザリーヒルへの出立の朝か。
いずれにしろ不安だったのだ、とユーリルは思う。素晴らしい仲間た
ちを得て、そのリーダーが自分などでいいのかという疑問。あれほど憎
んだ魔族の青年が、自分と同じように一人のエルフを愛していた違和感。
――そして、世界樹の花。
千年に一度咲くというその花は、妖精族の魂でさえも呼び戻すという。
ロザリーという名のエルフのために、八人は長い洞窟を抜け、正体不明
の二人の男と対峙し、再び世界樹を登り。
花を手にして、仲間たちは大喜びだった。人間の欲望に殺されたロザ
リー、そのせいで憎しみを増大させた魔族の青年ピサロ。この花が、二
人を救ってくれると信じて。けれど。
ユーリルが複雑な思いでそれを見ていたことには、気づかなかったよ
うだった。
確かにユーリルも、二度目に見たイムルの夢には、同じ人間に激しい
怒りと憎しみを感じた。ピサロに共鳴し、ロザリーを悼み、二人の運命
に涙した。ピサロが倒すべき自分たちの敵だと知りながらも、同調せず
にはいられなかったのだ。花の存在を知ったときは仲間同様、ロザリー
を生き返らせてあげたいと思った。ピサロのためではなく、ロザリーの
ために。
無言で夜空を見上げていたユーリルは、うつむいて湖面に視線を落し
た。満月で照らされた自分の顔が、水面に浮かんで揺れている。あの日
途方に暮れて森をさまよっていたあどけない少年は、度重なる戦闘と課
せられた使命に、立派な『勇者』へと成長した。
勇者。――そう、勇者なのだ。
世界でたった一人の救世主。闇を砕く力を持つ光、人々の希望。だか
らユーリルの存在は、ユーリルだけのものではない。だから、だから。
だから、僕は。
突然、一際大きな笑い声が木々の向こうから響いた。ユーリルは驚い
て、腰掛けていた岩から思わず滑り落ちそうになる。森に反射する焚き
火の灯りを見やると、そこだけ穏やかな空間が作られているような気が
した。神聖な何かに守られた、尊い結界のように。
恐らく、またマーニャかトルネコがパノン仕込みの冗談でも言ったの
だろう。連続して続く明るい笑い声に、ユーリルは知らず微笑んでいた。
一人になりたいから、と断って野営場所を離れて歩いてきたのだが、一
人になるとかえって仲間が恋しくなるではないか。
帰ろう。一息ついて、もう一度水面の自分を見つめて、顔を上げた。
その時だった。
感情を読ませない、氷の視線。
ユーリルは振り向いた。殺気にも似た眼差しに、腰の剣に知らず手を
かけていた。しばらく、無言で相手を見つめ返す。
少し離れた場所に立っていたのは、予想通りピサロだった。
野営の場所を決めた後は、彼は大抵別行動を取っていた。恋人に会い
にロザリーヒルへ帰っているのではないかと、仲間たちは特に気にして
いないようだったが。
「やっぱり落ち着かないんじゃないの? 向こうも、わたしたちも」
アリーナの言葉に、正直誰もが頷いていた。直接ではないにしろ、仲
間たちは少なからずピサロに恨みを抱いている。もっとも今のピサロで
はなく、魔族の筆頭としてのデスピサロに、ではあるが。
「目的が同じならば、行動を共にしよう」
言い出したのはピサロだった。ロザリーを生き返らせたユーリルたち
に対する、礼もあったのかもしれない。けれどだからといって、つい先
程まで敵だった男を、すぐ仲間に迎えていいものだろうか?
仲間たちはユーリルの言葉を待っている。彼らにとって自分はリーダ
ーで、従うべき統率者で。
幼なじみの笑顔がよぎった。懐かしい村の、懐かしい日々が思い出さ
れた。ずっと続くかと思われた平和な時間は、一瞬にして無に葬られて
しまった。何もかも全て、この目の前の男によって。
「…わかった」
気がつけば、呟いていた。感情より、理性が物を言った。真の敵は強
すぎる、ならばそれに匹敵する戦力を得なければならない。たとえそれ
が敵だった男、復讐すべき憎悪の対象だとしても。
――ああ、シンシア。
彼に殺された幼なじみのエルフに向けて、ユーリルは天を仰ぐ。
シンシア、君は僕を笑うだろうか、蔑むだろうか。それとも、立派に
『勇者』してるねと、褒め称えてくれるのだろうか。
目を閉じると浮かぶのは、最後に彼女が見せてくれた笑顔だった。す
がろうとするユーリルをなだめるように優しく、柔らかく。彼女は勇者
を守るために、勇者のために死んだから。
だから、僕は『勇者』でなくてはならない。
月明かりの下に立つピサロは、正に魔族の王としての風格をかもし出
していた。その座を追われた今も、持って生まれた高貴な魂は隠しよう
もなく輝いていた。
「…まだ、わたしを殺したいか?」
唇が苦笑めいた台詞を吐くのを見て、ユーリルは自分が今にも剣を抜
こうとしていることに気づいた。無言でピサロを睨み、ゆっくりと右手
を柄から離して。
「…条件反射だ、気にするな」
皮肉を込めて言ってやると、緋色の瞳が楽しげに細められた。
「そうか。では寝首をかかれぬよう気をつけることにするか」
「お互いにな」
どことなく棘を含ませたユーリルの言葉に、ピサロはますます興味深
そうにこちらを見つめてくる。
「お前に聞きたいことがあるのだが」
「…何」
「何故、わたしを仲間にすることを承諾した?」
ユーリルはかすかに目を丸くした。何を今更、嗤ってやろうとして、
彼の表情に浮かぶあからさまな揶揄に気がついた。まるで、それは、全
てを見透かされているような。
「…それは僕も聞きたい。何故、僕たちの仲間になろうと思った?」
感情を押し殺し、努めて無愛想に問い返す。
「言ったはずだ、『目的が同じならば』と」
ピサロは即答したが、それ以上何も言わなかった。
訪れる静寂。重い、沈黙。
先程まで聞こえていた、仲間たちの声も今は遠い。ここだけ別世界の
ごとく、時間が止まってしまったようだ。ユーリルは耐えられず、ピサ
ロに背を向けた。
戻ろう。戻って、皆と笑い合って、眠ってしまえば。明日になれば、
戦いに没頭すれば。ピサロとのわだかまりを忘れ、憎しみを封印し、勇
者は勇者らしく――。
「…なるほど」
拒絶したはずの背中に、ピサロの声が。
「全ては『勇者』を演じるために、か」
刹那、視界が朱に染まった。激昂した感情が、考えるよりも先に剣を
抜いていた。主に同調した天空の剣が、嬉々として閃光を描く。魔の魂
を、高貴な獲物を屠ろうとして!
「…どうした」
ピサロは微動だにしなかった。切っ先は彼の銀髪をかすめ、傷をつけ
るまでに至らず、紙一重で止められていた。はらりと舞い落ちた髪の一
房を見送って、ピサロは無感情に呟く。
「殺さないのか」
宿敵の、ともすれば挑発的とも取れる一言を、ユーリルはただ黙って
受け止めた。己と戦い必死で抑えつけた剣が、自らの腕が、次第に小さ
く震えだす。唇が絞り出すように紡いだ声は、泣き出す寸前の子供のよ
うに。
「…お前が」
至近距離のピサロの表情が、わずかに驚きを映すのがわかった。
「お前が、僕をそうさせたんだ」
村を、家族を、愛する人を、帰るべき故郷を。何もかもを奪われ滅ぼ
され、ただ憎しみのまま生きてゆくことができればよかった。復讐を胸
に、そのためだけに戦うことができればよかった。
「お前が、僕の代わりにシンシアを殺したから」
シンシアのために。
「お前が、『勇者』を殺したから」
『勇者』であるために。
「お前が」
ユーリルの紫水晶の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「お前が、仲間になるなんて言うから――」
涙は頬をたどり、月光でかすかな虹を作って散った。泣いていること
を意識しないまま、ユーリルは堰を切ったように言い続ける。
「憎かったんだ。どうしようもなく憎くて、そのために戦おうとした。
勇者なんてどうでもいい、僕は僕から全てを奪った奴に復讐するだけだ、
そう思ってた。シンシアの仇、家族の、僕の故郷の仇、それだけでお前
を追っていたのに、お前にも愛する人がいて、戦う理由があることを知
って、そうしたら僕はどうすればいい? 憎むことが許されないなら、
何のために戦えばいい? 勇者を――あれほど呪っていた運命を、使命
を、受け入れるより他ないじゃないか! 僕はただの子供で、弱くて、
『勇者』じゃないのに、勇者なんかじゃなければって、ずっと、ずっと、
ずっと…!」
気がつけば、ユーリルは蓄積した本音をぶつけていた。自分でも何を
言っているのか、何が言いたいのかわからなくなっても、それでも言葉
は怒涛のように溢れ出した。語尾が不明瞭になるまで叫んで、ピサロが
黙って聞いていることに気づいて、ユーリルは我に返る。
「…ごめん」
自分の情けない醜態に気づき、ユーリルは思わず謝って、まだ震える
手で抜いたままの剣を収めた。無理やり、笑顔を作って。
「…お前の言うとおり…僕は勇者であることを演じるしかない、ただの
弱い人間だ。でも、仲間の前では、そういうことは言わないでほしい」
踵を返す。さっき背中を向けたように、できるだけ、堂々と。
「こんな僕でも、皆にとっては『勇者』だから」
そう言うと、また涙がこぼれた。何が勇者だ、これではまるで駄々っ
子ではないか。そう自嘲したとき。
「ユーリル」
名前を、呼ばれた。ピサロが口にすると、聞き慣れない言語のように
思えた。驚いて振り返ると、彼は涼しげな顔で。
「先程の答えに付け加えよう。お前たちの仲間になることを申し出たの
は、それがわたしにとって益となるからだ。無論わたし一人でも、エビ
ルプリーストを倒すことはたやすいだろう。だが、お前は」
ピサロは一瞬台詞を途切れさせ、微笑んだ。自嘲するように、諦めた
ように。
「お前は、わたしよりも強い。義務ではない、演じる必要もない。だか
らもっと自信を持て、伝説の勇者よ」
ユーリルは目を見張った。プライドの高い彼が、そんな自ら負けを認
めたも同然の、更に慰めるようなことを言うなど。
何かを言おうとする前に、ピサロは闇に溶けて消えた。強い印象を与
える、緋色の瞳だけが焼きついて残った。名残惜しげに、一陣の風が吹
き抜ける。
…僕が、ピサロより強い? 何故そんな根拠のないことを? だって、
あいつはあんなに強いのに。それに、実際戦ったことなどないのに――。
『義務ではない。演じる必要もない』
ピサロの言葉が、脳裏で響く。どこかで誰かにそう言ってほしかった、
それは欠けた部分にすとんと落ちた。
しばらく置き去りにされたように立ち尽くし、ユーリルはぼんやりと
ピサロの残像を追った。ふと無意識に頬を拭い、涙で濡れていることに
気づき、首を振る。彼を仲間にしてよかったのかどうか、まだわからな
い。わからない、けれど。
せめて顔を洗ってから仲間の元へ帰ろうと、湖に向けてしゃがみ込む。
水面に映った『伝説の勇者』は、それでも少し、救われた顔をしている
ように見えた。
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