闇を統べる者













 銀髪を夜風になびかせて、ピサロは一人、昇る満月を眺めていた。

 立ち寄った街の、そこだけ大きな教会の尖塔。忌み嫌う『神』を祀る
建物を止まり木に、黒い鳥は眼下を見やる。盛り上がる酒場の声。家路
を急ぐ、往来の男女。ちっぽけな人間たちの営み。
 慎ましくも華やかな雑踏に、ピサロはしばし目を閉じる。思い出す過
去、いつかも見た風景。
 昔はよく、日が落ちると闇を跳んだ。デスパレスからリバーサイド、
北へ上ってミントス、コナンベリー。人間たちを観察するため、世情を
この目で確かめるため。そして恋人との、つかの間の逢瀬のために。

 夜の最後に必ず降りる、ロザリーヒル。尖塔の窓から空を見上げて、
彼女はいつも待っていた。

 それは、既に過去形だった。今あの尖塔には、スライムが一匹残され
ているだけだ。想い出のありすぎる部屋を、離れがたくて。彼女の不在
が、今でも信じがたくて。

 思えば彼女の笑顔を最後に見たのはいつだっただろう、ピサロは脳裏
に愛するエルフを描いてみる。近い記憶にあるのは、いつも悲しみを湛
えた表情だった。網膜に焼きつくのは、彼女の最期の瞳。命が消えよう
としていたあのとき。気丈にも美しく微笑んで、震える指をこちらに伸
ばして、何かを言いかけて。

 ――ロザリー。

 全ては、彼女のためだったのに。進化の秘法も、帝王の復活も、魔族
が君臨する世界創造も。わたしが世界を統べるとき、隣にお前の笑顔が
あればそれでよかったのに。

 ピサロは天を仰いだ。夜風が、優しく頬を撫でる。満月を眺め、月光
を浴びて、渦巻く怒りと憎しみと悲しみを振り払う。そうしてしばらく
心を落ち着かせて、本来の用事と現実に目を向けた。
 この街には探し物も、探し人もなかった。既に用はない。感傷に浸っ
ていられるほど暇でもない。ピサロは再度眼下を一瞥した。
 酒場に出入りする楽しそうな人間たちの影。相変わらずの明るい冗談、
陽気な笑い声。せいぜい、今のうちに生を謳歌するがよい――愚かな人
間どもよ。

 そっと嘲笑し、身を翻す。今夜は城へ帰り、もう一度部下の集めた情
報をまとめてみることにしよう、そう思ったときだった。

「……!」

 どくん、と鼓動が跳ね上がった。神経が、共鳴したように弾かれた。
ざわりとした悪寒が背中を走って、ピサロは目を見開いて振り返る。先
程目をそらした、酒場の入り口を。

「うわー、人いっぱいじゃない! 部屋空いてるのかなあ」
「最悪、男性陣は野宿ですかな」
「またですか…やっとまともな寝床にありつけると思ったのに…」

 たった今到着したらしい団体が、にぎやかに話しながら入り口に集ま
っている。そのかたまりの、一人。少し輪から外れ気味になって、所在
なげに仲間を見つめている少年。
 ピサロは瞬時に己の気配を完全に消し去った。皮肉にも、神を称える
教会の鐘が、彼の姿を隠してくれた。

 迂闊だった。過去の郷愁に、恋人との想い出に思考を取られたあまり、
全く気がつかなかった。ピサロは自負していたのだ。かの者の息吹を、
忌々しい輝きを、近くにいれば必ず感じ取ることができると。相反する
存在だからこそ、その光はこの身を貫くほどの力で、己に知らせてくれ
るだろうと。

「…勇者…!」

 ピサロは思わず、唸るように呟いた。そこにいたのは紛れもなく、予
言の、伝説の勇者だった。あのときあの村で、一度殺したはずの少年だ
った。
 悪と敵対し、魔を淘汰し、闇から世界を救う者。紛うことなき駆逐の
対象、ともすれば己を滅ぼすかもしれない脅威の光。――間違えるはず
もない。
 見覚えのあるしなやかな身体つき、まだあどけない顔の輪郭。特徴的
な、萌えるような若葉色の髪。澄んだ紫水晶の瞳。そして、魂の輝きが。

「ちょうど一人ずつ部屋が取れるみたいですよ」
「え、一人ずつ? すーごく小さな部屋じゃないでしょうね!」
「寝て起きるだけじゃない、別に小さくたってかまわないでしょう?」
「然り」
「じゃあ、八人お願いします」

 酒場兼宿屋であるらしいその建物の奥に声を投げ、団体は更に騒々し
く話しながら入ってゆく。最後に、少年がゆっくりと扉を閉めた。こち
らを振り返りもせずに。――気づかれていない。

 勇者が生きていることは知っていた。ピサロが夜の街を跳んでいるの
は、黄金の腕輪を見つけるためと、予言の勇者を殺すためだった。けれ
ど勇者の居場所など、配下に命令すればすぐにわかる、いつでも殺すこ
とができる。そう思って、半ばおざなりにしていたのだ。

 どうする。ここで、彼を殺してしまえば。

 ピサロはすばやく思考を巡らせた。彼を殺してしまえば、目的は腕輪
だけになる。何処にあるとも知れない、人間たちの欲望のまま、転々と
さまよっている進化の秘宝だけに。
 なかなか見つからぬ腕輪に、ピサロは退屈を覚えていた。最近ではそ
の存在すら、どこかで疑うようになってきた。このまま発見できないな
どということはあってはならないが、飽きた、というのが正直な感想だ。
けれど。
 少年は、ピサロに気がつかなかった。確かに気配は消していたが、そ
の程度のことで宿敵を見過ごすなど、勇者にあるまじき失態ではないか。
大したことはない、そう、あのときもそう思ったのだ。無論、あっさり
と殺された『勇者』は身代わりに過ぎなかったわけだが――しかし思え
ば着実に、彼らは魔族の敵とし名を轟かせ、邪魔な存在へと成長しつつ
あることは確かで。

 ピサロはしばらくそこで考えていたが、やがてゆっくりと口角を上げ
た。嘲笑だった。いい機会だと思った。彼がまだ力をつけぬうちに。己
との差が歴然としている、今のうちに。

 笑みを刻んだまま、酒場から視線を外して闇に気配を潜める。そうし
てまた夜空を眺めながら、待った。満月が傾き、酒場から最後の灯りが
消え、彼らが寝静まる、そのときを。








 音もなく地上に降り立ち、閉ざされた扉を難なく抜け、ピサロは建物
に堂々と忍び込んだ。ベルを鳴らせば眠そうな顔の主人が出てくるのだ
ろう、カウンターに今は誰もいない。残る酒の匂いに少し眉をひそめ、
階段を見上げる。
 彼の部屋はすぐにわかった。共鳴に似た何かが、二階一番奥の扉の向
こうで呼んでいる。集中すれば、恐らく見えるだろう。己の嫌いな太陽
のごとき輝きが、隠しようもなく。
 鍵はなかった。音もなかった。それでもピサロは用心し、いつでも剣
を抜けるように構え、扉に手をかけてそっと押す。隙間から差し込む、
一線の月明かり。

 途端に、ピサロは脱力してしまった。部屋は穏やかな静寂に包まれて
いた。何のことはない、神経を研ぎ澄ませる必要もなかった。寝台の上、
疲れきった子供のように毛布にくるまって、勇者は熟睡していたのだ。

 しばらくその姿を眺め、後ろ手にそっと扉を閉める。本当に勇者かと、
己の直感を疑いさえした。これでは簡単に――正に赤子の手を捻るよう
に、今すぐあっさり殺せてしまうではないか!

 ピサロは剣の柄に手をかけたまま、徐々に不満が募ってゆくのを感じ
た。恋人ロザリーは人間の欲望の餌食にされ、この上ない恐怖と屈辱を
味わいながら死んだのだ。そんな人間の一人で、そんな人間の希望で、
そんな人間の世界を『救う』とされるこの少年を、今すぐここで楽に殺
してしまってよいものだろうか? 死を意識する暇さえもなく? 答え
はもちろん、――否。

 ピサロは嗤った。ありとあらゆる残虐な方法を思い浮かべた。まず、
剣を持つ手を潰してやろうか。魔法を唱えるその口を引き裂いて、逃げ
る足を切り落としてやろうか。魔獣を呼んで、臓腑を食わせてやるのも
いい。絶命する寸前には、また綺麗に回復してやろう。永久に苦痛と無
念を思い知らせてやろう。そのまま城へ持ち帰り、魔族の強さの誇示の
ため、愚かな人間の象徴として、さらして知らしめてやろうではないか。
見よ人間どもよ、これがお前たちの希望かと。見よ天空の神よ、これが
お前の愛する光の御子かと!

 月光を浴びて眠る少年は人形のようで、簡単に壊れる玩具のように見
えた。これから訪れる殺戮の悦びに、刹那ピサロは酔い――そこに、わ
ずかな空白が。

「…誰?」

 凛とした、涼しげな声。見開かれた、紫水晶の瞳。驚きは一瞬で、す
ぐに少年は身を翻した。舌打ちと共に繰り出した、ピサロの刃を軽々と
避ける。いつの間にか彼の右手には剣が握られていて――かの天空の剣
ではなかったが――ぴったりと、こちらに突きつけられているのだった。

「…誰だ」

 再度、少年が低く問いかけた。敵意がひしひしと伝わってきて、ピサ
ロは知らず唇に笑みを刻む。

「さすが、と称えるべきか勇者よ。わたしはデスピサロ」

 少年の顔に驚愕が走るのがわかった。ついで、憤怒と憎悪。敵意は増
大して、殺意へと変わる。どこか慈愛を思わせる紫色の瞳が、宿敵を映
して燃え上がる。眼差しが刃と化すならば、致命傷を受けるだろうほど
の強さ。デスピサロ、少年はかすれた声で呟いた。

「…僕たちがここにいることを知って、この街を滅ぼそうとでも? か
つて、僕の村をそうしたように」
「なるほど。その手もあったか」

 彼の視線をものともせず受け止めて、ピサロは笑って言ってみせた。
こうして間近に剣を持ち、復讐の炎に身を焦がし、こちらを睨みすえる
少年は、なんとも頼もしい『勇者』ではないか。そうでなくてはおもし
ろくない。

「…今度は偽者をつかまされないよう、お前が直接手を下すというわけ
か」
「今度は本物だからな、偽者と違って多少は骨が」

 ピサロは台詞を最後まで言えなかった。「偽者と違って」、そう言っ
た瞬間に少年の纏う気が燃えた。閃光のように剣がきらめき、月を反射
して斬りかかる!
 ピサロは難なくその切っ先をかわし、跳んだ。武器を奪うことを目的
に、相手の右手を狙う。空気を裂く音がして、重い一撃が決まったかに
見えた。が、それは残像で。
 翠緑の影が動いた。気づくと、彼は頭上にいた。雨のように降る剣戟、
削られて散る金気の匂い。騒ぎを聞きつけて、勇者の仲間が来ると厄介
かもしれない。舞うように軽く攻撃を受けながら、ピサロは考えた。
 勝利は当然で揺るぎない事実だが、さすがに八人もいると、勇者一人
をじわじわ追い詰めて殺す、という愉しみが味わえなくなる。またとな
い機会、あくまでも一対一の戦いを演出したいではないか。そうすると、
この場でのつばぜり合いは長引かせない方がいい。
 少年の剣はスピードこそあれど、単調でまだまだ軽かった。将来的に
はかなりの使い手になるだろうが、今は魔族の王の相手にもならなかっ
た。振りかぶる隙をつき、ピサロは剣で剣を弾く。キィン、と派手な音
がして、少年の剣が飛んだ。ベッドの横、木の床に墓標のように突き刺
さるそれを、一瞬愕然と見やって、勇者は。

 瞬時に、ピサロは悟った。魔力の働く、不可思議な気配。少年の下に
集まり始める、小さな電光。
 咄嗟に身体が動いた。少年の、武器を持たない両手を押さえた。呪文
を続けようとする彼の顔が、苦痛でわずかに歪む。隙に。
 ピサロは詠唱を奪っていた。唇で、唇を塞ぐことによって。

 至近距離の紫の瞳が、いっぱいに見開かれる。刹那の空白が落ちる。
思い出したように彼の手が振り払われる前に、ピサロは熱を離してその
顔を覗き込んだ。

「…な」

 解放された唇が紡いだのは、今度は呪文ではなかったが、反射的にピ
サロはまた語尾を塞いでいた。状況を悟り、とにかく逃れようとする身
体を押さえつける。
 腕の中でもがく彼は、脆弱な小鳥を連想させた。いずれは美しい翼を
持つだろう、自由で気高い生き物のように思えた。太陽を浴びて光輝き、
天空に愛される高貴な魂。なによりも、あの竜の神が慈しむ御子。

 じわり、と嗜虐心が頭をもたげる。

 このままこの手で、彼を穢してしまえば。翼をもいで、堕としてしま
えば。
 全てを知る神は、どう思うだろう。なすすべもなく、天で見ているこ
としかできないその身を恨むだろうか。それとも、神の怒りとやらをふ
るってみせるのか。いずれにせよそんな些細な行動で、絶対者に一矢報
いることができるかと思うと、小気味よかった。ピサロは嗤った。この
上もなく愉快だった。
 耐えられず唇に噛みつこうとする少年の、顎を押さえて更に深く口接
ける。自由になった彼の腕が、ピサロを引き剥がそうとする。かまわず、
逃げる舌を絡め取る。びくんと震えた手は、ピサロの黒衣をつかんで握
り締めるだけに終わった。
 ひたひたと迫る静寂に、少年の苦しげな声と、湿った音だけが満ちる。
存分に貪ってから、ピサロは唇を離した。必死で酸素を補給しようとし、
咳き込む彼がおかしくて、思わず微笑する。そのまま、左耳元に唇を寄
せて。

「勇者ユーリル」

 低く、ささやく。抱きしめた身体が、恐怖を宿して固く緊張する。

「その程度では、わたしは倒せん。このまま、ここで殺されるか?」

 言いながら、ゆっくりと耳の形を舌でなぞった。彼が詰まらせた吐息
が心地よくて、耳朶を甘噛みする。スライムを模したピアスに犬歯が当
たり、かちりと小さな音をたてた。それを合図に。

「…っざ…けるな!」

 渾身の力で、少年はピサロを突き飛ばした。わずかにバランスを崩し
た隙に、腕の檻から逃れた彼は、床に刺さった自らの剣に飛びついた。
抜き取るなり、刃が弧を描く。ピサロの影を斬る。

「誰が…誰がこんなところで、おとなしく殺されてなどやるものか!」

 剣をかまえて言い放つ、少年の頬は紅潮していた。妖魔の繰り出した
快楽と愉悦は、天空の御子といえど抗いがたいものだったようだ。ピサ
ロは窓枠に立ち、月光を浴びて笑った。

「まだまだ子供のようだな、勇者ユーリル? なるほど、今殺してしま
うには惜しい。対等であればあるほど、嬲る愉しみがあるというもの…」
「待て、デスピサロ!」

 闇に溶けながら、ピサロは再度斬りつけてくる勇者を、決して届きは
しないだろう刃を見た。騒ぎを察して、扉をたたく仲間の声を聞いた。
その頃には既に、黒い鳥は夜空を駆けていた。

 次第に、町の灯が遠くなる。地上の光は星のように流れ、月に集って
儚く散った。一度触れただけで心を追える、勇者の輝きはそれでも存在
を主張している。怒りに燃えながらも、戸惑ったようなその波長に、ピ
サロはまた笑った。まったくもって、人間というものは不可解だ。

 ――最初は、気まぐれだった。戯れだった。退屈しのぎだった。

 どこか、何かに共通する小さな好奇心。かすかな既視感を覚えるのは、
気のせいか、それとも。

 ピサロは闇を跳び続ける。しばらくは退屈せずにすみそうな、明日か
らの期待に心は軽く。満月は、既に西の山の端に。

 夜明けは、もうそこまで来ていた。








over ride the moon.






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