Fallin' Night










 剣が落ちる重い音で、ユーリルは我に返った。

 見上げると妙に目にしみる、夕暮れの西の空。点々と散る、カラスの群れ。
ねぐらへ帰るのだろう、一日の終わりを告げる鳴き声。小さくなる群れをぼ
んやりと見送って、ユーリルは落とした剣を無意識に拾おうとした。

「…?」

 自分の右手が、目に入る。鈍い赤。鉄錆の臭い。
 拾い上げた銅の剣は、度重なる戦闘のせいで既に刃こぼれしていた。刀身
はどす黒い血で濡れ、柄までも禍々しく染まっている。ユーリルは虚ろな視
線を動かした。その周囲には、魔物の死体。おびただしい数の骸、骸、骸。

「…あ…」

 意識すると、急に視界が現実になった。思考が鮮明に蘇った。忘れていた
感情が襲い、疲労と化してどっと両肩にのしかかった。ユーリルはがくりと
膝をつき、その場に崩れ落ちる。

 振り返らなかった。忘れてしまうにはあまりにも尊く、覚えているにはあ
まりにも痛すぎた。どうすればいいのか、どうしたいのかもわからず、ただ
ただ夢中で。


 ――背後には、遠く懐かしいあの村。


 けれど、そこにはもう何もない。あの幸福な日々の、破片さえも残っては
いない。粗末で慎ましい家々は崩れ、豊かだった緑は燃えて枯れ果て、清ら
かな池は毒の沼地と化した。そして、平和に暮らしていた村人たちは。

 目を閉じると、蘇る。思い出せば、彼女はいつも笑っていた。

『すごいでしょ! 私、何にでも変身できる魔法を覚えたんだ』

 得意気に胸を張る幼なじみの少女を、ユーリルは眩しく見つめていた。そ
れは既に、はるか昔の出来事のようで。

「シンシア…」

 …誰か。
 呟きは、届かない。


 誰か、僕を。
 悲痛な叫びはただ、茜色の空に消えてゆくだけ。



 ――誰か、僕を、殺してくれ。



 空の緋色が、暗転した。立ち上がる力は、もはやなかった。







「…どうした?」

 暗転した緋色が集い、凝縮して輝きを宿した。台詞は気遣う言葉でありな
がら、瞳はどこまでも透明で感情を映さない。見つめるピサロにユーリルは
瞬きを繰り返して、悪夢の残滓を振り払った。

「ひどくうなされていたようだが」

 月明かりを浴びながら、ピサロは淡々とそう言った。二人で使うには宿屋
のベッドは少し狭すぎて、寝返りを打つのに苦労する。ユーリルは彼に背を
向けて、胎児のように身体を丸めた。全身の汗と、頬を流れる涙。――情け
ない。

「…夢か」

 問いかけに、ユーリルは答えなかった。口を開けば、お前のせいだと責め
る言葉しか出てこないような気がした。あれはただの夢ではなく、誇張され
た過去の現実だ。忘れたくても忘れられない、あの引き裂かれるような慟哭。

 エンドールでミネアとマーニャに出逢うまで、毎夜のように見た。戦うこ
とで、いつも死と隣り合わせの場所に身を置くことで、それを忘れようとし
た。全てを赦されようとした。

 自ら命を絶つことが、罪滅ぼしになるわけがない。村人たちは勇者を守る
ために死んでいったのだ。だから、あえて危険に飛び込んだ。傷つくことも
いとわず、ただ夢中で戦った。故郷を滅ぼした魔物たちに、少しでも復讐を
するべく。彼らに守られた、彼らを見殺しにしてしまった自分の弱さを断ち
切るために。そうすることしかできない己に、強い怒りと憤りを感じながら。

 僕が、死ねば、よかったんだ。

 何度も何度も、そう思った。世界などどうなってもよかった。ただシンシ
アが、村人が、あの場所が平和であればよかった。そのためなら、『勇者』
になりきれない己の命など。

 ――けれど、それはまた。

「…こんな、夢」

 彼らの死を無駄にし、彼らを裏切ることになる。

「ずっと、見てなかったのに…」

 思わず吐き出したユーリルの視界に、銀のカーテンが下りた。ピサロが上
から覗き込むようにして、視線を捕らえてくる。逆光で表情はうかがえない。

「…わたしも、よく夢を見る」

 紡がれる言葉を聞きながら、ユーリルは零れ落ちる銀髪を無意識に弄んだ。
きらきらと、月明かりが隙間で踊る。

「そこには何もなかった。闇でさえ虚無だった。わたしは絶望の渦に飲み込
まれ、自我を失い、ただ、降りかかる光を払おうとしていた」

 ピサロの指が翠緑の髪に触れ、かき上げる。

「…この色が。太陽に映える若葉に似た、この光がわたしを貫いた。わたし
は光に、天空の力に――お前に、殺された」

 触れた指は髪を滑り、頬を経て唇に下りた。ユーリルはされるがまま、た
だその緋色の瞳を見上げる。

「お前は、殺すことでわたしを救ってくれた。進化の秘法で怪物と化してい
たわたしは、倒されて光となった。…死と、引き換えに」

 魔族の王である彼も、不安や恐怖が投影された悪夢を見ることがあるのか。
ユーリルは少し意外に思いながら、無表情なピサロを見つめた。確かに、世
界樹の花がなければ。ロザリーが生き返らなければ。

 可能性の一つとしての未来。夢は、現実だったかもしれない。

「らしくないな」

 少し、笑ってやる。

「お前の方が僕たちを倒すっていう夢じゃないのか? どちらにしろ、お前
にとって明るい未来じゃなさそうだけど」
「…未来、か」

 噛んで含めるように、ピサロが呟いた。自嘲を交えて。

「恐らく、どれほど感謝しても足りないのだろう。お前がいなければ、わた
しは…」

 語尾をもう一方の唇に移して、ピサロは台詞を途切れさせた。奪われる呼
吸の合間に、ユーリルは強気に言い放つ。

「…お前のためじゃない」

 ピサロは答えなかった。わかっている、と言いたげに目を細める。そこに
興味の色はあれど、愛や思慕はもちろん、嗜虐や欲望さえもなく。

 わからない。わからないまま、受け止める自分が理解できない。冷たいピ
サロの体温を感じながら、ユーリルはまたあの悪夢に堕ちてゆくような感覚
を覚えた。似ているような気がした。

 理性と感情の渦。良心と、その裏側で相反する意識との狭間。こんな男が、
本当に『勇者』と呼べるのだろうか。勇者じゃない、勇者なんかじゃない。
否定して、拒絶して、それでも受け入れるしかなかった。どうでもいいと、
このまま堕ちて溺れて死んでしまえばいいと思った。血に染まった大地に倒
れて。魔物の骸に囲まれて。誰か、僕を殺してくれと。誰か、ここで終わら
せてくれと。


「…僕は」

 肌を滑る指が、また渦を作り出す。形を取り始める熱が、いつものように
狭間を行き来する。

「僕は…お前といると、悪夢ばかり見る」

 知らず反応し、更に快楽を追おうとする自分にわずかな怒りを感じながら、
ユーリルは顔を背けて息を吐いた。ピサロの銀髪が揺れた。笑ったようだっ
た。

「…奇遇だな」

 両手が頬を捕らえ、上向かせる。緋と紫の視線が交錯する。不可視の想い
が重なって、混ざり合う。

「わたしもだ」

 皮肉めいた言葉は耳をかすめ、唇に落ち、宙に溶けて消えていった。










all the night with you.


五章と六章は無数に枝分かれした
そうなった「かもしれない」未来、
平行宇宙の一つという私的イメージです。




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