静かすぎて、目が覚めた。 薄く開いた視界には、天井から外れてぶら下がった案内板が見える。地下鉄半蔵門線渋谷駅。半壊したホームと、折れて斜めになった柱。あの日事故を起こした車両は放置されたままだが、さすがに遺体や怪我人は収容済みらしい。―――ここ一週間、いろんなことがありすぎたせいだろう。なんだか、全てが遠い昔の話のようだ。 冷たい床で身じろいで、明日香はまた目を閉じた。まどろみながら、仲間たちはどうしているだろうと思いを馳せた。東京でも名古屋でも大阪でもいい、ジプスにいれば食糧と寝床には困らないはずだ。少なくとも今こんな風に、空腹に耐えつつ独りきり、駅のホームで一晩過ごすなどということは。 「……く者よ」 本当にこれでよかったのだろうかと、夢うつつにかすかな後悔がよぎる。ヤマトか、ロナウドか、ダイチか、自分もどこかの勢力に加わるべきだったのだろうか。 「輝く者よ」 「うるさい……」 さっきから繰り返されている呼びかけを、明日香は寝返りで遮った。ろくに眠れなかった起き抜けの頭に、その柔らかな声はよく響いた。もう少し寝かせろと言うのも面倒で、呻きながら手を振るだけに終わる。 「ああ、すまない」 声の主は少し笑ったようだった。ふわりと空気の動く気配がして、すぐ。 「おはよう」 至近距離から耳に、吐息ごと吹き込まれる。明日香は一気に目が覚めて、反射的に飛び退いてしまった。尻餅をつく格好で瓦礫にへばりつき、驚きのあまり絶句する。 「な、な、何……!」 「おや。かえって驚かせてしまったようだね」 全く悪びれる様子もなく、そばにいた男は柔和な笑みを浮かべてみせた。 「君がうるさいと言ったから、囁くように語ろうとしたまでだよ」 「いや、普通に起こしてくれ……」 明日香は脱力して、ため息と共に乱れた髪をかき回した。不思議そうに首を傾げた男の身体は、重力に逆らってふわふわと宙に浮いている。 いつここに来たのか、訊こうとしてやめた。恐らく姿は見えずとも、ずっといたのだろう。否、普遍的に存在しているというべきか。 彼はいわゆる『神』と定義されるものではないかと、明日香はおぼろげに推測している。赤と黒が交錯する奇妙な模様の服、風に揺れる白い髪、表情の少ない端整な顔。今までフィクションで見てきたものとは、全く異なる神の御姿ではあるが。 「さて」 思考を持て余す明日香をよそに、彼は淡々と話し始めた。他の勢力の動きや、今日も現れる最後の試練や、そして世界の現状など。明日香はそれをぼんやり聞きながら、神様か、と改めて認識した。そうすると、思わず笑いが込み上げた。 世界を新たに作り直すと決めたのは自分だ。他の仲間たちの主張も聞いて、きちんと考えた上で選んだ道だ。だが誰もいない駅のホーム、得体の知れない男とたった二人きりで、自分は一体何をしているのだろう。冷静になってみれば、なんだか滑稽ではないだろうか。明日にでも、世界は終末を迎えるかもしれないというのに。 「? どうかしたかい、輝く者よ」 「なんでもない」 首を振って立ち上がると、彼はそうかと頷いただけだった。ダイチがいればもっと突っ込んできてくれたはずだ、思って今更淋しさを自覚する。当然だ。昨夜までは大勢の仲間たちと共に、賑やかに行動していたのだから。 「では、また。必要なときはすぐ現れるよ」 「あ」 話は以上だとばかりに、彼の身体がかき消えてゆく。いつもそばで見守っていると本人は言うが、実際に姿が見えるのと見えないのとでは大違いだ。 「待っ……」 待って、とつかみかけた腕は虚しく空を切った。急に訪れた静寂に息を呑んだとき、思いがけず彼がまた姿を現した。 「……」 「ど。どうかしたのか?」 呼びかけに戻ってきてくれたわけではないらしく、彼は何やら思案顔だ。恐る恐る声をかけた明日香に、いや、と少し笑って。 「以前、君が常に仲間と行動していたことを思い出した。私は既に君の仲間だ、だからそうするべきだと思ってね。それに、友人なら呼び合う名が必要だろう?」 彼はどこか嬉しそうに、自らの名前を教えてくれた。聞き慣れないその単語を舌の上で転がして、明日香は改めてよろしくと微笑んだ。 ―――大丈夫だ。自分は自分が決めたとおり、自分の道を行くだけだ。たとえ、この男が何者であっても。 「では行こう、輝く者よ。新しき世界を創るために」 空中を滑るように、彼が出口の方へ移動し始める。追おうとした明日香が瓦礫に躓くと、素早く腕をつかんで支えてくれた。 「すまない、配慮が足りなかった。こちらだ」 薄暗闇でよく見えないと思ったのか、彼はしっかりと手を繋いでくれた。そこには感じるはずの体温がなく、かといって冷たくもなく、不思議な感覚を伝えてくる。 彼の後に続きながら、明日香はそっと目を細めた。自分が使役する悪魔の中には、一般的に神と呼ばれるものもいる。ゆえに今更特別な思いはないが、それでも神と手を繋いでいるのかと思うと、どうも奇妙な気分だった。 「輝く者よ」 先を行きながら、彼が思い出したように振り返る。 「友人であるからには、このまま手を繋いで歩いた方がいいのだろうか」 「え」 「……そうだな」 戸惑う明日香に気づかず、彼は一人で納得している。どこかずれた思考や感覚も、彼が人間ではない証拠の一つかもしれない。 「君が私を選んだことを示すためにも、それがいい」 また嬉しそうな顔でにこにこしている彼に、明日香は知らず引きつった。やはり二人きりだとツッコミ不在だ、早くダイチを説得して合流しなければ。そんなことを思いながら。 やがて瓦礫だらけの階段に、さわやかな朝の光が差し込んでくる。浮揚する彼の姿を縁取るそれは、まるで神々しい後光のように見えた。
午前七時、渋谷 |