「サダク」 呼びかけに気がつくと、覗き込む彼と目が合った。澄んだ大きな瞳、緩やかに輪郭を縁取る癖毛。見慣れたその顔は、照明の逆光で薄暗い。 「サダク?」 大丈夫かと言いたげに、今度は疑問符付きで呼ばれる。サダクは何度か瞬きしてから、自分がぼんやりしていたことを知った。 「ああ、なんだい輝く者よ」 取り繕って応えてみせるが、彼―――北明日香はうかがうような表情のままだ。 「いや、ぼーっとしてたから……大丈夫? もしかして疲れてるとか、腹減ってるとか、眠れなかったとか」 続いて発せられた言葉に、サダクはきょとんとしてしまった。遅れて理解が落ちて、思わず笑みが浮かんでくる。 「ユニークな解釈だね。私は私という自我が生まれてから今に至るまで、疲労も空腹も睡眠不足も感じたことはないよ」 「え。あ、そっか」 今その事実に思い当たったかのごとく、明日香は頭を掻いて苦笑した。それは彼がサダクを身近な存在、つまり同じ人間の仲間として気遣ってくれている証拠なのだろう。 目を細めながら、サダクはゆっくりと辺りを見渡した。ほぼ廃墟と化したジプス東京、書類が散乱する司令室。さっきまで仲間たちが今後の方針を話し合っていたはずだが、今は誰もおらず妙に静かだ。いつの間にか、会議のようなものは終わっていたらしい。 「他の子たちはどうしたんだい?」 昨夜を境に分裂したかつての仲間たちだが、戦いと説得により東京勢は再び戻ってきている。志島大地、新田維緒、鳥居純吾、九条緋那子。彼らが拠点としていたこの場所に、揃って腰を落ち着けたのは、つい先ほどのことだった。 「倉庫の方へ食料探しに行ってる。腹が減っては戦ができぬ、って」 肩をすくめる明日香に、サダクはなるほどと頷いた。 「そうか。不便なものだね」 「サダクは、本当に食べなくてもいいのか?」 「ああ、必要としていないからね」 心配してくれているのだろうと、にっこり笑って答えてみせる。明日香は少しうつむいて、そっか、と小さく呟いた。 「それはそれで、なんかちょっと残念というか……もったいないかも」 「もったいない、とは?」 人間の言葉は時々理解不能で、不可思議だ。サダクが首を傾げると、明日香は淋しげに嘆息して。 「だって美味しい物食べて嬉しい!とか、幸せ!とか、そういうのもないわけだろ?」 「……まあ、そうだね」 食べるという行為に人が喜びを見出すことは、サダクもよく知るところだ。生物として必要不可欠な単なる欲望を、食という文化にまで発展させたのは、人間の可能性の為せる技だろう。 「ジュンゴの茶碗蒸し、ものすごく美味しいんだ。材料さえあれば、サダクにも食べさせたいって言ってたんだけど」 「ちゃわんむし?」 疑問符に気づかなかったのか、明日香はいかにその茶碗蒸しが美味であるかを語り始めた。板前見習いである鳥居純吾の、唯一の得意料理だという。サダクにはよくわからなかったが、彼がそれを好きだということは十分伝わってきた。 「あとそうだな、たこ焼きも美味しいよ。あのヤマトを虜にするくらいだし」 明日香が楽しそうにしていると、聞いているこちらまで楽しくなってくるから不思議だ。それがリーダーと慕われる彼の魅力の一つなのだろうと、サダクはおぼろげに推測する。 「そういえばヤマトって、今までたこ焼き食べたことなかったらしくて……」 無邪気に話していた明日香の表情が、そこで急に翳りを落として固まった。彼が黙り込んだことで、辺りにまた静寂が戻る。今は敵となってしまった峰津院大和と、たこ焼きとやらを食べたことでも思い出したのだろうか。想像して、サダクは今更気がついた。 明るく振る舞ってはいるが、彼も淋しいのかもしれない。本当は後悔しているのかもしれない。現在敵対している大阪勢も、名古屋勢も、この六日間苦楽を共にしてきた仲間なのだ。それが全て、戦うことでしかわかり合えなくなってしまったのだから。一番縁が深いはずの東京勢にも、そうするしかなかったように。 うつむいたままの黒髪を、サダクはじっと見下ろした。長年の憂いを晴らしてくれた北明日香は、今や自分にとってかけがえのない光だ。だがその彼もまた、悩み戸惑い時には道を誤ることもある、人間といういきものに違いない。 「……輝く者よ。本当に、私を選んでよかったのかい?」 「え」 質問に、明日香が顔を上げた。どこか不思議そうに見つめられて、サダクは知らず緊張した。否と答えられる可能性を覚悟したからだが、彼はふと口元を緩めて、そして。 「……」 無造作に伸ばされた手に、ふわりと頭を撫でられた。とっさに理解できず、サダクは半ば動けなくなってしまう。 「……輝く者?」 「あ、ごめん。なんか、淋しそうだったから」 「さびしそう……私が?」 言われた言葉を、サダクは繰り返して噛み締めた。人間の感情は複雑すぎてうまく読み取れないが、それをいうなら明らかに自分ではなく、彼の方にこそ当てはまる表現ではないだろうか。 「うん、だってサダク、鼻を鳴らしてる小犬みたいで」 明日香は笑いを堪えるように眉尻を下げて、サダクの頭を撫で続けている。何故笑われているのか、何故頭を撫でられているのか、やはり理解が及ばない。だが髪をくすぐる手は存外心地よく、おとなしく身を任せることにする。 「サダクの髪ってふわふわだなあ」 何やら感動しているらしい明日香の頭に、サダクもそっと右手を伸ばしてみた。一瞬だけ驚いたらしい明日香だが、身を引くことなくそのまま撫でられてくれる。 「……輝く者。君の髪も、ふわふわだ」 「あ、気にしてるのに」 真似て手触りを表現すると、む、と明日香は唇を尖らせた。 「昔はよくネタにされていじめられたんだぞ、鳥の巣とか実験失敗とか」 拗ねるその顔が面白くて、サダクは無意識に笑顔になった。同じように、明日香も柔らかく微笑んでくれた。彼に頭を撫でられることで、そして自分も彼の頭を撫でることで、漠然とした不安が霧散してゆく気がした。人が人に触れるという行為は、なるほど言葉よりも安心感を与えてくれるものなのかもしれない。 「……どうでもいいけど」 指先でくるくるとサダクの髪を弄びながら、明日香がぽつりと呟いた。 「今の俺ら、傍から見たらめちゃくちゃ寒い気がする」 「寒い? 確かに今日の気温は低めだが、人間が寒いと感じるほどでは……」 「あーいや、そういう意味じゃなくてね?」 はあ、と明日香が苦笑混じりのため息をついたとき、向こうから足音が近づいてきた。どこか慌てて手を引っ込めた彼の体温は、まだ髪に残ったままだ。名残惜しいと思いながら、サダクも手を離すことにする。 「駄目だ、食料らしきもんはもうこれだけしか残ってなかった」 言いながら現れたのは、小さな段ボール箱を抱えた志島大地だ。軽そうなそれを机に置き、力なく肩を落としている。 「もう腹減って動けねー!っつーほど、切羽詰まってるわけでもないんだけどさ……あー最後までもつのかなこれ。奥の倉庫の方も一応みんな探してくれてるんだけど、期待しない方がいいだろうなあ」 落胆にひとりごちる志島大地のその様子は、先ほど明日香が言っていた『鼻を鳴らしてる小犬』という表現に似ている気がした。サダクが視線を戻すと、明日香も同時にサダクを見て、どこか悪戯めいた笑顔になる。 「ダイチ、ちょっと」 笑顔のまま、明日香は大地を手招いた。何、と歩み寄ってくる幼馴染に、ためらいなく伸ばされる右手。彼の意図を悟ったサダクも、そうすることが当然であるかのように、真似て手を差し出した。 二人から同時に頭を撫でられて、大地が困惑した表情になる。根本的な解決にはならずとも、せめてこの瞬間だけでも、安堵を与えることができればいいとサダクは思った。 輝く者と、輝く者の大切な仲間たちに。新しい世界へ向かいつつある、愛おしき人間という種に。
土曜日の慰撫 |