遠慮がちなノックの音に、明日香は知らず緊張して顔を上げた。 ジプス東京の一角、今や自室と呼べるまで使い慣れてしまった部屋のベッドで、じっとドアの方を見やる。充電中の携帯電話に手を伸ばし、いつでも起動できるように。 「……明日香、まだ起きてる?」 再度のノックと共に掛けられた声は、聞き慣れた志島大地のものだ。強張っていた肩の力を抜いて、明日香はほっと息を吐いた。 ここに身を寄せてから、悪魔が襲撃してきたなどの例はない。だが、今は状況が違う。 主であった峰津院大和はこの場所を放棄し、主力を引き連れて大阪へ移動した。大和に宣戦布告をした栗木ロナウドは、名古屋を拠点にしているという。どちらにも属さない自分たちが、いつ何時奇襲を受けるか―――可能性はゼロではない。 「起きてるよ」 携帯の表示は零時前、部屋に戻ってからまだ三十分も経っていない。返事をすると、やはり遠慮がちな大地の顔がひょいと覗き込んできた。 「よかった、ちゃんといる」 「……は?」 なんだか安堵しているらしいその様子に、明日香はわずか眉根を寄せた。いや、と大地は頭を掻いて。 「お前が俺を選んでここに来てくれたこと、なんか、まだ信じられないっていうか」 「なんだそれ」 弱気な言葉を笑い飛ばして、明日香はベッドの上に座り直した。大地は唇を尖らせると、ずかずかと部屋の中に入ってくる。 「だってさ、新田さんたちも言ってるぜ? 明日香が来てくれたからには、もう勝ちが決まったようなもんだって。それってつまりお前がヤマトやロナウドんとこ行ったら、俺たちなんて間違いなく負け痛ッ!」 「ばーか」 台詞の途中で、明日香は大地の額を思いきり弾いてやった。仰け反る親友に、肩をすくめて苦笑してみせる。 「大げさだなあ、今のダイチって物理無効だろ? 俺貫通つけてないし」 「スキル関係なく、なんかこう、気分的に痛かったの!」 「馬鹿ダイチ」 「馬鹿とはなんだ!」 訴える大地の額は、確かに少し赤くなっているようだ。明日香はわざと大きく嘆息する。 「もう決めたんだよ。今更、ヤマトやロナウドのとこ行こうなんて思わないって」 「そ、そうだけどさー……」 「何、まさか確かめにきたわけ? こっそり出て行ったりしてないかどうか」 「……」 うなだれている大地から答えはなく、どうやら図星だったらしい。明日香は目を細めて親友を見つめた。それこそ記憶の始まりから隣にいる彼のことは、自分が一番よく知っている。 大地はリーダーという器ではない。自ら先導するよりも、誰かの支えとなり補佐することで、力を発揮するタイプだといえる。本人もそれは自覚しているはずだ。 現在大地の下には新田維緒、九条緋那子、鳥居純吾が集まっている。彼らのリーダーになれるのか、先頭に立って率いることができるのか。世界をどうしたいかという明確な主張も持たないままで、彼もさぞかし不安だったのだろうと想像する。 「明日香は、すげー強いからさ」 うつむいたまま、大地はぽつりと呟いた。 「ヤマトのとこ行くんだろうなって、本当は思ってた。あと強いからこそ、平等な社会を求めてロナウドのとこに行く可能性もあるって。だから何も考えてない俺なんか、選んでくれるなんて思ってなかったわけよ」 はは、と力なく笑う大地の表情は、自信のないときによく見せる笑顔だ。明日香はふっと微笑んで、過去の記憶をそれに重ねた。 「小学校の……何年生だっけ。クラス委員に抜擢されたときも、そんな顔してたよなダイチって」 「え? ああ」 大地は一瞬だけきょとんとして、また不満げに唇を突き出してみせる。 「あれは絶対、空気読まない奴が俺に票入れたんだって。先生も言ってたじゃん、志島大地がクラス委員で北明日香が副って、逆だろ?みたいな」 「あと、運動会のリレーのアンカーに選ばれたときも」 「あーあったな! たまたまお前より速く走れたんだよ、あのときは」 「文化祭の出し物でも、よく居残り喰らって半べそかいてたな」 「あ、クラス全員で演劇みたいなのやったとき? でもあれって、お前は王子様の役だったじゃん。俺なんて王子のお供の兵隊Bだよ兵隊B、地味で目立たないエキストラですよ」 「その兵隊Bだって、台詞全然覚えられなくてさ」 「うわ、ちょ、地味に幼少時のトラウマ! 思い出させないでぇぇぇ!」 大地は大げさに泣き真似をしながら、ばたりとベッドに突っ伏してきた。明日香は笑いを堪えつつ、懐かしく思い出に浸る。考えてみれば自分の記憶は、いつもこの幼馴染と共にあるような気がする。 「あ。幼少時のトラウマといえば」 思い出したように起き上がった大地は、そこで不自然に言葉に詰まった。何、と促すと、何故かうろたえるように視線を外して。 「い、いやその俺、出逢ってしばらくはお前のこと、女の子だって思い込んでてさ」 「……そうだっけ?」 そんなこともあったか、と明日香は首を傾げた。大地とは家が近所ということで、気がつけば毎日のように共に遊んでいた。出逢ってしばらくのことは、既に記憶に埋もれていてうまく思い出せない。 「だだだだって普通さ、明日香って女子の名前だろ? んで『あすかちゃん』って呼ばれてたら、女の子だって思っちまうだろ? それにお前、髪ふわふわしてるし目も大きいし、なんか可愛かったしあの頃は女子とばっか一緒にいたし!」 「……忘れた」 「ああうん、忘れたままでいてくれ」 「あ、思い出した」 「えええ!」 頓狂な悲鳴を上げた大地に、明日香はにやりと笑ってみせた。 「『だいち、おとなになったらあすかちゃんとけっこんする!』って言われたんだった」 「……だ、だから忘れたままでいてって言ったのに……」 再度ベッドに突っ伏した友人の姿が面白くて、明日香は耐えられず吹き出してしまった。そんな下らない会話をしていると、世界は何も変わっていないかのように錯覚できた。夜が明けて目が覚めれば、普段の日常が始まるかのごとく。二人であくびを噛み殺しながら並んで学校へ向かう、いつもどおりの朝が。 「……なあ、明日香」 ベッドに顔を伏せたまま、大地が静かに呼びかけてくる。 「ポラリスがさ。今の世界はダメだって判断したから、消そうとしてるわけなんだよな。でも、俺は俺がいた世界のこと、結構好きだったんだなって……今になって、思った」 「……そうだな」 独り言じみた淋しげな言葉を、明日香は小さく頷くことで肯定した。だよな、と大地は勢いよく起き上がる。 「絶対認めさせてやろうぜ、ポラリスに。ヤマトやロナウドに負けない、俺たちの世界を」 「ああ」 力強い言葉を受けて、明日香は無意識に右手を差し出していた。気がついて大地も手を出し、固い握手を交わす。気心の知れた幼馴染同士ゆえに、わざわざこうして決意を示すのは気恥ずかしいものがある。遅れて込み上げてきた照れ隠し代わりに、明日香はぶんと手を離して。 「よし。んじゃ、ダイチと俺がケッコンできる世界を創ろうか!」 「ちょ、やめて! キミが言うとマジで実現しそうだから!」 「甘いな、そう簡単に俺を落とせると思うなよ兵隊B」 「そこまだ引きずるの王子様!?」 打てば響くような馴染んだやり取りが、周囲の空気を和ませてゆく。耐えられず吹き出してしまった明日香を、大地は改めて正面から覗き込んだ。先ほどとは全く違う、自信に満ちた輝く瞳。 「お前が隣にいれば、何もかもうまくいく気がするんだ。だからこれからもよろしくな、親友」 そう言って笑う幼馴染の顔は、記憶の中よりもずっと大人びて見えた。
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