隣を行く男の身体は、重力に逆らってふわふわと浮いている。 地面から三十センチほど離れているその足を眺めながら、明日香はぼんやりと歩き続けていた。 周囲に人影は全くなく、物音もしない。崩壊したビルの間にいると、ここが東京の中心部だということすら忘れそうになる。割れたアスファルト、乗り捨てられた車、消えた信号機。 一体今、どれくらいの人間が生き残っているのだろう。ふとそんな疑問が浮上して、明日香は辺りを見渡した。まだゼロではないはずなのに、この静寂はまるで世界に二人きりであるかのようだ。否、二人ではなく一人きりか。現在自分の唯一の仲間である男は、人間ではないのだから。 少し先に進んだ男―――アル・サダクと名乗った彼の背中を、明日香はなんとなく観察した。彼は自らを、人が神と呼ぶ概念に近い存在だと言った。納得はできるものの、やはりにわかには信じがたい事実だ。宙に浮いたりしなければ人間と全く変わらない、その外見のせいもあるのだろう。 「……サダク、ちょっと」 声を掛けると、サダクは優雅な動作で振り向いた。感情の読めない穏やかな微笑を浮かべたまま、宙を滑るようにして戻ってくる。 「どうかしたかい、輝く者よ」 「ああ、うん」 音もなく隣に来たサダクの腕を、明日香は無造作につかんで引き下ろした。地に降り立つ形になったサダクに、この方がいい、と一人頷く。 昨夜まで大地たちと徒歩で行動していたせいか、サダクがふわふわ飛んでいると、なんだか悪魔を使役している気分になってしまうのだ。つまり視覚的に同行者は仲魔のみ、生きている人間は自分が最後で、それこそ世界に独りきり取り残されているかのような。 このまま自分と同じように、隣を歩いて移動してほしい。明日香がそう言う前に、サダクは納得したように微笑んだ。 「ああ、もしかして歩き疲れただろうか。すまない、気遣うべきだった」 「いや、そ……っ!?」 そうじゃなくてと否定しかけた視界が、いきなり大きく倒れ込む。驚いて見れば、何故かサダクに抱き上げられた体勢だ。いわゆるお姫様抱っこに慌てていると、すぐに奇妙な浮遊感がやってきた。 「え」 ―――浮いている。サダクに抱えられたまま。 「嘘……」 突然の出来事に、明日香は離れてゆく地面を呆然と見つめた。ある程度浮いたところで、サダクは前へと移動し始める。十八歳男子一人を持ち上げているというのに、全く苦にしていない様子で。 「かつての仲間たちとの戦いは、この先避けられないだろうからね。こうした方が君の体力温存になるし、万全の態勢で臨めるだろう」 「ええ? それは、そうだけど……だったら悪魔を呼ぶよ、霊鳥とかに乗せてもらうから」 「いや、悪魔の力も同じだ。戦いに備えて、無駄に使役しない方がいい」 「で、でも、これってサダクが辛くないか?」 痩躯の部類に入るとはいえ男子高校生の体重だ、決して軽くはないだろう。それにこの体勢はどうにも恥ずかしい。せめて手を繋ぐとか背負うとか、明日香は一瞬そう考えてから否定する。どちらにせよ恥ずかしいことに変わりはないし、そもそも歩けないほど疲れているわけではないのだ。 「つらい? それは、重さのことを言っているのだろうか。大丈夫、問題ないよ」 ふふ、と微笑を浮かべて、サダクはこともなげに言ってみせた。彼がどういう原理で浮いているのか見当もつかないが、確かにこうして抱えられている今は、明日香自身にも重力から解放されたような感覚がある。今ならどこまでも飛んでゆけそうな、まるで己がその力を手に入れたかのような、興奮と高揚感。 「……じゃ、もっと高く飛べたりする?」 開き直ると、地面から少し浮いているだけでは物足りなくなった。壊れた瓦礫や道路のひび割れに足を取られないだけでも快適だが、どうせなら、もっと上から街を見下ろしたくなってしまう。 「もちろん」 言って、サダクは空を仰いだ。同時にエレベーターに乗っているときにも似た、軽い圧力が襲いかかる。次第に遠ざかる、瓦礫だらけのアスファルト。 「すげ……!」 ビルの五階ほどの高さまで浮いたところで、明日香は素直に感動した。サダクの力とはいえ、自分は今、正に空を飛んでいるのだ。この一週間、非現実的なことには慣れたと思っていたはずなのに。 「……人間は鳥のように、空を飛ぶ翼を持っていない」 目を輝かせて周囲を見渡している明日香に、サダクがふわりと笑ってみせる。 「だからこそ、人は様々な乗り物を創造してきた。ヘリコプターや飛行機、宇宙船……今や君たちは星の外にまで飛び出せる力を得たというのに、たかがこの高さを飛ぶだけで、そんなにも感動してくれるんだね」 「当たり前だろ」 なんだか珍しいものを見たような口調で言われて、明日香は思わず反論した。 「そりゃ、飛行機ならもっと高く速く飛べるけどさ。サダクは乗り物じゃないから、なんか自力で飛んでる!って感じがして楽しいんだよ」 「……そう、か。そういうものなんだね」 目を細めて言うサダクの表情は、どこか憧憬を思わせる。人という種が愛しくてたまらないといったような、慈愛に満ちた優しい瞳。まっすぐなその光にいたたまれなくなって、明日香は視線を遠くへ投げた。意識するとこの状況が果てしなく恥ずかしいものに思えてきて、あえて考えないようにする。 神に近しい男に抱き上げられて遊覧飛行とは、なかなかできない体験だ。自嘲してこっそりため息を吐くと、眼下に仙草寺の赤い提灯が見えた。すぐ隣の遊園地は、既に三分の一ほどが黒い傷に抉られている。幼い頃、大地と家族ぐるみでよく遊びに行ったことを思い出して、明日香は胸を締めつけられた気がした。 崩壊した日常と失われた平穏、その現実を改めて突きつけられた気分だった。もう少し高度を上げれば、きっと渋谷近辺も見えてくるだろう。家も、家族も、もうあれに呑み込まれてしまっただろうか。今更湧き上がる喪失感に、知らず胸を押さえようとした、次の瞬間。 「う、わ!?」 唐突に、身体が浮き上がった。かと思えば急降下したあげく、一回転して元の高度に戻る。反射的にサダクの首に縋りついてしまった明日香は、何が起きたのかわからずに、ただ瞬きを繰り返すしかない。 「私には、理解できないのだが」 「え、な、ッ!」 何が、と言う前にまた落ちた。そのスピードに息を詰めていると、地面寸前で再浮上した。更に二転三転、くるくると大きく回る。 「サダ、ク、ちょ、何!」 戻ったところで、明日香は悲鳴混じりに呼びかけた。涼しい顔で宙に止まったサダクは、目で下方を示して。 「人は、あれが好きだろう?」 「あれ? ……あ」 視線を追った明日香は、そういうことかと呻いてしまった。先ほど見ていた遊園地の、半壊したジェットコースター。レールの奥の方は、やはり既に黒い傷に呑まれているようだ。 「さっき君は、淋しそうな顔で見つめていた。あれはもう動かないだろうから、代わりに、少しでも楽しむといい」 「だだからってうわあああ!」 再度の急降下と続く大回転に、明日香は落ちないよう必死でサダクにつかまった。確かにコースターの動きではあるが、レールのない自由落下状態では、遊園地気分で楽しむ前に恐怖が先立ってしまう。これはジェットコースターというよりも、いわゆるフリーフォールではないだろうか。なんだっけあの、ディスティニーランドかシーにある、ものすごく高いところから落ちるやつ! 「ま、待ってサダク、もう少しゆっくり! 優しく! あそこの遊園地のジェットコースター、こんなに激しくないから!」 理解できないと言いながらも、自分のために真似てくるくる回ってくれるサダクがおかしくて、明日香は次第に楽しくなってきてしまった。蘇るのは子供の頃、大地とはしゃいで何度も乗った思い出だ。大地も自分も、ジェットコースターが一番好きだった。また来ようねと笑い合った小学生の夏休みは、今も鮮明に記憶に刻まれている。 「……サダクも、本物に乗れば楽しさがわかるよ」 気がつけば、明日香は小さく呟いていた。滲んでしまった淋しさを振り払い、サダクを振り仰いで。 「だから今度、一緒に遊ぼう」 「……今度?」 一瞬だけ驚いたように、サダクがわずか目を見開く。明日香は彼の戸惑いに気づいていながら、あえて力強く頷いた。 「そ、今度。こんな風に二人だけじゃなくて、みんなと一緒に」 「そう……だね」 念を押した言葉に、サダクが遅れて口元を緩める。やはり憧憬が揺れる表情を、明日香は笑顔で受け止めた。 全てが虚無と化しつつある現状に、これから新たに創造しようとしている未来に、『今度』などという確約はない。だがいつか本当に仲間を交えて、彼と共に遊園地で遊べるような、そんな世界になればいいと思った。
星のジェットコースター |