大地のマフラーが、視界の端で風に揺れている。 今や幼馴染のトレードマークともいえる、青みがかった黄色いマフラー。靴と合わせて色を揃えて、おしゃれだろと自慢げに見せてきた、あれはいつのことだっただろう。 なんだかはるか昔のように思えるのは、遠くかけ離れた現状のせいに違いない。一週間前のあの日から、世界は変わりすぎてしまったのだ。 半壊した建物や瓦礫だらけの道路、不自然なほどの静寂。いつもなら賑やかな土曜日の渋谷も、今は他に人影一つ見当たらない。 「……かなわないなあ、もう」 考え込んでいた大地が、脱力したように苦笑する。 「こうなったら、いちれんたくしょーだ。改めて、よろしくな」 そう言って差し出された右手を、明日香は静かな喜びと共に見つめた。 昨夜、自分はこの手を取らなかった。自分が選んだのは、憂う者アル・サダクと新たな世界を作る道だった。ゆえにかつての仲間たちに対し、一度は戦って勝利した上で、改めて説得しなければならなかったのだ。例外なく、この幼馴染にも。 引き寄せて抱きついて歓迎したくなったが、気心の知れた仲だけに、照れ臭さの方が勝ってしまった。明日香は大地の右手を素通りし、首のマフラーをつかんでやる。 「こちらこそ、よろしく」 「よろしくー、っていや、握手ってそっちじゃなくね?」 「ダイチの本体はマフラーだから」 「え、マフラーしてなかったら俺じゃないってこと? それを言ったら、キミの本体も実はこっちでしょ!」 お返しとばかりに、大地は明日香のパーカーのフードの後ろ、兎の耳に似た飾り部分をつかんできた。明日香はマフラーから手を離し、今度は大地の両頬をつまむ。 「んじゃ改めて本体と握手、って相変わらずよく伸びるなあ」 「だからこれ握手じゃな、いいいひゃいれす、あしゅかしゃん」 引っ張られながら、大地は不明瞭に文句を零した。仕返しだと伸ばされた両手で、同じように頬をつねられる。向かい合って、互いに互いの両頬をつかむ格好になる。 こうしてじゃれ合っていると、表向きは何も変わらない。本気のプロレスごっこに発展した放課後や、些細なことでケンカした休日。当たり前のように、そこにあった日常だ。 「……ありがとな、ダイチ」 「いいってことよ、親友」 わざと額をぶつけて、二人は至近距離で笑い合った。それだけで昨夜からのわだかまりも、敵対して傷つけ合った気まずさも、何もかも消えてなくなった気がした。 「それじゃ俺、荷物まとめてくる。名古屋と大阪、行くんだろ?」 明日香の頬を軽く押さえて、大地がにっこり笑ってみせる。明日香も大地の頭をぽんと叩いて肯定した。 「ああ。東京ターミナル、十一時に集合な」 緋那子と純吾と維緒が先に向かっている旨を告げると、大地は不満げに唇を尖らせていた。もうみんな説得済みなのかよ、やっぱ俺よりお前の方が全然リーダーじゃん。ぶつぶつ言いながらジプス東京支局へ戻る幼馴染を、明日香は笑顔で見送った。―――これで、東京勢の四人が再び仲間となった。 「サダク」 大地が建物の向こうに消えてから、明日香は空に向かって呼びかけた。 「そこにいる? 名古屋勢や大阪勢が、東京に来た様子は?」 「今のところないよ、輝く者」 即答と同時に、ふわりと細い影が降りてくる。姿を現したアル・サダクに、明日香は応えて頷いた。仲間たちの説得は、自分一人でいい。サダクがいるとややこしくなるかもしれないので、席を外すついでに他勢力の動向を探ってもらっていたのだ。 「じゃ、まだそんなに警戒しなくても大丈夫かな」 東京に残っている人間や野良悪魔なら、大地たちの敵ではないだろう。とりあえず自分もターミナルに向かおうかと、明日香は携帯で時間を確かめた。 「さすがだね、輝く者よ。かつての仲間たちは一人ずつ、確実に、再び君の下へと集まりつつある……そうだ」 独り言めいて呟いたサダクが、地面に降り立って覗き込んできた。 「先ほど、志島大地と喧嘩していたのは、どうしてだろうか」 「ケンカ? ああ、見てたのか」 恐らくマフラーやフードを引っ張ったり、頬をつねり合ったりしていたことを指すのだろう。サダクからすれば、どうやら喧嘩に見えたらしい。 「そうじゃなくて、スキンシップみたいなもんだよ。仲間とのじゃれ合いっていうか、まあ友情の確かめ合いっていうか」 「すきんしっぷ……それは、私にも許されることだろうか」 「え」 許されるって何それ、と明日香は一瞬ぽかんとしてしまった。そんなに大げさなものではないと思うのだが、サダクがどこかずれているのは今に始まったことではない。そもそも彼は人間ではないのだから、常識が通用しないのも当たり前なのだ。 「仲間として、私もしてみたいと思ってしまった」 何やら思案顔で、サダクは顎に手を当てている。そういえば今朝、『憂う者』ではない呼び名を教えてくれたとき。仲間同士は名前で呼び合うのだろうと、妙に嬉しそうだったことを思い出す。考えてみれば彼は悪魔を従えてはいたが、己と信念を同じくして対等に並び立つ者―――つまり仲間という概念を、今までは持ち合わせていなかったに違いない。ゆえに一歩引いたところで、彼なりに付き合い方を模索中なのだろう。 「別にいいけど、あ、でも優しくしてね?」 そういうことならと、明日香はおどけて言ってみせた。いきなり幼馴染の大地のように接するのは無理かもしれないが、同等に親しく仲良くなれるなら大歓迎だ。 そうか、と嬉しそうに顔を輝かせるサダクは、無邪気で素直な子供を連想させる。明日香は微笑ましくなって、伸ばされた手をおとなしく受け止めた。 遠慮がちに、するりと頬に触れる指。つまむのではなく撫でられたことに、驚きと戸惑いが湧き上がる。大地とは勝手が違うというか、予想していなかったというか。 「サ、サダク?」 動揺する明日香に構わず、サダクは包み込むかのごとく両手のひらを滑らせた。更に何を思ったのか、指は頬から耳もとへ下りる。ぞくりと、悪寒に似た何かが走る。 「ちょ、えええ、えっち!」 さすがに耐えきれず、明日香は叫ぶように言って思いきり身を引いた。手を伸ばしたまま、サダクがきょとんと首を傾げる。 「……えっち?」 「あ、いや」 大地や緋那子なら突っ込んでくれるし、真琴なら大げさに否定してくれるだろうが、相手はいまいち冗談の通じないサダクだ。とっさにごまかすべく、明日香は両手で目の前の頬をつまんだ。大地にしたときよりも、幾分加減した弱めの力で。 「じゃなくて、さっきのサダクみたいな触り方は、仲間同士でしたりしないの!」 「ほうなのかい? なるほろ、難ひいものだね」 頬を引っ張られ固定されているせいで、サダクはうまく発音できないようだ。それでも至って真面目に話すその表情に、明日香は思わず吹き出してしまった。 「……輝く者?」 一転して笑い出した明日香を、サダクはやはりきょとんとして見つめている。だがすぐにまた、いつもの穏やかな微笑を浮かべてみせた。 「不思議だね。君がそうやって楽しそうに笑ってくれると、私も嬉しくなる。私が君たちにしてきたことは、間違いではなかった。そう実感できるからかもしれない」 言葉と同時に、ふいにサダクの人差し指が近づいた。指先は触れるか触れないかの微妙な位置で、明日香の唇をなぞり上げる。丁寧に、笑みの形を確かめるかのように。 「……な」 「私は君たちの笑顔が好きだ。ゆえに新しい世界でも、笑っていてほしいと願う」 凍りついてしまった明日香をよそに、では行こうかと微笑んで、サダクは宙を移動し始めている。明日香は呆然と口元を押さえたまま動けない。 「? どうかしたかい、輝く者よ」 「なっ……なんでもない!」 慌てて我に返って、ぶんぶんと頭を振る。彼の言うとおり、皆が笑顔でいられる明日がいい。これからの未来にあえて気持ちを切り替えて、明日香は先行する背中を追いかけた。 体温を感じさせないサダクの指が、唇に灯した冷たい炎。その残滓を、振り払うように拭いながら。
笑顔の明日 |