地下鉄構内は、痛いほどの静寂で満たされていた。

 階段の上から覗き込んで、響希は暗闇に息を呑む。半蔵門線渋谷駅はよく見知った場所だったが、今はその面影もない。

 持っていた懐中電灯をつけると、瓦礫だらけのホームが見えた。事故を起こした車両は、あの日のまま放置されているようだ。さすがに遺体などは残されていない。もっと明るければ、そこかしこに残る血痕を見ることになったかもしれないが。

 想像を振り払った響希は、いつでも携帯電話を構えられるよう、警戒しながら階段を下りた。とにかくここなら誰もいないし、今のところ悪魔の気配もない。一晩身を隠して過ごすには最適だろう。

 足下に気をつけてホームを歩き、横倒しになっている車両を照らす。先頭部分は無残だが、後部の方は無事だ。響希は歪んで外れたドアをくぐり、長い座席の真ん中に倒れ込むように座った。ここをベッド代わりにすれば、少しは落ち着くことができる。

 懐中電灯を置いて、背中のバッグを下ろす。ジプスから配給された食糧は残り少ないが、食べられるうちに食べた方がいいだろう。明日からは恐らく、ゆっくり食事をする余裕もない。自分は、一番『敵』が増える選択をしたのだから。

 敵か、と呟いて天井を仰ぐと、つい先ほどまで会っていた仲間たちの顔が脳裏をよぎった。実力主義を掲げる峰津院大和、平等主義を掲げる栗木ロナウド、そのどちらにも属さない志島大地。どの勢力も響希を説得し、賛同するよう誘いかけてくれた。どれも納得はできたのだが、どれも選ぶことができなかった。だが第四の選択をした今、本当にこれでよかったのだろうかと、おぼろげな後悔は否めない。

 乾パンを水で飲み下しながら、響希は携帯電話を握り締めた。今頃皆はどうしているのだろうと思うと、忘れていた淋しさが湧き上がる。あの日以来、周囲にはいつも仲間がいた。今更ながら、随分と彼らに支えられてきたことを痛感する。単純に色々あったせいで、麻痺してしまっただけだと思っていたのに。

 とにかく、明日のために寝てしまおう。

 荷物をまとめて、響希は座席に寝転がった。懐中電灯に手を伸ばして消すと、何も見えない闇が降りた。暗いところは別に平気なのだが、シートは固く車内温度も低めで、さすがに安眠はできそうにない。ジプスから毛布でも持ってくるべきだったかと、響希は寝転がったまま、胎児のように丸くなった。

 眠らなければと思えば思うほど、睡魔は遠く離れてゆく。ビャッコを召喚して添い寝すれば暖を取れるだろうか。火属性のスザクの方がいいだろうか。ああ、でも悪魔は温存した方がいいかもしれない。冴えてしまった頭で、雑然とした思考に溺れていると。

「眠れないのかい?」

 ふいに、間近で声がした。あまりにも唐突すぎて、響希は持っていた携帯を反射的に開いた。続けて召喚アプリを立ち上げようとして、寸前で思い留まる。

 柔らかく、落ち着いた声。憂う者と名乗ったあの少年だ。

 携帯をそのままに起き上がった響希は、数メートル先にその姿を見た。赤と黒の特徴的な服、闇に映える淡く白い光。細身の肢体は重力に逆らい、宙に浮いている。

「ああ、すまない。驚かせてしまったようだね」

 一瞬の警戒心を読み取ったのか、少年は口角を上げて微笑んでみせた。大きく息を吐いて、響希はシートに座り直す。

「わかってるなら、いきなり出てくるなって」
「今度から気をつけよう」

 にっこりと笑うその様子は、一見普通の人間と何ら変わりない。だが人間をはるかに超越した存在であることを、響希は既に知っている。

 自身が召喚する悪魔を除けば、現在は彼が唯一の仲間であり、唯一の味方だ。そういっても過言ではない現状を噛み締めて、響希は再度嘆息した。とはいえ、その状況は相手も同じではないだろうか。ならば。

「もしかして、俺のこと心配して来てくれたとか?」

 思いついて訊ねると、少年はわずか首を傾げた。

「心配、といえばそうかもしれないね。人が万全の状態でいるためには、適度な睡眠が必要不可欠だ。だが今の君には、それが困難なようだから」
「……まあ、ね」

 さすが、何もかもお見通しということらしい。響希は力なく笑った。

「環境の変化には随分慣れたと思ってたんだけど、今はあたたかいジプスの部屋が恋しいかも。あ、お前の力で毛布出すとか、できたりしない?」
「残念ながら不可能だよ。無から有を創り出すには、様々な条件が必要になる」

 そっか、と響希は肩をすくめた。彼は人間がいうところの『神』に近しい存在だと自称したが、いつでもどこでも奇跡を起こせるわけではないらしい。こっそり調達してきてもらうにも、敵勢力となったジプスに忍び込むのはさすがに危険だ。

「毛布代わりになるものって、やっぱり悪魔しかないかな」

 携帯をいじりながら迷う響希に、少年は思案顔で口を開いた。

「いや……君たち人間は、脳によって外部の情報を処理している。その神経活動は電気信号の伝達だ。そこに介入すれば、あるいは可能かもしれない」
「……ん? 何が?」

 独り言めいていたせいか、響希はいまいち理解できず頭を捻った。少年が微笑む。

「私の力で毛布を出すという、さっきの話だよ。ここに毛布があるのだと、君の脳に錯覚させることならできそうだ。いわゆる催眠術の一種だと思ってくれればいい」
「なるほど」

 わかりやすく言い直された説明に、響希は納得して頷いた。物理的には困難でも、感覚的なものなら容易だということか。

「試してみるかい?」
「うーん、そうだな……」

 今の自分には、明日に備えた休息が必要だ。少しでも睡眠導入の助けになるなら、試してみる価値はある。思って、響希は再度シートに寝転んだ。

「お願いしてみようかな。それで眠れるならありがたいし」
「それじゃ、目を閉じて。視覚情報は邪魔になるから。私も姿を消すよ」

 声に従っておとなしく瞼を伏せると、また暗闇に包まれた。すぐに、何かがふわりと降りてくる。柔らかな感触は、まるで本当に毛布が掛けられたかのごとく。

 実際そこには何もないなどと信じられず、響希は目を閉じたまま感動した。肌触りも匂いもしっくり馴染む様に、使い慣れた自分の部屋の毛布を思い出す。同じだ。もしかするとあの少年が、感覚を再現してくれたのだろうか。響希の記憶を基にして。

 彼がニカイアの管理人であることを踏まえてみれば、一理あるように思われた。予知のごとく未来の事象を知っているなら、過去の出来事―――個人の些細な五感の記憶に至るまで、データベースのように網羅し参照できるだろうからだ。

 安心したおかげか、先ほどまで抱いていたおぼろげな後悔は消えた。当然自分なりに熟考した上で、彼と共に新しい世界を作ることを選んだのだが、改めて間違ってはいなかったと確信する。つまり結構良い奴じゃないかという、少年に対する印象だ。太古の昔から人類を見守ってきたという彼は、これからも良き友人でいてくれるはずだ。

 ……どうせならついでに、シートの方も寝心地良くしてもらえばよかったか。

 そんなことを考えているうちに、睡魔が来た。久しぶりの穏やかな眠りに、響希はゆっくりと沈んでいった。










 ―――あたたかい。

 浅い夢を渡り歩いていた響希は、無意識に毛布を引き寄せた。首を傾け、柔らかなそれに頬擦りする。寝返りがシートの背もたれに阻まれたところで、ああ電車の中だったと初めて現実に帰った。思いのほか、よく眠れたようだ。所詮は錯覚ながらも、使い慣れた毛布の効果は絶大だったということか。

 あまりの心地良さに二度寝の誘惑が襲いかかるが、夜が明けているなら起きた方がいいだろう。とりあえず時間を確かめるべく、響希は瞼を持ち上げて、そして。

「おはよう、輝く者」

 すぐ目の前、鼻と鼻がぶつかりそうなほどの至近距離に、少年の顔があった。何故か抱きつくように上から圧し掛かられている。とはいえ、重さは全く感じないのだが。

「なっ、何……!」

 さっき引き寄せたと思った毛布は、どうやら彼の右手だったらしい。頬を撫でるあたたかな手のひらに、響希は絶句して固まった。少年はどこか楽しげな様子で、無邪気に笑ってみせる。

「君の神経活動に介入するまでもなく、私の身体の質量と温度を変化させれば、私自身が君の毛布となることも可能だと考えた結果だよ」
「……は?」

 いや、これでは毛布というより抱き枕ではないか。視覚で認識してしまった今は意味がなくないか。というか抱きつく必要はあるのか、顔が近すぎはしないか。

「輝く者?」

 羽根のような睫毛に縁取られた目が、突っ込みが追いつかず混乱する響希を覗き込む。

「どうかしたのかい。体温が上昇しているよ」
「え、うわ」

 何も言葉を発することができないまま、響希はとにかく離れようと慌てて座席からずり落ちた。

 床で頭を打つ前に、自称毛布に優しく抱きとめられる。彼のふわふわした白い髪が、いたずらに耳や首筋をくすぐって、響希は今度こそ悲鳴を上げた。










ライナス
20130504 スーパーコミックシティ発行ペーパーより加筆修正にて再録
20130601UP


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