月夜の殺人者

























 何の感情もなく、「彼女」はそれを見下ろしていた。


 たった今手放され、落ちてぶら下がった受話器。まだ誰の声
もしないが、時折空気を弾く回線越しの雑音。降りる静寂と、
遠くの車の音と。時が止まったかのように、ただ佇む電話ボッ
クス。――その箱を墓場にして、動かなくなった一つの死体を。

 さらりと前髪をかきあげて、つまんないの、と空になった銃
を弄んでみる。鉄の塊から、かすかに硝煙の臭いが立ち昇る。
予想外にあっけない結末だった。もう少し、手強い相手かと思
っていたのに。

 あのラストが逃がしてしまった男なのだ。しかも1回死んじ
ゃったわ、などと笑いながら。自分の変化もすぐ見破られたし、
これはしばらく遊べそうだ、暇つぶしになりそうだと思ったら。

「所詮、こいつも『人間』なんだねー」

 揶揄と嘲笑が入り混じった口調で、彼女は肩をすくめてみせ
た。

 この姿になった途端、おもしろいくらいわかりやすく、彼の
動きが完全に止まった。剥き出しの敵意が、行き場をなくして
さまようのを見た。揺らぐ瞳と、食いしばった歯と。目の前の
現実を否定しようとして、でもできなくて、力なく降ろされた
右手。地面に落ちたナイフの音が、彼女には引き金を引く合図
に聞こえた。

「最愛の女房に殺されるなんて、幸せだよね」

 にっこりと、優しく――それはまるで本物の彼女のように!
――微笑むと、彼はなんともいえない顔をした。それが、最期
だった。

 愛情や親しみは、単なる弱点でしかすぎないと彼女は思う。
それを誇りとし強さとする輩こそ、己の格好の獲物になる。そ
の上、つけ入る隙はいくらでもあるのだ。そんな感情がどうし
て必要なのか、疑問を持たずにはいられない。

 彼女には「家族」がなかった。彼女を作った「創造主」と、
出生を同じくする「仲間」はいれど、そこに愛という陳腐な観
念は存在するはずもなかった。だから、彼の最期も理解できな
い。大体、仲間と家族はどう違うのだろう。例えば自分の前に
仲間そっくりの姿をした敵が現れて、自分を殺そうとしたら。

「うーん、お父様だったら躊躇する、かなあ…?」

 がしがしと頭をかきながら、まあいいやとのんびり呟いて、
彼女は何気なく空を見上げた。夜空に想像を投影して、少し笑
ってみる。それはそれで楽しそうだと思い、木々の向こうに昇
りかけた月を見つけた。闇夜を切り裂いて主張する光は、誰か
の綺麗な金色の髪と、意思の強さに輝く瞳を連想させた。

 あの子だったらどうするだろう、と思いを巡らせてみる。知
人に姿を変えた自分を見たら、どう反応するだろう。無抵抗に
殺されてくれるのだろうか。あくまでも別人として、割り切っ
て攻撃してくるのだろうか。

 例えば、あの子の母親になったとしたら。

 驚愕に見開かれた目が、容易に想像できた。言葉をなくして
青ざめる唇が、脳裏で鮮明に瞬いた。それでも抵抗できるのな
ら、極上の笑顔で言ってやろうと思う。






 ――『また』私を殺すのね、エドワード?






 ぞくり、と愉悦が走った。錯乱状態で歪む彼の表情が、嗜虐
の悦びを連れてくる。彼女は自分を抱きしめて、しばし己の欲
望に酔った。あの金色の瞳が、絶望に染まる瞬間を。赤く染ま
った鋼の右手が、力なく落ちるその音を。

 彼をこの手で殺すことは許されないが、多少の悪戯は大目に
見てもらわなければ割に合わない。今だって、予定外の仕事を
無事完了させたことだし。

 そんなことを思いながら、彼女は冷えてゆく魂の抜け殻を一
瞥した。電話ボックスに咲いた血の華が、生き物じみて広がっ
てゆく。足元に落ちている写真に、手を伸ばそうとするかのご
とく。

 血液自体に意思があるはずはないけれど、それはどこか執着
にも見えた。彼の一部だった緋色は、主を失ってなお大切なも
のを守ろうとしているかに思えた。

 ため息をついて、彼女はそこにしゃがみ込む。写真の中で笑
っている家族の姿に口角を上げて、もう笑うことのない「旦那」
と視線を合わせて。

「おやすみなさい…あなた」

 きっと「彼女」がそうしていたように、愛しげに頬に触れて。

「永遠に、ね」

 すぐに手を離して、彼女は踵を返した。指に移った最後のぬ
くもりも、夜の冷気に儚く消えてゆく。一切の興味をなくし、
静かに歩き始めた足元が、ぱきりと硬質の音を響かせた。

 剥がれ落ちるように、皮膚が形を変えてゆく。白くなめらか
な女性のそれは、骨ばった少年の肢体へ。色素の薄い短髪は、
広がる長い黒髪へ。数歩のうちに、そのまま完全に別人へと。

 受話器から、誰かの切羽詰った声が届く。月に背を向けた少
年の姿は、やがて紛れて闇に溶けた。


 二度と、振り向きもせずに。








200311XX up


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