時報の鐘の音が、町中に響き渡っていた。
いつの間にか、日が暮れている。田舎都市の図書館の、古び
た窓から差し込む夕陽。それを浴びる自分の腕の、不可思議な
色を一瞬目に留めてから、アルフォンスは本を閉じた。
閉館ですよと声をかけてくれた、奥の司書に会釈する。見か
けによらず礼儀正しい鎧に、不審そうだった老人の表情が和ら
いだ。
「そろそろ帰ろうか、兄さん」
本を丁寧に棚に収めて、アルフォンスは振り返った。ああ、
と返ってくるはずのぶっきらぼうな返事はなく、ただカラスの
声が遠く届いた。周りを見渡すと、兄の姿がない。きっとまた
片っ端から読破する勢いで、書物に没頭しているのだろう。時
報の鐘も、弟の呼びかけも聞こえないほどに。
小さな書庫ゆえ、見つけることは容易だった。本棚に挟まれ
た奥、積み上げられた本の隙間。わずかに覗く、真剣な横顔。
本の山に埋もれるようにして、彼はいた。
声をかけようとして、アルフォンスは少しためらった。何故
か邪魔をしてはいけないような、神聖な空気を感じたのだ。誰
であろうと侵入を拒む、透明な境界線。それはどこか張り詰め
た糸に似ていて。
光を宿した金色の瞳が、手にした書物ただ一点にのみ注がれ
ている。集中力が生み出す空間は、彼の周りだけ別世界が構築
されているようで、アルフォンスはしばらくそのまま躊躇した。
わかっている。ちゃんと呼べば、兄は閉じこもった自分の世
界からすぐ戻ってくるのだと。本から目を上げて、ここがどこ
だかわかっていない顔で。わずかに視線をさまよわせて、よう
やくこちらに気づくのだと。そして笑いながら、聞き慣れた声
で聞き慣れた名前を。
――アル。
彼が呼んでくれる、その響きが好きだった。不確かな存在で
ある魂が、共鳴するような気がした。
あの時も。「アルフォンス」が消失した時も。
きっと、必死で名前を叫んでくれたのだろうと思う。そうす
ることで失うまいとするかのごとく、何度も何度も何度も。
「…兄さん」
小さく、呟く。兄にはまだ届かない。
「兄さん」
あるはずのない声帯で。あるはずのない口で。
「兄さん!」
一際大きく、アルフォンスは呼びかける。気づいて微笑む唇
から、己がここにいる証拠を導き出すために。
20050822up
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