グラフィックの青空を見上げたシラバスは、いい天気だと右手を
かざした。

 作り物の太陽にも、己の両目は眩しさを覚えるような気がする。
マイクロモノラルディスプレイ――通称M2Dを外せば、そこには
雑多な一人暮らしの部屋があるだけなのに。

 それとも、だから綺麗だと感じるのだろうか。虚像であるからこ
そ、この空と海の景色は見惚れるほど美しいのだと。

 そういえば最近海なんて行ってないなと苦笑して、シラバスは前
を歩く2人の仲間に目を向け直した。

 オンラインゲーム『The World』。ログインとほぼ同時にショート
メールを受信して、パーティーに合流したのはついさっきのことだ。
リーダーはハセヲ、もう一人はガスパー。カナードチームだねと笑
いながら、ランダムで選んだ青空のフィールドだった。目的は経験
値稼ぎ、そう言われたガスパーは驚いていた。

 アリーナでの更なるランク昇級のために、近頃のハセヲはレベル
上げに専念している。それならシラバスとアトリの出場メンバーで
パーティーを組めば、効率よく強くなれるのにと。

「…いや、ずっとショップ任せっきりだったからさ」

 ハセヲはぶっきらぼうに呟いて、それ以上何も言わずにそっぽを
向いた。アリーナには出られないけど、おいらもたまには冒険に誘
ってね。ガスパーがそう言っていたことを思い出す。

「優しいなあ、ハセヲは」

 思わず呟いた台詞は、聞こえなかったことにされたらしい。転送
されてエリアに出るなり、彼はすぐ敵を倒すことに集中してしまっ
た。

 レベルがちょうどよかったらしく、効率よく経験値も稼げて、見
合った装備品も手に入った。あとはエリアのミッションであるボス
を倒すのみだ。あまりこのゲームを「楽しむ」ことをしようとはし
ないハセヲも、珍しく機嫌のいい様子で歩いている。

 見上げれば抜けるような青空と、穏やかに流れる白い雲。陽光を
浴びて羽ばたく鳥たちの向こうに、おぼろげに霞む大砲に似たオブ
ジェ。足元には色鮮やかな花と緑が揺れ、静かな波の音が繰り返さ
れていて。

「たまには、いいもんだよね」
「…? 何が」

 微笑んだシラバスの台詞に、ハセヲが訝しげに振り向いた。

「うん、こうやってのんびりプレイするの」
「…お前らはいつものんびりしてるだろーが」
「ハセヲがのんびりしなさすぎだと思うぞぉ」

 眉を寄せたハセヲに、ガスパーが間延びした口調で告げる。確か
に、とシラバスはこっそり笑った。

 彼はいつも経験値やアイテムを優先する。たかがネットゲームと
馬鹿にしながら、がむしゃらにモンスターを倒してレベルを上げて
宝箱を蹴って、ひたすら強くなろうとしている。

 レベル133からいきなり1になってしまったことは聞いたし、
『三爪痕』というPKを探していることも聞いた。力が必要だと彼
は言うが、その根底にあるものを、そうやって彼が追い立てられて
いる理由を、シラバスはよく知らないけれど。

「でも、たまには楽しいでしょ?」

 笑いかけると、ハセヲはますますしかめ面になった。反論しない
のは少なからずそう思ってくれている証拠だろうが、表立って認め
ないところが彼らしいと思う。

「あのな、俺はお前らと違ってそんな暇は…」
「あ、ハセヲぉ〜」

 先によたよたと小高い丘を曲がったガスパーが、ハセヲの言葉を
遮って手を振った。何か発見したのかと、ハセヲと共に視線をそち
らに投げた、その瞬間だった。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。唐突に地を蹴ったハセ
ヲの、赤と黒の残像だけが視界を横切って、シラバスは思わず瞬き
を繰り返した。

 壁のように立ち昇る、蜃気楼に似た青いエフェクト。緩やかに回
転する視点と、切り替わるBGMは、紛れもなく戦闘開始の合図。

「うわあ、おいら心の準備がまだだぞぉ」

 突然展開されたバトルエリアに、ガスパーも戸惑ったようだ。リ
ーダーが戦闘に入れば、パーティー全員が即座にエリア内に閉じ込
められる。モンスターに不意打ちを仕掛けたのかと思ったが、どう
やら誰かの戦闘中に割り込んだらしい。

「助けて下さい!」

 シラバスは刀剣を構えながら、悲鳴じみた女性PCの声を聞いた。
中央でうずくまっている魔導士と、彼女に向かって大剣を振り上げ
ている体格のいい獣人PC。PK――プレイヤーキラーだ。

「てめぇは『死の恐怖』…?」

 突然の闖入者に驚いた獣人が、目を見開いて呟いた。視線はまっ
すぐハセヲに向けられている。

「何、もしかして俺のファン?」

 双剣を取り出したハセヲは、完全に馬鹿にした笑みで言い捨てた。
てめぇ、とPKが怒りを露にする。本当にケンカを売るのが上手だ
な、そんなことを思ってシラバスはいっそ感心してしまった。

「…ふん」

 激昂した獣人PKは、すぐ気を取り直したように嘲笑してみせた。
シラバスとガスパーを一瞥し、大剣を振り仰いで。

「あのハセヲがレベルダウンして、初心者同然の奴らとつるんでる
って噂は本当だったのか。『死の恐怖』も堕ちたもんだな!」
「だから?」

 対するハセヲは相変わらず余裕の表情で、肩をすくめて鼻で笑う。
煽られたPKが、声を荒げて怒鳴りつけた。

「忘れたか、俺はてめぇにPKKされたことがあんだよ! ちょう
どいい、あのときの恨みを」
「キャンキャンうるせぇんだよ、負け犬が」

 ハセヲの低い呟きが重なった瞬間、獣人PKは呻き声を上げた。
疾風双刃。その名のごとく問答無用の速さで、ハセヲが仕掛けた先
制攻撃がヒットする。シラバスもそこで初めて、相手が攻撃を受け
たことに気づいたくらいだ。

「恨みを、なんだって?」

 ダウンしたPKを見下ろして、ハセヲはからかうように双剣を弄
んだ。起き上がった彼の攻撃をすかさず防ぎ、唇ににやりと笑みを
刻んで。

「言ってみろよ。聞こえねぇけどな」
「てめ…ッ!」

 振り下ろされた大剣を弾いて、ハセヲは身を翻した。流れるよう
な双剣のコンボに、PKは徐々に押されてゆく。青と紫のリングが
煌いて、レンゲキが入る。倒れた隙にため攻撃を食らわせ、吹っ飛
んで壁に激突したところをまた疾風双刃。反撃する間も与えず、そ
れは更に手助けする余地もなく。

「…うーん、僕らは手を出さない方がいいかもね」
「みたいだねぇ」

 シラバスが苦笑すると、ガスパーも目を合わせて笑ってくれた。
加勢しようと下手に近づけば、巻き込まれるかもしれないと思うほ
どの勢いだったのだ。

「じゃあ、とりあえず回復アイテムを」
「おいらもサポするぞハセヲぉ!」

 医療連盟いやし隊よろしく、2人はハセヲに気魂を使った。彼が
こちらを振り向き、サンキュと言ってくれるのがわかる。当然なが
らPKに対するものとは明らかに違う、親しみの含まれた表情。

 向けられた視線を、シラバスは純粋に嬉しいと思った。剣を持つ
手ではなく、コントローラーを握る両手が震えるのを感じた。知ら
ず高鳴った鼓動は、どこか優越感に似ていると思う。

「あ、ありがとうございます、助かりました…」

 PKされかけていた魔導士が、這うようにしてバトルエリアぎり
ぎりまで逃れてきた。大丈夫?と声をかけると、震えながらも頷い
て。

「あの、あの鎧装士の人、『死の恐怖』なんですか?」
「え、あー…うん、まあ、そうみたい」

 どう答えるべきか迷ってしまったので、シラバスはとりあえず曖
昧に頷いておいた。

「私、前も助けてもらったことがあるんです。とはいっても既に私
は死んじゃってて、その人はPKKだけして、蘇生もしてくれずに
行っちゃったんですけど」
「そ、そうなんだ」

 頷いて、同じような話をBBSで読んだことがあるなと思い出す。
『死の恐怖』であるハセヲの目的はあくまでもPKKであり、それ
以外はどうでもいいことだったのだろう。

「すごく…すごく強かったんです。でもなんだか強すぎて怖かった
というか、機械的だったというか。私、そういう新しいイベントの
NPCかと思ったくらいですから」
「確かにハセヲって、レベル1のときでも強かったもんねぇ〜」

 ガスパーが無邪気にハセヲを応援しながら、尊敬するように目を
輝かせた。そういえばそうだねと、シラバスは初めて彼に会ったと
きのことを思い出す。どこからどう見ても初心者なのに、強引で奔
放で無駄のないプレイスタイルは、正に熟練者のそれで。

 百人のPKを斬ったとか、無敗の黒い鎧装士とか、『The World』
のPK全員から狙われているとか。

 『死の恐怖』と恐れられていたPKKのハセヲを、シラバスは知
らない。噂には聞いていたが会ったことはなかったし、会うことは
ない、関わることもない、全く別次元のプレイヤーだとさえ思って
いたのだ。

 ぼんやりと、戦闘の行方を見守る。網膜に映る赤と黒の鎧装士は、
楽しそうに踊っているようにも見える。歪む笑顔が剣戟の火花に照
らされて、知らない人だとシラバスは思った。さっきまで一緒に冒
険していたハセヲではないと思った。

 ――ああ、本当に『死の恐怖』なんだ。

 今更ながら実感すると、急に壁ができたような錯覚に陥った。シ
ラバスが恐れるPKたちが、更に恐れる畏怖の対象。本来は自分の
ような一般PCと、行動を共にすることは一生なかったはずの。

 『死の恐怖』なんて知らない。あんなハセヲは知らない。知って
いるのは自分たちのギルドマスターで、口も態度も目つきも悪いが、
それでも必要な時はちゃんと手を貸してくれるハセヲだ。根は優し
いくせに表に出そうとしない、照れ屋で意地っ張りのリーダーだ。

 きっと、本当は住む世界が違うのだと。

 思い知りながら、シラバスは止めを刺されて消える獣人PKを見
ていた。










 礼を言って、アイテムと割引券を渡して、女性魔導士はタウンへ
帰っていった。

「何もらったんだ、ハセヲ?」
「耳飾」
「お〜いいアイテムだねぇ〜」
「まだレベル足りなくて装備できねぇけどなw」

 ハセヲとガスパーの会話を聞きながら、シラバスはプラットホー
ムの青い光を眺めていた。今のハセヲはPKKではない。少なくと
も、それが目的でゲームをやっているのではないと思う。

 もしあの魔導士が死んでいたら、今度は蘇生してやっていただろ
うか。PKを始末するためではなく、襲われている誰かを助けるた
めに、バトルエリアに突っ込んだのだと信じてもいいだろうか。

「おい、シラバス」

 思いを巡らせていたシラバスは、唐突に呼ばれて驚いた。え、何、
笑顔で取り繕うと、ハセヲは無愛想に促して。

「何って、ほら。ボス倒しに行くぞ」
「いっくぞぉ〜!」
「わ、待って!」

 走り出した2人に慌てて追いつくと、また少し疎外感に捕らわれ
た。今にも置いていきそうなスピードで走る黒い背中と、揺れる銀
の髪を見つめる。

 特別な力など何も持たない、自分はただの斬刀士。彼は強すぎる
元PKKで、今もPKたちから狙われ恐れられている有名人。同じ
ゲーム内にいながら、こうして一緒に走ることなど絶対になかった
だろう存在。

 シラバスはハセヲが生きてきた『世界』を知らない。逆にハセヲ
は、シラバスたちが楽しんできた『世界』を知らないだろう。ゆえ
に彼を知りたいと思うし、彼に知ってほしいと思う。

 ――どちらが楽しいか、と。

 一瞬だけ、聞いてみたい衝動にかられた。けれどそこで当然のよ
うに、PKKに決まってんだろと返されたら。また、知らない顔で
笑われたら。

「…ねえ、ハセヲ」
「あん?」

 走りながら振り返る、緋色の瞳。そこに映された自分の姿に、何
故か少しだけ安堵する。

「たまには、のんびり冒険するのも楽しいよね?」

 運命がほんの少し交差してできた、わずかな接点かもしれないけ
れど。触れて重なった直線は、またすぐに離れてしまうのかもしれ
ないけれど。

「…んだよ、だから別に楽しくないとは言ってねぇだろ?」

 困ったような怒ったような表情に、シラバスは思わず微笑んでい
た。自分が知っている、自分が好きでいるこのハセヲと、少しでも
長く『世界』を共有できますようにと願って。

 例え作り物でも構わないと、眩しげに太陽を見上げながら。










世界が交わるとき -The Crossing-







20060625UP



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