夢を見た。

 追いかけて追いかけて、追いつけなくて。ただ、その名前を叫ぶ
だけ。虚しく、こだまが響くだけ。

 声は届かず、置き去りにされたままで。

 ハセヲは独り、『世界』に立ち尽くしていた。










 なかなか進まないレポートに煮詰まったシラバスは、気分転換と
いう名目で再度『The World』を起動していた。明日提出の課題を
前に、睡魔という最大の敵が立ちふさがって、やむなく作り上げた
大義名分だった。

(ちょっとエリアに出てモンスターを倒せば、目も覚めるだろうし)

 3時間前にログアウトしたばかりの『世界』に降り立って、習慣
的にメニュー画面を開く。誰か繋いでるかな、何気なくそう思いな
がらメンバーリストを見て驚いた。

「ハセヲ…まだいたんだ」

 時間は既に午前3時、まだ週も半ばの平日だ。リアルは高校生だ
と言う彼も、てっきりログアウトしたものだと思っていた。

 落ちる前まで、アトリと3人でパーティーを組んでいた。いつも
どおりエリアに出て経験値とアイテムを稼ぐと、今日はもう寝ます
ねとアトリが先に落ちた。明日締切のレポートが終わってないんだ、
シラバスも謝って一緒に落ちた。

 ガスパーとぴろし3はオフライン、クーンとパイはずっとビジー
状態。今日はパーティーは無理だという返信が来たという。

「じゃあ、俺も落ちるか」

 ハセヲがそう呟いたのを、シラバスは確かに聞いたのだが。

(…レベルが上がってる?)

 オンラインになっているハセヲの名前にカーソルを合わせて、シ
ラバスはまた驚いた。他のメンバーのレベルは変わっていないのを
見ると、ハセヲはあれからパーティーも組まずに、ずっと独りでモ
ンスターを倒していたことになる。

(それにしたって、7つも上げるなんて…)

 エンデュランスとの対戦が近い今の彼は、少しでも強くなってお
きたいところなのだろう。短時間でレベルを上げるには自分より強
い敵を倒せばいい、理屈はわかっていても簡単に実行できないのが
普通のプレイヤーだ。まして、ソロプレイともなると尚更。

(ハセヲらしいというか、なんというか)

 苦笑とも感嘆ともつかない笑みを浮かべながら、シラバスはショ
ートメール機能を立ち上げた。宮皇と対戦するのは自分も同じだ、
どうせなら一緒にエリアに出た方がいいと思ったのだ。

『気分転換にまたログインしちゃった^^;まだいたんだねハセヲ、
よかったらパーティー合流しようか?』

 シラバスは送信を終えると、深夜のせいか人もまばらなマク・ア
ヌを@HOMEへ向かった。元々有名人であるハセヲだが、更に今
は紅魔宮の新進気鋭として名を知られつつある。街にいると色々言
われてうざいからと、彼は休憩所代わりに@HOMEを利用してい
た。

 我ながら単純なもので、既に睡魔は消えている。M2Dをかけて
現実逃避したおかげだろうか。それとも永遠の黄昏に沈むこの街が、
時間感覚を狂わせてしまうせいだろうか。白紙のレポートは変わら
ず、目の前に放置されたままだというのに。

(1時限目、休講でよかった)

 頭の中で時間割を思い浮かべて、それでもゲームをしてる場合で
はないなと嘆息する。ハセヲと一度エリアに出たら、さすがにもう
ログアウトして現実に目を向けよう。

 のんびりと街を歩きながら、シラバスは道行くPCに挨拶をして
いった。

 送ったショートメールに、返信は来ないまま。









 @HOMEに入ると、デス★ランディが相変わらず無愛想に突っ
立っているのが見えた。話しかければ、ギルドマスター似の生意気
な言葉が返ってくるのだろう。

「よかったハセヲ、やっぱりここにいたんだ」

 視点をぐるりと回して、シラバスは部屋の隅で丸くなっているP
Cを見つけた。見慣れた銀色の髪と、黒い服の鎧装士。

「メール来ないから心配しちゃったよ〜」

 安堵しながら笑いかけるが、返事がない。更に、微動だにする気
配もない。何も反応しない彼に、シラバスは訝しげに首をかしげた。

「ハセヲ?」

 ステータスに異常は見られないし、死亡状態なら黒い半透明の影
となってディスプレイに映る。そもそもタウンではモンスターに遭
遇することも、PKされることもないはずだ。まさか「危険な力が
秘められている」と言われた彼のPCに、何か起きたのだろうか。
一瞬だけそんな不安がよぎったが、それよりも考えられることはA
FK――Away From Keyboard、あるいは。


「…寝落ち?」

 思わず呟くと、確信に変わった。シラバスは目を見開いて、うず
くまるようにしてそこにいる彼の正面に座り込んだ。全てに無反応
ということは、リアルの『ハセヲ』は席を外しているか、もしくは
ログインしたまま眠っているかのどちらかだ。この時間なら、後者
の可能性が強いような気がした。

「へえ…」

 知らず、シラバスは微笑ましくなってしまった。毛を逆立てた猫
のような雰囲気で、いつも警戒心を露にしているあのハセヲが。ホ
ーム内とはいえ、こんな無防備に。

(さすがに疲れたのかな)

 パーティーを組んでいるときと違い、ソロプレイは当然ながらモ
ンスターの集中攻撃に合う。高レベルのエリアなら、更にクリア後
の疲労感は強いだろう。そうでなくても最近の彼は、連日夜遅くま
でプレイしているらしいのに。

(そんなに、無理しなくても…)

 明日の学校は大丈夫なのだろうか。シラバスはそう思ってすぐ、
人のこと心配してる場合じゃないなと苦笑した。

「ハセヲ」

 起こした方がいいのかどうか、少しだけ迷って呼びかけた。現実
を反故にしてまでこの『世界』で戦おうとする彼にとって、寝落ち
は恐らく不本意だろう。まだコントローラーを持っているかM2D
をかけたままなら、テキストではなく声に出して肩でも叩いて、何
らかの衝撃を加えればリアルの彼にも伝わるはずだ。

 けれどシラバスの指は無意識に、肩ではなく頭に伸びた。重力に
逆らって跳ねている、その銀色の髪に。

 優しく触れて、そっと撫でる。子供をあやすような、子猫を慈し
むような、緩慢で静かな動作。

 意味はなかった。そうすることで、自分の五感が何か感じるわけ
でもなかった。ただディスプレイに映った『シラバス』が『ハセヲ』
に触れているのを見る、それだけだ。それだけなのに。

 ――触れたい、と思うのは何故だろう。かすかに点滅するそれは、
幼子の衝動にも似ていて。

(別に、単なるキャラデータにしか過ぎないのに…)

 自嘲して、それでも髪を撫でる。銀糸に埋もれる自分の緑色の手
袋を見て、どちらも基本は同じもので出来ているのにねと笑った。

「ハセヲ」

 口にするその名前は、この『世界』の仮のもの。

「…アリーナ、頑張ろうね」

 共に戦い目標とする栄光の場所も、全ては数値の産物、仮想現実。

(でも、僕らは…僕たちプレイヤーの思いは)

 目を閉じると、何も見えなくなった。カナードの呑気なBGMと、
コントローラーを握る感触と、M2Dの装着感だけが取り残された。
何もアクションを起こさなければ、画面の中の『シラバス』は抜け
殻になる。それは放置されている『ハセヲ』も同じことで。

 もし実際に、自分がこの『世界』に存在しているならば。ディス
プレイ越しではなく、リアルで彼と対峙しているならば。

 視界を閉ざしても、気配はそこにあるだろう。耳は小さな呼吸を
拾うだろう。触れた手は体温を感じ、安らかに眠る吐息を覚え、そ
して――そして。

 ゆっくりと目を開けて、シラバスはため息をついた。ディスプレ
イには変わらず、動かない『ハセヲ』の頭に手を置いたままの、動
かない『シラバス』がいた。普段こんなことしたら即行で振り払わ
れるんだろうな、少しだけ笑って手を離そうとした、その刹那。

「――っ!」

 突然、ハセヲが弾かれたように身を起こした。離れたシラバスの
腕をつかんで、強く自分の方へ引き寄せた。見開かれた緋色の瞳と、
絶叫半ばで凍りついた言葉。

「あ…」

 悲鳴じみた声を飲み込んで、ハセヲは喘ぐように息を吸った。驚
愕に絶句したシラバスを視界に入れながら、どこか別の場所を見て
いるような。

「…ハセヲ?」

(今、誰の名前を…?)

 小さく声をかけると、びくりと彼の身体が震えた。我に返ったか
のごとく焦点が合い、つかまれていた腕は呆気なく離される。ひど
く執着を感じる力、切実な何かを思わせる強さだったのに。

「どうしたの、大丈夫?」

 一瞬焼きついた、泣き出す寸前の子供のような顔。単なるCGで
あるはずのその表情は、あまりにもリアルで――画面の向こう側の
彼が重なって見えた気がして。

「…なんでもねぇ。ああ、メール…悪ぃ」

 今着信に気づいたのか、呟いたハセヲはいつもの無愛想な顔に戻
っていた。立ち上がり、深いため息をついてがしがしと頭をかく。

「珍しいね、ハセヲが寝落ちなんて」

 やはり不本意だったのか、シラバスの台詞にハセヲは憮然として
黙り込んだ。

「頑張りすぎじゃない? 今日はもう落ちた方が…」

 言いかけたシラバスの耳元で、ショートメールの着信音が鳴る。
開いてみると、目の前のハセヲからパーティーの誘いだった。

「…今からエリア出て、大丈夫なの?」
「しょーがねぇから付き合ってやるよ」

 心配そうなシラバスに皮肉げな笑みを浮かべ、ハセヲは両手を広
げてみせた。そのまま目をそらして、独り言のように。

「…『気分転換』、なんだろ?」

 何気ない口調に、複雑な感情が見え隠れした。苛立ちとも怒りと
も諦めともつかないものを、無理やり抑え込んだように聞こえた。
それきり何も言わず向けられた背中からは、心情も、真意も、リア
ルも読み取ることはできなかった。

「ほら、早く承認しろ。行くぞ」

 言いながら扉を開けた彼の姿を、街の光が金色に縁取る。黄昏の
色。永遠に沈まない夕陽の色。逆光になって浮かぶ、黒い鎧装士の
シルエット。

「…ねえハセヲ、君は」

 その影が孤独を連想させて、シラバスはぽつりと呟いた。

「君は、何と戦っているの?」

(――君は、誰を求めているの…?)

 声は届かず、置き去りにされたままで。

 シラバスは独り、『世界』に立つハセヲを見ていた。










午前3時のリアル -Voice in the wilderness-







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