振り向くと、背後には誰もいなかった。

 いつの間にか、視界は霧で覆われている。不思議に思って眼鏡を確認するが、顔に触れた指はレンズに当たった。ちゃんと、硬質な手触りが伝わってきた。

 そもそも、この場所で眼鏡を外すことはない。裸眼では探索もままならず、心身ともに疲労することは既にわかっているからだ。自分はしっかりと眼鏡をかけている。では、この深すぎる霧は何だ?

 辺りを見渡して、月森はわずかに眉をひそめた。自分自身と、自分の足元は辛うじて見える。狭い道のような場所に立っていることもわかる。道は己の前後に伸びているが、先は霧に覆われて途切れている。

 さっきまで、陽介と千枝が後ろにいた。探索中にはぐれてしまうことは今までにも何度かあり、それ自体は珍しくない。だが常にサポートしてくれるはずの、クマの気配すら感じられないのはどういうことだろう。

 月森は一度深呼吸をして、改めてこれまでの状況を確認してみた。

 雪子を救出するため、放課後いつものメンバーでテレビの中へ入った。天気予報は明日から雨、しばらく降り続くらしいと千枝が心配そうに言っていた。陽介も不安げな顔をしていた。恐らく、期日は迫っている。だが、雪子の気配はまだこの近くにはないとクマは言う。

 仲間内に、無言の焦燥が広がっていたのは事実だった。普段どおり冷静だと思っていたが、自分も少なからず焦っていたのかもしれない。これは、その焦りが生んでしまった結果なのかもしれない。仲間とはぐれたことに、あるいは仲間を置き去りにしてしまったことに、今の今まで気がつかなかったなど。

 彼らの声が届かないほど、自分は独り突っ走っていたのだろうか。彼らの疲労に構えないほど、周囲が見えていなかったのだろうか。月森は自嘲のため息を吐いて、少しだけ頭を振った。

 お前はいつも冷静だから、と陽介が笑う。キミは頼れるから、と千枝が言う。センセイ、とクマが尊敬を込めて呼ぶ。その声もその顔も、容易に想像することができる。

 リーダーになったのは成り行きのようなものだが、引き受けたからには期待に応えたいと月森は思う。落ち着いて、状況を把握して、どんなときも適正な判断を。感情に流されず、理性でしっかりと物事を。――まずは、仲間と合流しなければ。

「へえ……また来たの?」

 刹那、第三者の声が響いた。月森は思わずびくりと肩を跳ね上げて、先日買ったばかりのロングソードを握り締めた。思考を遮って、用心深く辺りを見回す。

「……誰だ」
「残念だけど、今日はきみと遊んでる暇はなさそうだ」

 声は答えず、軽い口調で笑い混じりに耳をくすぐる。霧の中に浮遊して吸い込まれ、本当に『声』として鼓膜を震わせているのかどうかもわからない。

「誰だと聞いている」

 どんなに目を凝らしてもその主は見えず、月森はしかめ面で剣を持ち直した。殺意はない。悪意もない。だが、漠然と感じる嫌悪。敵だ、と告げてくる本能。

「リベンジってわけ? どうせ目が覚めたら、忘れちゃうのにね……」

 くすくす、くすくす。声は次第に遠ざかってゆく。ぼんやりとつかめそうだったその影も、霧の向こうへ霞んでゆく。

 待て、と叫んだような気がした。駆け出そうとして、足下が見えなくて、月森は驚いて足を止めた。霧が濃度を増している。否、道がない。地面に立っているという感覚もない。

 凍りつく月森の視界で、まるで意思を持つ生物のようにうねる白い霧。何か言おうと口を開くと、喉の奥まで霧が入り込んだ。絡みついて声を遮り、呼吸を奪う。声だけではなく、手足も身体も覆われ始める。霧という名の捕食者に、ゆっくりと飲み込まれるかのごとく。

 これが、『死』と呼ばれるものなのだろうか。何も見えなくなった霧の中で、おぼろげにそんな疑問を抱いた。死にたいのかい、とはるか上から声がした。死にたいなら、いつでも殺してあげるよ。揶揄を含んだその声に、月森は反論する術を持たない。

 もがいた手が宙をつかむ。誰かの呼びかけが聞こえる。抗うこともできないまま、月森は文字どおり霧散した。思考も意識も自我も、その存在すら全て。











「月森!」

 目を開けると、見慣れた顔が覗き込んでいた。誰だっけ、と月森は思った。誰だっけ。ああ、そうか。

「花村……」
「うお、やっと目ぇ覚めた! お前全然起きないんだもんよ、びっくりしたぜー」

 心配そうな陽介の顔が、目覚めを知って笑顔になる。うまく現実を認識できなくて、月森は瞬きを繰り返した。隣には千枝とクマもいる。どちらも安堵の表情だ。

「月森君、ずっと気絶してたんだよ」
「センセイ、心配したクマよ〜」

 そうか、と月森は唐突に思い出した。不意打ちされた戦闘中に、弱点である風の攻撃を受けた。体勢を崩したところにまた同じ攻撃を受けて、気を失ってしまったのだ。

「戦闘は……?」
「俺らでやっつけといた、無事終わったぜ。てか、ちょうど気つけ薬がなくてさ」

 どうしようかと思った、と陽介は屈託なく笑った。薬を探していたのか、そばには様々なアイテムが散乱している。傷薬、盆ジュース、リボンシトロン、ビフテキ串、マッスルドリンコ、ポテロング。

「……ポテロング?」
「お、ついでに休憩すっか!」

 恐らく、陽介が持ってきていたのだろう。無意識に呟くと、陽介はそれを手にしてにこにこと笑った。場を明るくしてくれる彼の笑顔を、月森はしばらくぼんやりと眺めた。……何か、妙な夢を見ていた気がする。

「ん、どした?」

 視線に気づいて、陽介が首を傾げた。その様子はいつもと変わりなく、怪我はなさそうだし、苦戦したわけでもないようだが。

「……ごめん、迷惑掛けた。悪かった」
「いいってことよ、相棒!」

 ぽつりと謝ると、陽介は笑って背中を叩いてきた。大丈夫クマか、と気遣ってくれるクマに微笑んで、月森はゆっくりと周囲を見渡した。

 眼鏡のおかげで、視界は鮮明。見慣れた景色は、雪子がいる城の中だ。

 レンズに触れて、目を閉じて、少しだけ息をつく。そうすると、恐怖に似た何かが瞼の裏に蘇った。何も見えない白い虚無の向こう、得体の知れない誰かの影。

「顔色悪いよ、本当に大丈夫?」

 千枝が転がっていた剣を拾って、心配そうに差し出してくれる。大丈夫だと答えた月森は、受け取ってその柄を握り締めた。今握ったばかりなのに、何故か汗がにじんでいるような気がした。

「休憩はいいのか?」

 ポテロングを開けようとしていた陽介が、立ち上がった月森に聞いてくる。いや、と月森は表情を緩めて。

「どうせなら、そこの小部屋で休憩しよう。廊下だと落ち着かないし、いつシャドウが襲ってくるとも限らないから」
「さっすがリーダー、ちゃんと考えてるね!」

 そう言った千枝が、早速ビフテキ串を手に扉の方へと移動する。その向こうは、さっきシャドウを倒してきたばかりの小部屋だ。クマは他のアイテムを拾い集めて、慌ててその後を追った。

「……サンキュな、月森」

 彼らを眺めながら、ぽん、と陽介が肩を叩いてくる。何がと聞く前に、陽介は笑みのままウィンクしてみせた。

「なんか、お前のおかげで張り詰めてた緊張が解けたみたいだ。俺も、里中も、クマも」
「え……いや」
「きっと焦ってたんだな、俺たち。お前の負担に気づかないで、頼りすぎてたのかも。悪い、相棒失格だ」
「花村、それは」
「よっしゃ、このポテロング半分こしようぜ!」

 言うが早いか、陽介は元気よく駆け出した。違うと反論しかけた月森の台詞は、声にならずに途切れてしまう。

 違う、負担をかけていたのは自分の方だ。緊張が解けたとすれば、焦燥を自覚できたとすれば、己ではなく。

「……みんなの、おかげだ」

 呟きは独り言に似て、誰の耳にも届かず落ちた。もう一度剣を握り締めた月森は、ふいに誰かの視線を感じた気がした。

「おーい月森、ポテロング食っちまうぞー」

 陽介の呼ぶ声がそれをかき消して、気のせいだろうかと眉を寄せる。やはり休憩した方がいいと、月森は言い出してくれた陽介に感謝した。

 レンズ越しの薄い霧は動くことなく、濃くなることもない。さっき蘇った刹那の恐怖心は綺麗になくなっていて、やはりみんなのおかげだ、と月森は笑った。











きりのゆめ
20080803UP


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