扉を開けた途端、賑やかな話し声が飛び込んできた。 靴を脱いで、月森は部屋の中を覗き込む。ただいまと声をかけると、三人分のおかえりが返ってきた。ソファに座った堂島、その隣の菜々子、それからテレビの前に座った足立だ。 「お邪魔してまーす」 明らかに酔っ払っている締まりのない笑顔で、足立は缶ビールを片手に会釈した。月森の視線に気づき、堂島が苦笑を浮かべる。彼もほんのりと頬が赤い。 「珍しく早く上がったんでな。署の連中で、ちょっとした飲み会があったんだ」 「それで、家で二次会?」 咎めたつもりはなかったが、呆れた響きは伝わってしまったらしく、堂島は少し申し訳なさそうな顔をした。すかさず、足立が割って入る。 「だーって聞いてよ、今うちキャベツしかないのキャベツ。帰って腹が減っても、キャベツかじるしかないっしょ? それじゃ淋しいっしょ?」 へらへらと笑う足立の前には、菜々子が用意したのか食べ物もいくつか並んでいた。ほとんどが冷凍食品だが、昨夜の残り物も出ている。月森が作ったコロッケだ。 「ああ月森君、これ君のお手製ってホント? いやすごいよ美味しいよ、きっといいお嫁さんになれるねえ」 「いや、別に嫁に行く気はないです」 舌足らずでよくわからない足立の賛辞を、月森は適当にあしらった。はあ、と堂島がため息をつく。 「孝介、お前飯は?」 「愛家で食べてきた」 「そうか。菜々子はもう寝る時間だろう。それにまだ具合も良くないんじゃないか」 「はーい」 所在なげにぼんやりテレビを見ていた菜々子は、既に眠そうな顔で返事をした。後片付けをするために頑張って起きていたのかもしれない。もっと早く帰ってくればよかったかな、と月森は菜々子に笑いかけた。 「片付け、俺がやっておくから」 「ん……ありがとう、お兄ちゃん」 目をこすりながら、菜々子が部屋に戻る。その小さな背中を見送り、月森は早速空になった缶ビールを片付け始めた。もう一度、堂島が盛大に嘆息して。 「じゃあ後頼んでいいか、孝介」 言って、疲れた様子で立ち上がる。え、と足立が目を見開いた。 「あ、あれ、もうお開きですか?」 「お開きも何も、お前が勝手に押しかけてきただけだろうが」 「えー、ひどいなあ」 早く帰れよと足立に言い残し、堂島はそのまま自室へ消えていった。二人残された居間に、妙に大きくテレビの音が響く。 「まあ、堂島さんも疲れてたみたいだからなあ」 まだ帰るつもりはないのか、足立はちびちびと缶ビールを飲みながら言った。月森は空いた皿を重ねつつ、振り返って訊ねてみる。 「何かあったんですか?」 「うん、飲み会って言っても、上のご機嫌取りみたいなとこあるからね。この前みたいに盛大に弾けちゃったら、それはそれで楽なんだろうけど」 この前、と月森は記憶を巡らせた。そういえばひどく酔っ払った堂島を、足立が連れて帰ってきてくれたことがあった。大人の事情はよくわからないまま、そうですかと答えておく。 「お酒って、もっと楽しいものかと思ってました」 「あはは、君みたいな年頃はそうかもね。……よかったら、飲んでみるかい?」 おもむろに差し出された飲みかけのビールを、月森は無言で見つめた。足立の身体はふらふらと左右に揺れ、視線も定まっていない。 「……未成年に酒を勧めていいんですか、酔っ払い刑事さん」 「だーいじょうぶだよ、逮捕なんてしないから。それとも何、僕の酒が飲めない?」 揶揄を含めて笑う足立に、月森は深いため息をついた。普段は抜けたところもある憎めない人物なのだが、酔うと絡んでしまう性質なのかもしれない。それとも堂島同様、彼も飲み会とやらで疲れてしまった反動か。 「ね、ほら。たまには君もぱーっと飲んで、ぱーっと忘れたいこと、あるでしょ?」 未成年に何を言っているんだかと思ったが、それは妙に投げやりに聞こえた。月森を指していながら、まるで自分自身に言い聞かせているようだと思った。わずか感じた違和感に、月森は何気なく訊ねてみる。 「足立さんはそういうこと、あるんですか?」 「……僕?」 刹那、足立の瞳に理性の光が降りた。酒のせいで熱を帯びているはずなのに、何故か冷たく鋭く、突き刺すかのような視線。だがそれも一瞬で、すぐ酔っ払いの茫洋とした半眼に戻る。 「うん、まあ、そうだねえ……」 缶ビールを持ったまま天井を仰いで、足立はそれきり黙り込んだ。テレビ番組の乾いた笑い声が、更に沈黙を強調する。沈んだ空気は緊張感にも似て、月森は居心地の悪さを感じてしまった。 「……あの、足立さん?」 何か彼の気に障ることでも言っただろうか。半ば恐る恐る声をかけたとき、ポケットに入れていた携帯が鳴った。足立は少し驚いたように月森を見たが、すぐにどうぞと笑ってジェスチャーしてみせる。携帯を出して見ると、陽介だ。 「も、もしもし?」 電話を繋いだ月森は、一応気を遣って部屋を出た。階段の踊り場に移動し、菜々子や堂島の迷惑にもならないよう声をひそめて。 『ああ悪ぃ、俺。明日さ、朝一英語の小テストって聞いてた? だからちょっと早めに学校行って、お前にノート見せてもらおうと思ったんだけど』 いいかな、と陽介はうかがうように聞いてきた。電話越しにも、申し訳なさそうに頼み込むその様子がよくわかる。月森は笑みを浮かべながら快諾した。 『マジ? サンキュ、助かる! んじゃいつもより十五分早めで』 「十五分って……そんな短時間で大丈夫か?」 『だってそれ以上早くなんて起きれねぇし! 無理だし!』 首を振る情けない顔も容易に想像できて、月森は耐えられずに吹き出した。明日の朝は早めに学校へ行くことを約束し、じゃあまた明日と電話を切る。たったそれだけの会話で、さっきの緊張感は綺麗に忘れてしまった。花村は空気を明るくする天才だな、と月森は改めて思った。 「友達かい?」 居間へ戻ると、足立が普段と変わらない口調で聞いてきた。既に飲み終えた後らしく、置かれた缶ビールが軽い音を立てる。 「はい。明日のことで」 「あー、考えてみれば君が来てもう半年以上か。すっかりこの町に馴染んじゃったねえ」 足立は何やらしみじみと呟いて、んじゃごちそうさまと唐突に立ち上がった。転がっていた鞄を拾うが、やはり足もとがおぼつかない。 「お邪魔したね。あ、美味しかったよコロッケ」 「あの、大丈夫ですか?」 「うん、見た目ほど酔ってないから平気だよー」 「でも」 ふらりとよろけた危なっかしさに、月森は思わず手を貸そうとした。が、あしらうようにすり抜けられる。否。 手を振り払われた気がした。 「……足立さん……?」 振り返って声をかけるが、足立は黙って玄関に下りた。そのうち靴を履きながら、ふんふんと上機嫌な鼻歌を歌い出す。 ……気のせいだろうか。何故か拒絶されたような、そんな奇妙な違和感を覚えたのだが。 「それじゃ、おやすみ。戸締まりはしっかりとね」 顔を上げた足立は、いつもの調子で笑っている。はい、と月森も笑顔を作った。 「おやすみなさい、気をつけて」 ありがとうと軽く手を挙げて、足立は玄関を出て行った。ゆっくりと閉められるドアを、月森はぼんやりと見ていた。バラエティ番組はいつの間にか終わったらしく、テレビでは天気予報が始まっている。雨、という単語が聞こえてくる。 「雨、か……」 玄関の鍵をかけ、月森は無意識に呟いた。雨は何かが起こる前触れのようで、嫌でも不安が渦を巻く。 「とりあえず、片付けるかな」 ひとりごちた月森は、散乱する缶ビールに肩をすくめた。また戻ってきた静寂の中、天気予報は繰り返し雨を告げている。稲羽市方面は今夜半から雨が降り出し、明日は終日雨模様となるでしょう――。 背後で、ドアの鍵が掛けられた。 門の前に佇んで、足立はその音を聞いていた。視線を落とし、ただ無表情に己の右手を見つめる。そこに握られた、一枚の封筒を。 「……月森、孝介サマ」 宛名をなぞる声には、何の感情も含まれていない。ふ、と緩んだ口元の笑みは、自嘲とも軽蔑ともつかないまま。 「ホント。子供は気楽でいいよね」 独白を残して、足立は少しだけ目を閉じる。やがて無造作にそれをポストに放り込むと、堂島家に背を向けた。振り向くことはしなかった。
平行線 |