目立つオレンジ色の屋根の下に、ぼんやりと佇む人影が見えた。 商店街に立ち寄るとき最初に視界に入るのは、車道に面したガソリンスタンドだ。降りしきる雨の中車通りはなく、周囲には誰も歩いておらず、もちろん客もいない。 ビニール傘越しに、月森は思わず目を細めた。錯覚かと思ったが、人影はいつもの店員だとすぐにわかった。次第に強くなる雨のせいか、他に人通りがないせいか、その光景は妙に非現実的に見える。微動だにせず立ち尽くす彼は、まるでただの人形のようで。 「あれ、こんにちは」 月森に気づいて、青年が声をかけてきた。さっきまでの無表情は、人懐こく親しげな笑顔に変わっている。 「買い物かい? 雨の中大変だね。……ああ、そうだ」 軽く会釈を返した月森を見て、青年は急に申し訳なさそうな顔になった。 「バイトの件なんだけど、当分募集は再開しないみたいなんだ」 「そうなんですか」 「ごめんね、前に誘うようなこと言っちゃって……」 「いえ」 月森は笑って首を振った。田舎だからバイトできるようなところ少ないでしょ、と同情する青年に、そんなことないですと否定してみせる。 「家でできるバイトとか、学童保育とか、家庭教師とか……あと、病院の清掃とか。ジュネスも時々人手不足みたいで、手伝いに行ってるし」 「ふうん、結構忙しそうだね。じゃあこんな退屈なとこはお呼びじゃないかな?」 明るく言って、青年は肩をすくめてみせた。確かに元々寂れつつある商店街だが、スタンドが賑わっているところを見たことがない。いつも誰もいないか、この青年がぽつんと佇んでいるイメージしかないのだ。その姿は常に雨に煙っている気がして、月森は何気なく口にした。 「そういえば、ここのバイトって天気でシフト決まってたりするんですか?」 「え?」 意味を取りかねたのか、青年が一瞬瞠目する。少し考えて、やがて興味深そうに目を細めた。 毎日ここに来ているわけではないのだが、この店員には雨の日しか会わない印象が強い。スタンドの屋根の下に佇む彼は、いつもビニール傘の向こうに霞んでいる。 「……そんなことないよ」 目を細めたまま、青年は空を見上げて笑った。 「ボクは雨が好きなんだ。雨の日はこうして、外に出てお客さんを待ってる。だからじゃないかな」 つられて仰ぐと、雨足が強くなっているような気がした。月森も雨は嫌いではないが、例の事件が現在進行形で起こっている今、単純に好きだとは言えなくなっている。 「ああごめん、なんか引きとめちゃったみたいだ」 無言で曇天を見つめる月森に、青年はそう言って背を向けた。すぐ振り返ったその手には、青い缶ジュースが握られている。 「リボンシトロン、本当は給油のおまけに配ってるんだけど。よかったら、お詫びに持ってってよ」 にっこり笑われて、月森はわずか戸惑った。お詫びをもらう筋合いはない、仕事の邪魔をしてしまったのは自分の方だ。そう思った刹那。 がくん、と力が抜けた。目に見えない何かが、衝撃となって全身を駆けた。とっさに折れそうになった膝を支え、崩れかけたバランスを保つ。だが腕の力が耐えられず、握っていた傘が落ちた。遮るものをなくした月森に、一気に降り注ぐ雨の洗礼。 「わ、大丈夫?」 青年が慌てて腕を引いて、屋根の下に入れてくれた。たった一瞬とはいえ、雨は髪を濡らし肌を伝ってゆく。月森はぶるぶると頭を振って、とりあえず水滴を振り払った。 「待ってて、今タオル」 「あ……いえ、いいです」 事務所へ駆け出そうとする青年を制し、濡れ具合を確かめる。大したことはないし、今日は気温が低いわけでもない。放置しても風邪をひくことはないだろう。 それよりも、と月森は転がったままの傘を見た。何が起きたのかわからず、訝しげに眉根を寄せる。一瞬強烈な眩暈がしたのだが、今はその残滓すら感じられない。 「大丈夫? 具合でも悪い?」 心配そうに言った青年が、無造作に月森に触れてきた。そのあまりにも自然な仕草に、月森は反応できず凍りついた。 触れられたのが額なら、熱でも測っているのか人懐こい人だ、そんな風に思えたのかもしれない。だが彼の指は滴る雨粒をなぞるように、こめかみから頬に滑り降りる。 「顔色、良くないみたいだけど」 「……だい、じょうぶです」 呟きながら、月森は彼から目が離せないでいた。伝わる体温は妙に冷たく、また人形のようだという感想を抱く。それに。 至近距離で、初めてその顔を凝視した。表情が豊かなせいで気づかなかったが、恐ろしく整った造作だということがわかる。中性的で、男装の麗人と言っても通じるような。 綺麗だ、と思った。思ってから、月森は自分の思考に戸惑った。 「あの……」 戸惑いのまま、口を開いて躊躇する。何、と首を傾げた彼に促されて、月森は率直な疑問を口にした。 「ものすごく失礼なこと、聞いてもいいですか。……男性、ですよね?」 「……え」 一瞬大きく目を見開いた青年は、次の瞬間、弾けるように笑い出した。 「な、なんで改まってそんなこと……あは、ははは、きみ、面白すぎ……!」 「いえ、あの……」 大笑いする青年に、月森は今更恥ずかしくなった。ごまかすようにうつむいて、制御できなかった好奇心を自戒する。青年はまだ笑いながら、落ちていた傘を拾ってくれた。 「はい。具合が悪いなら無理しないようにね」 「……ありがとうございます」 傘と一緒に、缶ジュースも握らされる。有無を言わせない渡し方に、月森は素直に頭を下げた。 「すみません、お邪魔しました。お仕事頑張って下さい」 「うん、バイト募集再開したらすぐ知らせるから」 「はい、お願いします」 改めて礼を言って傘を差すと、濡れた前髪から雨粒が降りた。輪郭を撫でるその感覚が、目の前で微笑む青年の、冷たく細く綺麗な指を思い起こす。月森は頭を振って、知らず走った悪寒を追い払った。 彼の言うとおり、体調が悪いのかもしれない。ならば早く買い物を済ませて家に帰ろう。 青年は笑顔で手を振っている。会釈して、月森は雨の中へ走り出す。振り向かず、まっすぐ商店街の北側へと。 「……本当に、面白いなあ」 それを見送った青年は、やがて思い出したように人差し指を舐めた。ゆっくりと、どこか愛しさすら込めた微笑のまま。 さっき月森の頬に触れ、雨を辿ったその指先を。
雨痕 |