ぼんやりと、達哉は部屋の天井を見上げていた。
 窓の外から、登校する小学生の喚声が聞こえる。カーテンの隙間から、
朝の光が漏れてくる。今日もいい天気のようだ。

「いいか、おとなしく寝てるんだぞ」

 ばたばたと準備をしながら、克哉がもう一度念を押した。

「薬はそこだ、食後に飲みなさい。食欲がなくてもちゃんと食べること」

 わかりきったことを説教のように繰り返す。咳のせいで返事ができな
いのをいいことに、達哉はそれを無視した。

「できるだけ早く帰ってくるからな。何かあったら携帯に電話しなさい」

 7つ年上の兄は、いつまでたっても自分を子供扱いする。大体彼は過
保護すぎるのだ。達哉は心の中で文句を言いながらも、面倒なので無言
でうなずいておいた。

 再度念を押して兄が出かけると、急に家の中は静まり返った。ふとん
に潜ったまま、達哉はまたしばらく天井を見つめた。視界はどうもあや
ふやだった。
 昨日の夜から、どうも喉の調子がおかしいとは思っていたのだ。度重
なる悪魔との戦闘に疲れ果て、仲間と別れて家路に着いたときから。そ
ういえば氷結系の魔法をくらったが、大したダメージでもなかったので、
放っておいたのが悪かったのかもしれない。

 思い出して、体温計を取り出す。37度5分。微熱、といったところ
か。ため息をついてそれを放り出すと、また咳が襲ってきた。
 面倒だが、仲間たちに連絡しなければならない。時計はそろそろ8時
半を指そうとしている。今日は、9時に夢崎区のギガ・マッチョ前で待
ち合わせだったはずだ。

 兄に無理やり持たされていた携帯を取り出し、少しだけ、達哉は迷っ
た。彼らが自分で登録したので、仲間の番号は一応全員分が入っている
のだが。

 …やっぱり、舞耶さんかな。

 50音順のため、彼女の名前が最初にディスプレイに表示された。そ
のままつなぎかけて、鳴らされたインターホンの音に止まる。

「すおーっ!」

 その後に、聞き慣れた明るい声が続いた。

「…三科?」

 思わず、かすれた声でつぶやく。達哉はすぐ反応できなかったが、と
りあえず電話をやめて玄関に出ることにした。迎えに来たのかなんなの
か、とにかく電話より彼に伝えた方が手っ取り早いだろう。

「…おい、どうしたよ?」

 扉を開けると開口一番、栄吉はそう言った。いつもどおり髪型もメイ
クもばっちり決めた彼に対し、達哉がまだ着替えてもいないことに眉根
を寄せる。

「…風邪だ。だから今日は…」

 できるだけ少ない言葉で済ませようとしたが、台詞の最後が咳で消え
た。栄吉が慌ててドアを閉め、達哉を支えてベッドに連れてゆく。

「へえ、周防でも風邪ひいたりするんだ?」

 寝かせてくれながら、どこかおもしろそうに彼は言った。どういう意
味だ、少しぶっきらぼうに聞いてみる。

「いや、なんかお前、完全無欠って感じするからさ」

 にこにこと悪びれず答える栄吉に、達哉はますます不機嫌になった。
なんだそれは、人をロボットみたいに。

「んじゃ、俺が皆に連絡入れとくよ」
「…ああ」

 言いながら、栄吉は携帯を取り出して向こうの部屋に移動した。何気
なく相づちを打ってしまったが、どうしてわざわざ電話する必要がある
のだろう。今からすぐ行けば間に合うし、彼が直接伝えればそれでいい
ことなのに。

「…おう、そういうこった。ああ、大丈夫」

 電話の声を聞きながら、ふらふらしてきた頭を落ち着かせた。なんで
もいい。とにかく今日一日ゆっくり休めば、明日には回復しているだろ
う。

「予定、明日に繰り越しだってさ。やっぱリーダーがいなきゃ、始まん
ねーもんな」

 電話を終えた栄吉が、笑いながらそう言った。いつの間にか、リーダ
ー扱いされている。反論する気力もなくて、達哉は虚ろに青い髪を見上
げた。

「さて周防、お粥食うか? それとも玉子酒でも作っか?」
「…は?」

 妙に楽しそうに話しかけてくる彼に、達哉は無意識に顔をしかめてい
たようだ。栄吉は大げさに肩をすくめて。

「んな嫌そうな顔すんなよ、俺こう見えても結構料理うまいんだぜ?」
「…いや、そうじゃなくて…」

 じゃお大事に、とかなんとか言って、さっさと帰ってくれればいいの
だ。一人で寝ている方が楽だということに、どうして気がつかないのだ
ろう。

「つーことで、台所借りるぜー」

 有無を言わさず、栄吉は勝手にキッチンへ姿を消してしまった。引き
止めようとして、また咳で言葉が出なくなる。今度の波はしつこくて、
落ち着いたときには呼吸すら困難になっていた。
 冷蔵庫を開ける音や、鍋を用意する音が聞こえてくる。達哉は半ばあ
きらめて、また背中をベッドに沈ませた。

 見上げる、クリーム色の天井。そういえばはるか昔、いつのことだろ
う。そのときもこうやって、一日中天井を見上げていたような気がする。
することがなくて、でも体は動かなくて、自分がどうしてここにいるの
かもわからなくて。

 目を閉じる。おぼろげな記憶が、わずかながら網膜に浮かび上がって
くる。そう、確か。

 確か、病院の天井は白かった。

「…周防?」

 まどろんでいる達哉を、心配そうな声が現実へ引き戻してくれた。目
の前にいる男が、記憶の中の誰かと重なる。…誰だろう。はっきりしな
いそれは、やがて微熱の意識に埋もれて消えた。

「悪ぃ、起こしちまったかな。でもなんか苦しそうだったから、見てら
んなくてよ」

 申し訳なさそうに、栄吉が頭をかいた。本当に作ってくれたのか、手
には湯気の立つ器とスプーン。

「いや…大丈夫だ」

 つられて謝る形になりながら、達哉は自分が何の夢を見ていたのか、
何を思い出しかけていたのかさえ忘れてしまった。
 気がつくと、時計はもう昼を指している。いつの間にか眠っていたよ
うだが。

「お前…ずっとここにいたのか?」
「ん?」

 スプーンにすくった粥に息を吹きかけて冷ましながら、栄吉はきょと
んとして言った。

「おう、食ったら薬飲んでまた寝ろや。玉子酒もあるからさ」

 いろいろ勝手に使っちまったけど、つけたして笑う。その笑顔を、達
哉は思わずまぶしそうに眺めてしまった。
 出会って、成り行きで仲間となって、まだ数日。一緒にいると、懐か
しいと感じるのは何故だろう?

「ほら」

 笑顔のまま、栄吉は冷ました粥を口元に運んでくれる。

「…一人で食えるからいい」

 子供じゃあるまいし、達哉は憮然としてスプーンを奪おうとした。が、
するりとかわされて。

「いいって、お前病人なんだからさ。甘えられるときは甘えとけって」

 だからって、なんでお前に甘えなければならないんだ。そう思ったが、
口には出さないでおいた。
 彼は春日山高校の番長で、慕っている子分も多い。親分肌で、世話好
きで、人に頼られることに慣れているのだろう。頼られることが当たり
前になっているのかもしれない。
 ため息をついて、しぶしぶ差し出されたスプーンをぱくりとくわえた。
これじゃ本当に子供だな、自嘲しつつ、適度に冷まされた粥を味わう。
悪くない。

「…どうした?」

 飲み下して、栄吉の動きが止まっていることに気づいた。声をかけら
れて、我に返ったように栄吉はまばたきを繰り返す。

「え、あ、いや、えーと…う、うまいか? 熱くないか?」

 しどろもどろに言う様子はどこか慌てているようにも見えて、今度は
達哉がまばたきする番だった。

「わ、悪ぃけど、あと自分で食ってくれるか?」
「…? なんだよ」

 きょとんとしながら、器とスプーンを受け取る。そむけた彼の顔が、
どこか赤く見えたのは気のせいだろうか。
 食べ終えると、栄吉は後片付けも全てやってくれた。食後にちゃんと
薬も飲んで、達哉はもう一度熱を測る。37度3分。地味なレベルだ。

「明日は今日と同じ、9時にギガ・マッチョ前だからな。んでも、無理
すんなよ。調子悪けりゃ、おとなしく寝てろよ」

 言って、栄吉は帰る支度を始めた。兄と同じような台詞なのに、押し
つけがましいところが全くない。不思議な安堵が感じられて、いいから
寝てろよと言う栄吉を無視し、達哉は彼を玄関まで送った。

「しっかし昨日の帰りさ、お前調子悪そうだったから。大丈夫かなって
寄ってみりゃ、案の定だったよなー」

 目線の位置は、栄吉の方が少しだけ高い。くしゃくしゃと髪をかき乱
されて、達哉は何も言えなくなった。体が弱っているからって、好き放
題されているような気もする。年下のくせに、少し不機嫌にひとりごち
てみた。
 きっとそうやって、いつも仲間のことを気にかけているのだろう。ま
っすぐで、素直で、仲間思いの彼。自分も本当は、そうなれたのかもし
れない。少なくとも、あの事件が起こるまでは――。

「んじゃ、周防。玉子酒、冷める前に飲めよな」
「…あ、ああ」

 また浮上しかけた記憶が弾け、跡形もなく消し飛んだ。熱のせいで、
体だけではなく心も不安定になっているようだ。何かを思い出そうとす
るたび、壁に阻まれるような感覚。違和感を感じながらも、達哉は少し
笑った。

「ありがとう」

 素直に、礼を言ってみる。靴を履きかけていた栄吉が達哉を見上げて、
大げさにバランスを崩すのがわかった。

「…おおびっくりした、周防が笑ったぜ」
「…お前はいったい俺にどういうイメージを持っているんだ?」

 苦笑すると、目を丸くしていた栄吉はがははと笑って。

「じゃ、お大事に」

 明るく手を振り、笑顔のまま扉を開けた。ああまた明日、達哉が答え
ると同時に、ドアの向こうに消える。がしゃん、と閉ざされた重い音が、
静かすぎる部屋に妙に大きく響いた。

 ベッドに戻る。まだ温かい玉子酒が、湯気と共に迎えてくれる。一口
飲んで熱かったので、もう一度冷ましながら口をつけた。
 寝転がるとまた咳が出たが、それでも朝よりはずいぶん楽になってい
るように思えた。MOTHER'S TOUCH、そんな言葉を思い出す。結局どんな
薬よりも、誰かの看病が一番いいということだろうか。

 …三科が風邪をひいたときは、俺も面倒見てやるべきかな。

 そんなことを思い、達哉はゆっくりと目を閉じた。さっきまで圧迫感
を持って迫ってきていた天井は、なんてことはない、普通の天井に戻っ
ていた。


37℃ - slight heat -





ありがちに風邪っぴきネタで栄達でした。
やっぱりなんだかほのぼの。


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