殺した、はずなのだ。
 肉を斬る感触も、刃を濡らす赤い血も、光を失ってゆく鳶色の瞳も、何も
かも鮮明に覚えている。
 彼を消せば、自分が光になれる。『周防達哉』として生きてゆくことがで
きる。そう、信じていたのに。

「…そんな生に、意味はない」

 吐き捨てるように、言葉を投げる。彼の目が、闘争心を映して光に満ち溢
れる。意味がないのは、自分の方だ。この戦いの方だ。一体、何のために、
自分は彼を殺すのだろう?

「…ここで、死ね」

 それでも『台詞』を紡ぐ自分を嘲りながら、達哉は階段下の達哉に剣先を
突きつけた。ここで、死ね。今度こそ、ここで。




 ここで、殺してくれ。










僕は緩やかに死んでゆく











 肉を斬る感触が、刃から腕を伝って振動した。
 飛び散る返り血で、視界は真っ赤に染め上げられる。断末魔の悲鳴があっ
たかもしれない。けれど夢中で、それすら聞こえない。
 生気に満ちた鳶色の瞳から、光が消える。沈む夕陽の、最後の残光のよう
に。静かに、緩やかに、柔らかく。
 どさり、と彼が倒れた。そこを中心にして、血の海が広がってゆく。息を
切らして立っている、自分の足元にも。
 無言で、生き物のように迫る血だまりを見つめる。持っている剣の先端か
ら赤い雫が落ち、王冠を作って跳ね返る。生まれては消え、生まれては消え。

「…達哉?」

 確かめたくて、達哉は目の前に倒れた光の名を口にした。緋色の瞳は緋色
の血に濁り、かえって虚ろに宙をさまよう。――返事は、ない。
 ゆっくりと瞬きをして、現実を確認する。赤い返り血の広がる、赤い壁を
眺める。ロールシャッハテストみたいだ、とぼんやりした頭で考えた。
 零れたペンキ。名もない島の地図。拡大されたアメーバ。電柱の吐瀉物。
ぶちまけられた内臓。
 あてもなく連想しつつ、達哉は『光』の存在に目を向けた。そこにはただ
の肉塊が転がっているだけのように見えた。しゃがんで、瞳を覗き込んでみ
る。閉じない目に一切輝きはなく、それでも綺麗だ、と達哉は思った。限り
なく透明で、全てを見透かしてしまうかのような視線。憧れていたもの。欲
しかったもの。
 無意識に眼窩に手をかけて、そのまま抉り出そうとした。血に濡れた達哉
の指が鳶色を塗り潰して、そこでやめた。これは、『達哉』にあるからこそ
美しいのだ。奪ってしまえば、それはただの部品になる。他の誰にも合わな
い、『達哉』だけの。
 欲しい、と思った。瞳だけではなく、彼の心も身体も存在も。その命を屠
った今、その願いはかなったのだろうか?
 立ち上がろうとすると、血だまりが足元でぴちゃりと音を立てた。まだ温
かいそれを、指先で拭ってみる。『達哉』のもの。『達哉』を形成していた
もの。舐めるとどこか懐かしい、鉄錆の味がした。
「…達哉」
 再度、同じ名前を呼んでみる。動かない唇を、さっき舐めた指先でなぞっ
てみる。それは既に冷たく乾いていて、それが妙に虚しさを誘って、達哉は
己の唇を重ね合わせた。触れるだけでは物足りなくて、舌を差し入れ、絡め
取る。次第に、執拗になってゆく。貪りながら、ありったけの熱を注ぎ込
むかのように。

 ――『達哉』は、もういない。

 抵抗も反応も返さない彼に、達哉はようやく自覚した。そうだ、たった今。
たった今、自分が殺したのだ。思い出すと、衝撃が波となって這い上がって
くる。弱々しく、それでも媚びを見せない彼の瞳が、驚愕に見開かれた瞬間。
何かを言いかける唇から、流れ落ちた緋色。
 その線を辿って、顎から首筋に舌を這わせてみる。本当なら彼が背を跳ね
上げる場所を、何度も何度も往復する。けれど、答える吐息はない。身体は
冷たいまま、奥から熱も生まれてこない。やはり、ただの肉の塊だ。思って、
自嘲して、達哉は急に執着を失ったかのように立ち上がった。血の味にも飽
きてしまった。
「…お見事、と言うべきかな?」
 ふいに、背後から乾いた拍手の音がした。低い声は達哉の悪寒を誘い、反
射的に敵意を剥き出して振り返る。緋色の神殿に、闇が生まれたような存在
感。いつの間にかそこにたたずんでいた、橿原の姿。
「動かない玩具ほど、つまらないものはない…」
 血だまりを踏んで、倒れている魂の抜け殻を見下ろす。
「残念だな」
 達哉を見つめて、橿原は唇の端を吊り上げてみせた。まるで、影のお前の
方が死ねばよかったのに、とでも言いたげに。
「…『達哉』はもういない」
 緋色の瞳に反発の光を浮かべ、達哉は低く言う。
「俺が、『周防達哉』だ」
「…なるほど?」
 断言すると、橿原はますます楽しそうに笑って。
「…本当に、そう思うか?」
 質問ではなく、確認するような響き。
「彼を殺して、何か変わったか? 変われたか? 影が光を屠って、本当に
光になり代われると思うか? 半身をなくした不完全な人間が、堂々と名を
名乗ることができると思うのか?」
 たたみかける言葉と共に、橿原は少しずつ歩みを進めてくる。達哉は知ら
ず同じ距離を後ずさりながら、彼の言葉を必死で否定しようとした。理性で
はわかっていても。
 そう、何も変わっていない。光と分かたれた喪失感も、生まれた意味を探
そうとする影としての切望も、炎に似たこの忌々しい緋色の瞳も!
「じゃあ…俺は…」
 思わず口にすると、声は小さくかすれていた。光は、消えた。けれど、影
は光になれない。だとすれば――今の自分は、何?

 『達哉』を殺せば。『達哉』を屠れば。


 代わって、自分が『達哉』になれると。


「このままでも退屈はしないだろうが…」
 言葉を失った達哉をおもしろそうに見つめながら、橿原が頷いた。遠くて
近い、見えない存在に語りかけるように。
「やはりそうだろうな。こんなところで終わってしまうのはつまらない」
「何を、言って…」
 笑う橿原に、達哉は本能的な恐怖を感じてつぶやいた。震える声に、彼は
唇の端を吊り上げて。
「本体を殺すのは、快感だっただろう?」
 静かに、指が伸ばされる。逃げ場を失った達哉の頬に触れ、慈しむように
這わされる。
「影が光を支配して、彼の生死は自分次第で、そう思うと楽しくてたまらな
くて、ぞくぞくしただろう?」
 何もかも見透かす橿原の目が、緋色を映しながらも炯々と金に輝いている。
獣のような虹彩に魅入られる。歌にも似た言葉が、達哉の耳朶を痺れさせた。
橿原はそこに唇を寄せて、囁くかのごとく。
「…ならば…」
 どくん、と鼓動が共鳴する。


「もう一度だ」






 それは、絶対的な力。














 ――気がつくと、獅子宮最深部に立っていた。
 赤い壁、赤い床、赤い髑髏。しばらくぼんやりとそれらを眺めていた達哉
は、弾かれたように我に返った。
 共鳴が蘇っている。心臓の鼓動に似た、もっとも身近な存在の息吹が。光
の生きている証拠が。
「…達哉?」
 思わず、つぶやく。意識を集中すると、彼が神殿の入口まで来ていること
が感じ取れた。
「そんな…」
 馬鹿な、と達哉は目を見開いた。さっき、確かに、殺したはずだ。この手
で、この剣で、血を奪って命を屠って――。


 時間が、戻されている。


 気づいて、達哉は愕然とした。橿原の仕業か。それとも光の側に立つ橿原
と同等の存在が、そう仕向けたのか。台座の水晶髑髏を見つめながら、達哉
はただ茫然とするしかなかった。
「影は…やはり影でしか、ありえないと…?」
 独白は壁に反響して、現実味を持って達哉に返ってきた。全ては、光のた
めに。だから、影は影として、このままここで消えろと。
 無意識に笑いが込み上げてきた。自嘲だった。おかしくて、滑稽でたまら
なくなって、堪えきれずに達哉は笑う。一度笑い出すと止まらずに、片手で
顔を覆って更に声を大きくする。台座に手をついて、狂ったように。
 達哉が。一度殺したはずの『達哉』が。



 また、自分を殺しにくるのだ。



 ひとしきり笑って、笑いすぎて涙のにじんだ瞳で、達哉は水晶髑髏を無造
作につかんだ。行き場のない怒りと抑えきれない恐怖に、力任せに投げつけ
る。髑髏は割れもせず、澄んだ音を立てて床に転がった。

 ――本体を殺すのは、快感だっただろう?

 橿原の言葉が蘇る。ならば、もう一度味あわせてやろう。存分に光を屠る
がいい。どんなに彼を殺しても、お前はお前でしかありえないのだから。

 達哉は剣を握り締めた。自分はここでこうして、彼が来るのを待つしかな
いのだ。達哉を殺しても、達哉に殺されるしかないのだ。用意されている道
は一つで、逃れる術などなくて。
「…いいだろう…」
 唇が、歪む。喉の奥から、また嗚咽のような笑いが漏れる。
「殺してやる。殺されることが俺の運命なら、何度でも殺してやる…!」
 たとえ影でしかいられなくても、光になれなくても。
「…あんた、そこで見てんだろ? あっさり達哉を殺されるのは、おもしろ
くないんだろ? …上等じゃないか」
 赤い天井を見上げて、達哉は吐き捨てた。ならば、最後まで抵抗してやる。
用意されたシナリオなど、誰がそう簡単に受け入れてやるものかと。
 何度でも、繰り返すがいい。達哉が俺を殺すまで、俺は達哉を殺し続けて
やるから。

 強い、決意は。

 虚しく、緋色に紛れて溶けた。










 達哉を、殺す。何度も何度も何度も何度も。










 愉悦を伴っていた、肉を断つ感触。
 神経が慣れて、麻痺してしまった。

 快感に感じた、彼の悲鳴。
 鼓膜は、もう何も伝えてこなくなった。

 彼の全てを握る優越感。
 そんなちっぽけなもの、どうでもよくなった。自分は更に強大な存在に、
何もかも支配されていることを知ってしまったから。

 剣を振るう。赤い血が飛び散る。緋色の神殿を染める。自分の瞳を染める。
全てが、赤い虚無に侵されてゆく。

「…達哉…」
 何度目かの彼の死体を抱きしめて、達哉は思わずすがりついた。
「お前が俺を殺せないなら、俺はお前を殺すしかない…」
 最初にそうしたように、動かない唇を指先でなぞる。もちろんそれは冷た
く乾いていて、半ば衝動的に、己の唇を重ね合わせる。舌を差し入れ、絡め
取る。次第に、執拗に。ありったけの熱を注ぎ込むかのように。
 彼は覚えているのだろうか、と思う。殺された記憶を、まだかなわない敵
だということを。戦う度に次第に苦戦を強いられている気がして、そろそろ
限界なのかもしれない、と達哉は覚悟した。きっと、今度こそ。今度こそ、
必ず。
 背後に降りた闇の気配を感じても、達哉は夢中で光を貪り続けた。早く。
早く。ただ一つの、願いを込めて。
 口接けて、噛みついて。何も知らない顔をして挑んでくる彼に、戻される
時間の向こうに、刻みつけてやりたくて。ひたすら、消えゆく彼の名を呼ぶ。

 達哉。達哉。達哉。――早く。


 紡いだ言葉は、救いを求めるかのように。








 早く、俺を殺してくれ。












― alive ―








ゲームオーバー後。
「下弦の月」「Repeat」の
平行世界シャドウバージョンです。
つか達哉さん、もっと準備してから
シャドウ戦臨めばいいのにね。
しかし書いてて「火の鳥」の
比丘尼を思い出しました。




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