予想外に扉を開けて出迎えてくれた兄に、達哉は無意識に唖然とした
表情になっていたようだった。

「…ただいまくらい、言えないのか?」

 汚れた制服、潮水でぼさぼさになった髪。学校からまっすぐ帰ってき
たとは思えない格好の弟を見て、克哉は少し苦笑した。いつもと同じ押
しつけるような口調が、今日は特に棘を含んでいるような気がする。達
哉は一瞬の空白を埋めるべく、憮然として。

「…ただいま」

 言葉をはねつけて靴を脱ぎ、静かすぎる家に上がりこんだ。兄が何か
言いかけてやめる。普段なら、ここでまた長い小言が始まりそうなもの
なのだが。
 時計は七時前を指していた。両親はまだ帰っていないようだ。家族の、
特に兄の帰りはいつも遅く、まさかこんな時間に帰っているとは思わな
かった。知っていたら、空の科学館での戦いの傷をちゃんと癒してきた
のに。探偵事務所でシャワーでも借りて、潮水と砂を落としてきたのに。

「…喧嘩、か?」

 血に汚れた制服と顔を見て、克哉は眉をひそめて聞いてきた。弟がろ
くに学校にも行かず、なにやら街を駆け回っているらしい、ということ
は薄々感づいているようだ。達哉は表情には出さず、心の中で呆れて笑
った。
 彼が追っているテロ組織と死闘を繰り広げていることを知れば、どん
な顔をするのだろう。きっと今日兄も見ただろう、あの飛行船に乗って
いたのだと知ったら、何を言われるのだろう。恐らく、問答無用で外出
禁止にされるに違いない。今までだって港南区で会うたび、何処かに隠
れていろだとか家に帰れだとか。うるさくて、うざったくて、嫌になる。

「達哉」

 返事をしない弟に、克哉は強い口調でその名を呼んだ。達哉は無視し、
二階へ上がろうとする。今日はいろんなことがありすぎた。それでなく
ても、連日の戦いで疲れているのだ。いったん仲間と別れて家に戻った
のは、戦いに備えた休息のためなのに、兄といると余計に疲労が積み重
なってしまう。

「…夕飯は済ませたのか?」

 達哉に答える意志がないことを感じて、仕方なく質問を変えた兄の台
詞に、絶妙のタイミングで腹の虫が悲鳴を上げた。達哉は少し動きを止
め、ごまかしきれずに渋々首を振る。兄はため息をつき、すぐ用意する
から着替えてきなさい、と命令をしてキッチンに消えた。

 達哉は一気に全身の緊張が解けたような気がして、ネクタイを緩めな
がら階段を上がった。何故、こんなにも実の兄が苦手なのだろうかとふ
と考えてみる。昔は違ったはずだ。近所に評判の仲のいい兄弟、仲のい
い家族、絵に描いたような幸福。崩れ始めたのは、いつからだったのだ
ろう?

 そう思った刹那、記憶の中に炎が蘇って、達哉は思わず階段の途中で
よろめいた。視界が幻影で赤く染まる。思い出せと、科学館の屋上で突
きつけられた花。炎の赤。流れる血の赤。誰かの笑い声。激痛。

「達哉」

 咎める克哉の声に、達哉は現実に帰った。背後で兄が複雑な顔をして
立っている。

「喧嘩も正当防衛なら、仕方のないことだが…」

 怒っているのか心配しているのか、彼はまだ達哉の傷を喧嘩のせいだ
と思っているらしい。正当防衛、そのとおりだ。こっちは、命を狙われ
ているのだから。
 言ってやろうか、と思う。自分の弟が、今どういう事件に巻き込まれ
ているのかを。頭の固い兄のことだ、信じようとしないに決まっている
けれど。

 脳裏に見え隠れする炎を振り払い、達哉は大丈夫、と一応つぶやいて
おいた。何か言わないと、またうるさい小言が始まりそうだったからだ。

「…早く食べて休みなさい」

 キッチンからはビーフシチューの匂いがしている。どうしていつもい
つもあんたはそう命令口調なんだ、そう言いたくなるのを抑えて、達哉
はうなずいて自分の部屋に戻った。さっきの幻は一体何だったのだろう
と意識する前に、網膜に焼きついた緋色はやがて薄れて消えていった。
きっと、考えない方がいい。考えたくない。

 着替えて手を洗い、リビングに戻ると、食事の用意は既にできていた。
いつもの席についている兄に何も言わず、達哉はその向かい側に座る。
幼い頃からの指定席。兄の隣に父。自分の隣に、母。家族そろって食卓
を囲むことなど、近頃は滅多になかったが。
 白いテーブルクロスの上で、湯気を立てている皿に連想する。そうい
えば昔は机の上に、よく母の伝言メモが置いてあった。克ちゃん達ちゃ
んへ、遅くなります。夕飯は冷蔵庫に入っているので、温めて食べて下
さい。
 小さい自分はいつも兄に用意してもらって、こうして二人向き合って、
彼の説教を聞きながら、無言で夕食を済ませていたものだった。達哉、
肉だけではなくちゃんと野菜も食べなさい。ほら、箸の持ち方が違うじ
ゃないか。七つ年上の兄は、物心ついたときからずっと親代わりだった。
頼もしくて、優しくて、自慢だった兄。いつからか、それが疎ましくな
った。苦手になった。避けたくなった。嫌になっていた。
 わかっている。兄は、多分あの頃から少しも変わってはいない。変わ
ったのは、自分の方だ。

「冷めるぞ?」

 スプーンを持ったまま動かない達哉に、克哉はうながすように声をか
けた。彼は既に食べ終えた後らしく、茶のコップだけが目の前に置いて
ある。
 達哉は黙って食事を始めた。何処かの犬の鳴き声が遠く、耳に届いて
くる。思いのほか空腹だったようで、その重苦しい沈黙が気にならない
ほど、達哉は食事に没頭することができた。

「…?」

 ふと視線を感じ、顔を上げる。こちらを見つめていたらしい、克哉と
目が合う。既に三分の一ほどに減ったシチューをそのままに、達哉はス
プーンを置いて。

「…なんだよ」

 物言いたげな視線は、苛立ちを募らせるのに充分だった。子供の頃嫌
というほど聞かされた説教が、また次々に溢れ出してくる。何を言われ
るのかと、達哉は無意識ににらむような目になっていて。

「…いや」

 克哉は弟の棘のある口調に気づき、少し瞬きをして、瞳を優しげに細
めた。

「お前は相変わらず美味そうに食べるのだな、と思ってな」

 言葉の理解が落ちるまで、数秒を要した。相変わらず、とはなんだろ
う。そんなことを言われたのは初めてだ。いつも厳しさを含んだ兄の声
が、何故か柔らかく心に響いてきて、達哉は違和感に眉を寄せた。気持
ち悪い、とさえ思った。何かあったのだろうか。そんな疑問が浮かんだ
が、言い返すこともなく、達哉は食事を再開した。自分には関係のない
ことだ。とにかくこれさえ片付ければ、今日のところは兄とこれ以上顔
を合わせないで済む。そんな焦燥も手伝って。

「…ごちそうさま」

 また小言を言われるのが嫌だったので、一応低くそう言って席を立っ
た。綺麗に食べ終えた皿をつかみ、キッチンに運んで洗おうとする。と、
その手を克哉が止めた。

「僕がやるから。お前は早く休みなさい」
「…」

 赤いサングラス越しの瞳を、達哉は思わずまじまじと見つめてしまっ
た。何故だろう、今日は妙に優しい。目を丸くしていると、彼はこちら
を見つめたまま、次第に耐えきれないように苦悩の表情になって。

「達哉…何でもいいから、兄さんに話してくれ」
「…?」

 突然切り出された話は見えず、達哉は訝しげに首をかしげた。そんな
弟の様子に、兄はますます辛そうに。

「お前の悩みを、全部理解できるとは思わん。が、話してくれることに
よって、何か力になれるかもしれないだろう?」

 諭すように言われて、啓示のごとく悟ることができた。ああそういう
ことか、と気づいて馬鹿馬鹿しくなる。心配性の兄。正義感の強い兄。

 今、巷を騒がせている爆弾テロ五人組の似顔絵が作成され、公表され
たと聞く。噂を拾うと、どうやら自分たちがその五人組だと誤解されて
いるらしい。警察署が焼失したとはいえ、犯人を追っている克哉のこと
だ。恐らく似顔絵を見て、そしてその中に自分の弟にそっくりな少年を
見つけて。
 あんたらしいよ、と言い捨ててやろうかと思った。似顔絵を信じるか
どうかは別にしても、何らかの形で弟が事件に関わっていると見たのだ
ろう。本当に犯人ならば自首を、冤罪ならば保護を。どちらにせよ、自
分たちには会話が足りない。まずは弟の悩み相談を、とでも考えたに違
いない。

 達哉は少し、呆れて笑った。わざわざ回りくどい言い方をせず、疑っ
ているのなら堂々と聞けばいいのだ。それとも、肯定されるのが怖いの
だろうか。自分の弟が犯罪者か否か、確認する勇気がないのだろうか。
達哉は無言で、両手をそろえて差し出してみせた。

「…爆弾テロ。疑ってるんだろ? だったら、逮捕すれば?」

 無表情に、吐き捨ててやる。克哉は一瞬絶句して、小さく首を振って、
お前を信じている、とかなんとかつぶやいた。また、笑いが込み上げる。
なんてありきたりで、陳腐な台詞。

「そうだよな。もし俺が本当に犯人だったら、真っ先にここを燃やして
るだろうから」

 達哉は親指を立てて、下に向けてみせた。皮肉だったが、兄に通じた
かどうかはわからなかった。これ以上、つきあっていられなかった。目
を見開く克哉から、逃げるように去る。テーブルを越え、部屋を出よう
とした、その瞬間に。

 後ろから、強く抱きしめられた。

「…達哉」

 そのまま絞り出すように、熱っぽくささやかれる。茫然としたのは一
瞬で、達哉はすぐにいつもの理性を取り戻して。

「…何やってんだよ」

 あくまで冷静に、ゆっくりとつぶやいてみる。捕らえられた腕と、包
まれた背中に、兄の体温が伝わってくる。小さい頃は当たり前だった、
何処か懐かしさを感じさせる温もり。離れて久しく、遠い昔に忘れてい
たもの。
 逃げるな、と声が耳元に残された。逃げてるのはあんただろ、と言い
返してやりたい衝動にかられた。弟から、本心から。俺のことなんて、
放っておけばいいのに。出来の悪い、兄にコンプレックスだらけの、心
を閉ざした弟なんか。
 腕は離れず、離せず、振りほどくこともできず、達哉はただ黙って、
兄の抱擁を受け止めていた。遠くで、犬はまだ吠えている。重苦しい沈
黙はやがて、熱を帯びた空気を連れてきた。熱は痛みを連想させて、脳
裏でまた緋色の幻が点滅し始めた。白いテーブルが眩しくて、目が痛く
なる。意識を、ここではない何処かへ奪い去ってほしくなる。克哉の手
は動かない。絡んだ腕だけが、次第に力を増していて。

 ――本当は、何もかも、捨ててしまいたいくせに。

「…達哉」

 再度、兄が自分の名を呼んだ。焦燥と、相反する抑制と。受け止めて、
達哉は笑う。嘲るように。挑発するように。

「…そんな勇気、あんたにはないよな」

 置き去りにした言葉に、ゆっくりと、何かが弾け飛んだような気がし
た。














 目が覚めると、カーテン越しに朝の光が入ってきていた。時計の針は
九時過ぎを指している。さえずる雀の声を聞きながら、達哉はしばらく
ぼんやりと天井を見上げた。
 両親も兄も既に出かけた後らしく、家に人の気配はない。今日は遅刻
決定だな、と考えながら起き上がり、仲間に連絡を取るべく携帯を探そ
うとして、ふとテーブルの上のメモを見つけた。手にとってみると、几
帳面な兄の文字。

 達哉へ。今日は遅くなります。夕食は冷蔵庫の中に入っているから、
ちゃんと温めて――。

 ろくに読みもせず、少し笑って、握りつぶしてごみ箱に投げる。それ
は壁に当たり、はね返って床に落ちた。

 ――何もかも、捨ててしまえばいい。兄弟だからとか、血がつながっ
ているからとか、下らない世間体だとか常識だとかモラルだとか。

 達哉は顔をしかめ、もう一度メモを拾って、壁に向かって投げつけて
いた。




白い食卓 - Break it down -





克達なんですがどうも逆くさい。
かっこいい達哉が書きたかったみたいです。


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