いつも、手を引いてくれる誰かがいた。
 おぼろげだけれど、全てがまぶしい夏休みの夢。遠い記憶。

 じゃんけんでグーを出した自分は、いつものように鬼になってしまっ
た。森の緑の中へ、子供たちが一斉に駆け出す。

「ちゃんと三十数えるんだぞ!」

 赤いお面の男の子が、命令口調で言い残した。今日は彼がボスだ。う
なずいて、どもりながらも数え始める。

「イエローが鬼なら、また夕方までかかるんじゃない?」
「だいたい、レッドがいつも見つからないようなところにいるんだよね」

 ピンクのお面の少女が、黒いお面の少年と話しながら逃げてゆく。

「がんばってね」

 最後に、セーラー服の少女が声をかけてくれた。彼女の手には、ブル
ーのお面。
 足音が、遠ざかる。急に、静かになる。数を重ねる自分の声だけが、
神社の森の中に吸い込まれてゆく。

 隠れんぼは嫌いだった。三十数えて目を開けたら、独り取り残された
気分になるからだ。せっかく得たものが、跡形もなく消えてしまったよ
うな感覚。仲間を見失ってしまった自分。二度と、見つけられないかも
しれないという恐怖。

「…に、にーじゅく、さ、さーんじゅう!」

 言い切って、目を開ける。誰もいない神社の境内。切り離された別世
界。どこか近くに彼らはいるはずなのに、独りきりでここに残されるこ
とが、どうしてこんなに不安なのだろう?

 引いてくれる手のないまま、少年は一歩を踏み出していた。





 ある日の放課後。
 父の目を盗んで、いつもの格好のまま家に帰ってきた栄吉は、着替え
ももどかしく部屋にこもり、まず買ってきた雑誌を開いた。
 小さなバンドオーディションの、第一次予選の結果発表が載っている
音楽雑誌。

「えーと、ガ、ガ、ガ…あった、ガスチェンバー!」

 五十音順で掲載されているリストを指でなぞり、目当ての名前を見つ
けて声を上げる。踊り出したいような気持ちを抑え、栄吉は心を落ち着
かせた。

 第一次予選なんて、誰でも合格できるという話だ。勝負は、まだまだ
これから。

 気を引き締めつつ、それでも顔が笑ってしまうのを止められないまま、
栄吉は携帯電話に手を伸ばした。バンドリーダーとしては、メンバー皆
でこの喜びを分かち合いたいではないか。淳は今日は進路指導があると
か言ってたから、まずはもう一人の方に…。

「うわ!?」

 ふと人の気配を感じて、栄吉は思わず驚いて飛びのいていた。見上げ
れば、部屋の入り口にその人が立っていたのだ。

「タ、タッちゃん!? いつの間に…!」
「…さっきからいた」

 達哉は少々憮然とした顔で言った。学校帰りにそのまま来たらしく、
制服姿である。

「一応ノックはしたし、声もかけた。無視されたが」

 どうやら、あまりにも夢中だったせいで、来訪者に気がつかなかった
らしい。表情の読みにくい彼が、あからさまに不機嫌なのを見て、一体
いつからそこに、と思う。

「す、すまねえ、全然知らなかった…」

 素直に謝って、栄吉は思い出したように顔を輝かせた。

「そうだタッちゃん、俺ら予選通ったんだぜ!」
「…え?」
「ほら、前デモテープ録って送っただろ! あれだよ!」
「…ああ」

 盛り上がる栄吉に対し、達哉は少し黙った後頷いただけで終わらせて
しまった。拍子抜けした栄吉は、それだけかよーとつぶやいてみる。

「…実感がないだけだ」
「…んじゃ、ここ見ろよ」

 つぶやき返す達哉に、栄吉は雑誌を開いて指差した。どれ、と達哉が
覗き込む。小さな文字を追うため、栄吉と顔をくっつけるようにして。
ふわり、と甘い匂い。

「…タッちゃん、KAORIにでも寄ってきた?」

 聞いてみる。彼が一人であんな洒落たアロマテラピーの店に行くこと
はないだろうから、またギンコにでもつき合わされたのかと思いつつ。

「いや? あ、ガスチェンバー…本当だ」

 見つめていた栄吉に、達哉は目を合わせて微笑んだ。思わずどぎまぎ
した栄吉の内心を知ってか知らずか、髪をかきあげて。

「二次予選までに、ちゃんと練習しないとな。新曲も作っておいた方が
いいんじゃないか」

 珍しく饒舌なその声に、微妙な喜びが混じっている。耳元で囁かれて
いるような至近距離で、栄吉はその横顔から目が離せなくなった。

 普段が無口で無表情で、あげく無感動な人間に見えるだけに。
 そういう、素直な反応を返されると…。

 ふいに浮かび上がった、少なくとも同じ男に対して抱くようなもので
はない感情に、栄吉は一人で慌てた。ま、待て待て待て、冷静になれ、
と自分で自分を戒める。刹那。

「…栄吉?」

 茶色の瞳が、視線を捕らえた。彼の目に何かしら力があることは、共
に戦ってきた仲間として充分承知していたのだが、こうしていざこちら
に向けられると。

「顔、赤いぞ。どうした?」

 軽く頬に触れられて、一瞬で縛られた。彼は意識していないのだ。自
分の行動が、相手にどう映るのか。自ら他人に興味を持つことが少ない
ために。
 早鐘を打つ自分の心臓の音を、栄吉はどこか遠いところで聞いている
ような気がした。責任転嫁をする。理由など、考えないようにする。手
を、伸ばす。きょとんとして栄吉を見つめている、達哉の頬に。

「…タッちゃん、あのさ」
「…?」
「あんまり、そんな目でオトコを見つめない方がいいぜ」

 囁いて、引き寄せられるように唇を重ねた。





 太陽は、もう西に傾きかけていた。
 神社の森をさまよいながら、栄吉は半泣きのまま残りの一人を捜して
いた。時折、木の根に引っかかって転びつつ。

 お姉ちゃんは、すぐ見つかった。わざと見つかりやすいところに隠れ
ていてくれたらしい。ピンクはなかなか見つからなくて、思わず悪口を
叫んだら、木の上から声が降ってきた。イエローの馬鹿、反則だよと言
われたが、見つけたものは見つけたのだ。そんなやり取りを笑った、ブ
ラックも見つけられた。三人は、境内で最後の一人が見つかるのを待っ
ている。

「…タッちゃあん…」

 呼ぶ声も、弱々しくなる。彼は自分と違って、走るのも速くて、隠れ
るのもうまい。何でもこなせるリーダー的存在のレッドイーグルは、栄
吉の、そして皆の憧れだった。
 これだけ捜しても見つからないのだ。もう、この近くにはいないのか
もしれない。自分がうまく見つけないから、呆れて帰ってしまったのか
もしれない。嫌われたのかもしれない。置いてかれたのかもしれない。
不安はひとりでに膨らんでいって、栄吉は溢れそうになる涙をこらえた。

 …と、向こうの木の幹の根元に。

 寝転んでいる、半ズボンの足。見慣れた靴。
 急に目の前が開けたようで、嬉しくて、栄吉は夢中で走り出した。

「タッちゃ…!」

 眠ってしまっていたらしいレッドを確認した途端、下草に足を取られ
た。バランスを崩して、倒れ込む。声に驚いて起きた、彼の上に。

 うるさいほどの蝉の声が、五感の外側へ移動した。木漏れ日が、赤い
お面の上で揺れていた。目の前の草と、小さな花から、陽炎のように真
夏の匂い。

「…イエロー、重い…」
「わ、ご、ごごごめん、タッちゃん!」

 自分の倍はあるかもしれない体重に、達哉が苦しそうにうめいた。栄
吉は慌てて飛び退く。勢い余って、尻もちをついて。

「待ちくたびれて寝ちゃった。遅いよ、イエロー」

 服についた草を払いながら、達哉は立ち上がった。手を差し伸べてく
れる。

「ほら」

 お面で表情はわからないが、きっとにっこり笑ってくれているのだろ
う。声から察して、栄吉は自然にその手を借りた。

「あ、ありがとう」

 礼を言いつつ、さっきの止まった時間を反芻する。自分が大柄なせい
か、押しつぶした格好になったレッドの体は、細くて今にも壊れそうな、
そんな儚いものに思えて。

「…タ、タ、タッちゃん」
「ん?」

 神社への獣道を帰りながら。

「ぼ、ぼく、足も遅いし、け、けんかも強くないし、いつも、タッちゃ
んに守ってもらってばかりだけど」

 危なっかしく歩く自分を引いてくれている彼の手を、しっかりと握り
締める。

「で、でも、ぼ、ぼくだって、ぼくがタッちゃんを守ることだって、で、
できるよね?」

 立ち止まる。お面越しに、達哉は栄吉をじっと見詰めて。

「うん。当たり前だろ?」

 澄んだ声が、そう断言してくれた。





 蝉の声は聞こえない。耳に届くのは、階下の店のかすかなざわめき。
 今腕の中にある体は、そんなに柔でもないし、細くも脆くもない。ど
ちらかといえば、自分よりもたくましい。
 もう、一人で歩ける。誰かの手がなくても、引いてもらわなくても。
 けれど。

 あのとき彼を守りたいと思った気持ちは、今でも変わっていないよう
な気がして。

「…栄吉?」

 キスをしても、抱きしめても、達哉は微動だにしなかった。何をされ
ているのかわからない、そんな口調でつぶやいてくる。が、栄吉の手が
目的を持って動いた時、わずかに身をよじらせた。それは背中の傷跡。
制服の上から、撫でるようにして。

「…ごめん、タッちゃん」

 返事はなかった。思わず震えた声に、達哉が腕を回してきた。子供を
あやすように、栄吉の肩を優しくたたいて。

「…気にするな」

 目を合わせると、滅多に見せてはくれないだろう笑顔があった。今度
こそ、力任せに抱きしめる。脳裏で、何かが弾け飛ぼうとしている。そ
れが最後の理性、だとしたら。

「…あ、あああ! そ、そういえばタッちゃん!」

 必死の努力の結果、栄吉は大声を上げることでごまかした。無理やり
体を引き剥がすと、そんな栄吉の衝動に気づくわけもない朴念仁は、突
然のことに驚いて目を丸くした。

「何か、用だったんじゃねーの? ほら、家来るなんて珍しいしさ!」
「…今更…」

 苦笑しながら、達哉は自分の鞄を開けた。中から紙袋を取り出し、栄
吉に投げる。

「…? 開けていいのか?」
「ああ」

 短い返事に、栄吉は未だ抑えきれない何かを持て余したまま、封を破
った。中身は。

「…タッちゃん…」

 なんともいえない感情が、波となって押し寄せる。音楽雑誌。栄吉が
買ってきたものと同じ、ガスチェンバーの名前が小さく載った。

「…先に、結果を言われてしまった」

 いつにも増してぶっきらぼうな口調は、明らかな照れ隠しだ。
 栄吉は悟った。予選を通過したと知る一瞬を、夢に近づいたという喜
びを、皆で同時に味わいたくて。だから、こうしてわざわざ。

「…なあ、タッちゃんてさ」

 笑いがこみ上げてくる。同時に、例えようのない愛しさも。

「実は、めちゃくちゃ可愛くね?」

 自制心が音を立てて崩れてゆくのを感じながら、真っ赤になってそっ
ぽを向いている達哉に、栄吉はもう一度その手を伸ばしていた。





夏のカリスマ - charismatic summer -





初めて書いた栄達でした。
淳達と違ってほのぼので和む。


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