何がきっかけだったのか、既に覚えていない。
 きっと、他愛のないことだったのだ。小さな何かが引き金になり、理
性が飛んで、気がつけば口にしていた言葉。
 告白に、達哉は何も言わず微笑んだ。わかっている、俺も淳が好きだ
と。その綺麗な瞳でそう言って、相手が傷ついたことを知らずに。
 淳は否定していた。彼の想いはまっすぐで誠実で、醜く浅ましい自分
のものとは全く違うのだから。
 透明なその目が悔しくて、半ば乱暴に腕を押さえつけた。彼は一生理
解しないのかもしれない、それなら、いっそのこと。

 いっそのこと。





夜明け前






 ――その日は疲れていたのだ、と淳は思う。

 事を急いてはならない、それはわかっている。次第に強敵と化す悪魔
たちに、準備は万端にしておかなければならない、それもわかっている。
けれど、何かが内側で叱咤するのだ。早く、早く。これ以上、噂が現実
化しないうちに。これ以上、街が被害を受ける前に。――これ以上、罪
悪感に悩まされずにすむように。

「…淳?」

 気がつくと、達哉が目の前で心配そうな顔をしていた。我に返って、
淳は瞬きを繰り返す。

「…何度も、呼んだんだが。どうした?」
「あ…ごめん、なんでもないよ。何?」

 笑顔を取り繕うと、まだ何か言いたげに、達哉は少し眉を寄せて。

「…いや、もう一杯もらえたらと思って」

 右手のティーカップを持ち上げてみせる。淳は慌てて立ち上がった。

「ちょっと考え事してたんだ、気がつかなくてごめん。さっきと同じの
でいい?」

 頷く達哉を横目で確認して、淳はキッチンに向かう。母が残していっ
た高級な紅茶葉は、まだ開けてもいないものがたくさんある。
 生活感のない家。無機質な部屋。戦い疲れ、眠るだけの場所。そんな
ところに、何故自分は親友を招き入れたのだろうかと思う。いや、そん
なところだからこそかもしれない。

 それぞれの家でゆっくり休養を取ろうと決めた日は、達哉は必ず淳の
家に来てくれた。彼自身、自分の家に帰るのが嫌だったせいもあるだろ
う。けれど、達哉は言う。

「心配だから」

 ――心配? 僕が…?

 言われたときは素直に嬉しいと思ったのに、今は軽い苛立ちがつきま
とう。自分は彼に庇護してもらうような立場ではない。そんな資格もな
い。ポットに注がれる湯と蒸気を見つめながら、淳は少し唇を噛んだ。
駄目だ。身体が疲れていると、心まで病んでしまう。早く寝てしまおう。
寝て、全てを忘れて、また新たな戦いに備えなければ。

 リビングに戻ると、達哉はぼんやりと雑誌を読んでいた。紅茶と同じ
く、母が残していった週刊誌。捨てるために、部屋の隅に山積みにして
おいたもの。
 しばらく、淳はその横顔を見つめた。綺麗だ、と思う。鼻筋や、顎か
ら喉にかけてのラインや。物憂げな鳶色の瞳や、形のよい唇や。造作は
言うまでもなく、それは魂の在り様、内面がもたらす輝きの結果のよう
に思えた。

 ざわり、と何かが淳の内側で頭をもたげる。複雑な感情に名前をつけ
るとしたら、恐らくそれは独占欲と嗜虐心。蝶を捕らえてかごに入れ、
逃げられるくらいなら羽をもいでしまいたくなるような。

 ――痛い。

 淳は眉を寄せた。彼に対する感情を明確にしようとすると、いつも心
に鋭い痛みが走った。罪悪感を伴い、衝動を連れて、それは形になる。
はっきりとした欲望。否定。自己嫌悪。抑圧。そして、残るのはまた痛
みのみ。

(助けて)

 字を追う達哉の瞳に呼びかける。彼に触れれば、楽になれることはわ
かっている。わかっているけれど。

(助けて、達哉)

 一度触れてしまったのが間違いだったのか。刹那の安堵と快楽を得て、
本当は何一つ自分のものになっていないというのに。







 僕は君のことが好きなんだ、達哉。

「…知ってる」

 違う、そうじゃなくて。

「俺も、淳のことが好きだよ」

 そうじゃなくて、そうじゃなくて。







 あのとき、達哉は不思議そうに淳を見上げていた。悔しくて、繰り返
した。握った腕に力を込めた。やっと状況を理解し、逃げようとした身
体を抱きしめた。何かを言いかけた唇を塞いだ。熱を貪って、ありとあ
らゆる感覚を謳歌した。

 乾いた時間は、一夜の夢のように。

(でも、達哉)

 目が覚めて、少し気まずい朝食も。いつもどおりの日常も。

(君は、何も言わなかった)

「…淳?」

 呼びかけられて、気がついた。雑誌から目を上げて、達哉がこちらを
見つめている。あの瞳。不思議そうに見上げる、澄んだ鳶色。

「大丈夫か?」

 本をソファに残して、立ち上がって。淳が持っていたポットを奪い、
机の上に置く。

「あ…うん、ごめん」
「今日、そんなに辛かったか?」

 淳がどこかぼんやりしているのを、疲れのせいだと思ったらしい。達
哉は少し暗い表情になった。一日の行動の最終決定権は、リーダーであ
る達哉にある。無理をさせたのならば、自分を責めるべきだと。

「ううん…本当になんでもないんだ。ごめん」

 ポットを持ち直し達哉のカップに注ぎながら、謝ってばかりいるな、
と思って淳は苦笑した。

「…なんでもないなら、何故そんな目をする?」

 わずかに、怒りを含んだ達哉の口調。言いたいことがあるなら言えば
いい、そう言いたげな視線が貫いてくる。触発されて、淳も苛立った。

「じゃあ君に全てを打ち明けたとして、それで君が解決してくれるの?
僕の悩みも痛みも全て、君が救ってくれるとでも?」

 勢い、責めるような口調になる。傷ついた表情をして達哉が黙り込む
のを、淳は理性の端で捕らえた。謝らなければ。けれど。

「…君の」

 溢れた湯が、机に零れる。

「君の、せいだよ」

 ――ほら。
 僕は昔から、得意だったんだ。



 全てを、君のせいにするのは。








 脳裏で燃え上がるのは、炎。勝手に思い込み、憎悪を抱き続けた十年
間のように。
 狂気に堕ちる寸前で、理性が淳を引き止める。何も見えず何も感じず、
彼への復讐だけが、彼だけが全てだった毎日のように。

 朝が来なければいいのに、と思う。
 夜が終わらなければいいのに、と思う。

 そうすれば、このまま。
 ずっと、ずっと、ずっと。








 汗の浮いた額に触れると、達哉は虚ろに視線を泳がせた。こうやって
彼を堕として汚して引き裂くことで、自分は安堵を得ている。赦されて
いると、認められていると。おざなりでしかない彼の抵抗は、そう思わ
せてくれるのに充分すぎて。

「…達哉」

 目が覚めれば、あいまいになる。日常に忙殺されて、薄れゆく。そう
思っていた。

「…ごめん…」

 互いに何も言わないから、忘れた。忘れようとした。たとえ、胸に小
さな痛みが残っていても。軽い疼きに翻弄されても。そう、思い込もう
とした。

「ごめん…達哉…」

 知らなければよかった。触れなければよかった。一度刻まれてしまっ
た熱は、麻薬のように心と身体を蝕んでいった。飢えて、渇いて、死に
そうになる。そして、それを、相手のせいにして。

 うつむいた淳に、達哉はゆっくりと瞬きをした。夜明けの青い光に映
えた涙を、優しく指ですくって。

「…淳、お前は…」

 零れた涙は、達哉の頬に。

「お前は、謝ってばかりだ」

 頬を滑って、耳へ流れて。

 それはまるで、彼が泣いているかのように。





夜明け前 - end of the night -





20020712 up


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