虚空の瞳
Eyes in the sky






 名前を呼ばれたような気がして、達哉は顔を上げた。
 まだ高い太陽の光が、穏やかな海面に反射するヨットハーバー。剥き出し
のコンクリートに腰掛けていると、優しい潮風が頬を撫でてゆく。
 少し考えて、達哉はまた手の中のジッポーに視線を戻した。こうしている
と、世界は素晴らしく平和だと錯覚できて、馬鹿馬鹿しくて笑いが込み上げ
てくる。街はいつもどおりで、日常が繰り返されていて、そして。

 ――そして、自分もれっきとしたこの世界の住人で。

「……」
 考えると暗くなりそうで、達哉はまた海に視線を投げた。
 岩戸山で真実を話し、また一人で戦い続けようとした自分に、思いがけず
仲間ができた。巻き込みたくなくて、遠ざけたくて、いつも背中を向けて逃
げていた人。彼女は泣きながら、自分を抱きしめてくれた。そんな資格があ
るわけもない、別世界の「周防達哉」を。

 違う、と思う。

 やはり、共に戦う仲間がいるという、この状況は間違っている。自分はこ
れからも、一人で戦ってゆかなければならないはずだ。それが、「罰」だっ
たはずだ。向こう側で彼らとの約束を破った自分が、またこうして同じこと
を繰り返している。そんなことが、許されるはずが。
 達哉は黙ってジッポーを鳴らし、目を閉じて、眉を寄せて、決心して立ち
上がった。と。
「ほら、ちゃんといるじゃねぇかよ、ったくこの心配性が」
「いや、僕は可能性の問題としてだな…」
 唐突に、背後から賑やかなやり取りが聞こえてきた。驚いて振り向くと、
克哉とパオフゥである。
「おい達哉、聞いてやってくれや」
「嵯峨!」
「このブラコン兄貴ったらよ、お前が先に一人で地下鉄潜ってっちまうんじ
ゃねぇかって、うるさくてうるさくて。ゆっくり買い物もできやしねえ」
 克哉の制止も聞かず、パオフゥは肩をすくめてそう言ってみせた。思わず
達哉が見つめると、兄は少々赤くなりつつ。
「…今までのことを考えると、気が気でなくてな…それにちょっと目を離す
といなくなる、お前は昔からそうだったから」
「……」
 達哉は何も言い返せず、黙って克哉から視線を外した。もう少し彼らが帰
ってくるのが遅ければ、自分はここを立ち去っていた。さすがに兄は鋭い、
と思う。自分の知っている兄と、やはりあまり変わらないのだと思う。正義
感が強くて、心配性の兄。向こう側で今頃どうしているのかと思いを馳せる
と、また暗い気分になった。
「…いつも、そうやって…何も見てないような、遠い目をするんだな」
 パオフゥがつぶやいて、達哉の頭にぽん、と手を置いた。
 一行はアメノトリフネと呼ばれる、いわゆる「ノアの箱舟」に向かうべく、
地下鉄工事現場のある鳴海区に来ていた。一度潜ればしばらく街に帰ってこ
れないかもしれない、達哉がそう言うと、舞耶の提案で準備は万端にしてお
くことになった。武器、防具、薬、食事。女性班と男性班に分かれ、分担を
決めて別行動をする。達哉も克哉とパオフゥと一緒に、薬を揃えに港南区に
戻る予定だったのだが。
「お前はいい、ここで待ってるんだ」
 待ち合わせ場所のヨットハーバーで、克哉はそう言った。首を横に振ろう
とすると、無理やりそこに座らせて。
「ずっと、一人で戦ってきたんだ。ろくに休息も取ってないだろう、わずか
な時間だが、ここで休んでなさい」
 何と答えていいものかわからなくて、パオフゥに目を向けると、彼も苦笑
しながら頷いていた。
 それじゃ行ってくるから、舞耶とうららが手を振って去り、克哉とパオフ
ゥも姿を消すと、達哉はまた一人になった。今までちゃんとした食事も睡眠
も取らず、全速力で進んできたせいで、急に気が抜けたような感じがした。
知らず倉庫の壁にもたれて、いつの間にか座り込んでいた。
 新しく得た、仲間たち。
 腫れ物に触るような、そんな遠慮じみたところは感じられない。けれど、
彼らはどうしても自分に気を使いすぎだと思う。…無理もないが。
 わかっている。溶け込もうとせず、壁を作っているのは自分の方だ。何故
なら、自分は本来ここにいるべき存在ではないのだから。

 ――そしてきっと、繰り返すのが怖いから。

「遅ぇな、女共」
 煙草の箱を握り潰して、パオフゥがつぶやいた。どうせまた芹沢がブティ
ックでぎゃあぎゃあ言ってやがるんだろうな、とつけ加えて。
「ちょっと買ってくるわ」
 言って、最後の煙草を揉み消した。
「吸い過ぎは身体によくないぞ?」
「人の勝手だろ? ま、久々に兄弟水入らずで話でもしてろや」
「おい…!」
 克哉が慌てて引き止めようとするのを、達哉はぼんやりと見ていた。確か
に二人っきりにされても、兄と何を話せばいいのかわからない。どうせ気ま
ずい沈黙が降りるだけなのに、と思う。
「あのな、周防…お前さんが猫好きで猫アレルギーだっての、よぉくわかっ
た気がするぜ」
「…?」
 パオフゥのつぶやきが聞こえて、兄が首をかしげるのが見えた。達哉は少
し目を丸くする。猫好きで、猫アレルギー。向こう側の兄もそうだっただろ
うか。初耳のような気がする。
「お前の弟も、猫みてぇだもんな」
 そう言って制止も聞かずパオフゥが姿を消すと、予想どおり沈黙が落ちた。
克哉は去ってゆく影にまだ何か言おうとして、諦めて、達哉の隣にやってき
た。所在なげに腰を降ろし、黙って海を見つめている。
「…猫」
「え?」
 耐えられなかったわけではないのだが、気がつけば達哉はつぶやいていた。
「苦手なのか?」
 克哉は驚いたように瞬きをして、少し頬を赤く染めて頷いた。
「ああ…こればかりはどうしようもないな。可愛くて、抱きしめたいと思う
のだが…どうも涙が出てきてしまってね」
 ああ思い出すだけでダメだ、言って克哉は鼻を鳴らした。達哉は珍しいも
のを見るように、じっと兄を見つめる。
「お前は見ていないだろうが、僕のペルソナも猫の姿をしていたんだ。皮肉
なものだな…お前は、猫は大丈夫か? 遺伝ではないと思うのだが」
 話題を見つけて安心したのか、克哉は饒舌にそう聞いてきた。達哉は少し
考えてみる。猫に対してそんなに執着もしてないし、苦手でもない。
「…別に…」
 そうか、と克哉が頷いて、また沈黙が落ちた。今度はなんだか耐えられな
くて、達哉はまた口を開く。
「…さっきパオフゥさんが俺のこと、猫みたいって言ってたけど…兄さんも
そう思う?」
「…え?」
「…だって兄さん、俺のこと苦手みたいだし…」
 達哉はつぶやいて、視線を外して、また海を見つめた。人のことは言えな
いけど、心の中でそう付け足す。兄はしばらく言葉を失っていたが、やがて
堰を切ったように。
「いや、猫が苦手といっても、猫自体は大好きなんだぞ? アレルギーさえ
なければもう、一日中そばにいて抱きしめて可愛がって…って、あ、いや、
それは猫のことであって、別にお前のことじゃなくて…」
 慌てたような様子がおかしくて、達哉は少し笑ってみせた。こちら側の兄
の言動は、時々向こう側とは違うことを思い知らせてくれる。向こうの兄と
はろくに言葉も交わさず、避けていたせいだろうか。どうも、こちらの兄の
方が優しいような気がして。
「…達哉」
 考えていると、克哉が真面目な声で名前を呼んできた。
「笑顔を見せてくれるのは嬉しいんだが…どうも痛々しい。お前はまだ十八
歳だ、そんな、世の中の不幸を全て背負ったような顔をしなくても…」
 ――兄は優しい。兄だけでなく、新しい仲間が皆、優しいと思う。けれど、
それはきっと、自分が全てを話さなかったせいだ。全てを明かせば、何もか
もが自分のせいだと知れば、きっと。
「…なあ、達哉」
 赤いサングラス越し、真摯な兄の瞳とかち合った。
「お前、まだ何か隠してないか?」
 吐かれた台詞に、達哉は思わず驚いて瞬きをした。刑事の勘、というやつ
なのだろうか。黙って目をそらし、立ち上がって背を向けようとして。
「達哉、逃げるんじゃない。逃げる必要もないだろう?」
 腕が捕らえられ、真剣な口調で諭された。
「……」
 達哉はしばらく、黙って動かなかった。兄もそのまま、離そうとしなかっ
た。波の音。鳥の声。遠くの、サイレン。
 話せない、話せるわけがない。話せば、もう一緒に戦ってくれなくなる。
ずっと一人で戦ってきて、これからも一人で戦おうとしていて、思いがけず
得られた大切な仲間と、また別れが余儀なくされる。一度手に入れたら、離
せないもの。それは、向こう側でも同じ――。
 達哉はゆっくりと顔を上げ、空いた片手を克哉の頬に添えた。彼が少し驚
いて反射的に身を引こうとするのを、引き寄せて近づける。そのまま耳元で、
ささやくように。
「…にゃあ」
「…!?」
 瞬間、ものすごい勢いで体が離されていた。数メートルも飛び退いた兄を
きょとんと見つめて、反動で倒れてしまった達哉は思わず吹き出した。猫の
鳴き真似をするのは、初めてだったのだが。
「…そんなに驚くとは思わなかった」
「い、今の声、達哉か!?」
 克哉は慌てたようにきょろきょろしている。いきなり至近距離に猫が現れ
たとでも思ったのだろうか。想像すると、また笑いが込み上げた。
「言ってなかったか? 向こう側で、よく物真似をして悪魔を喜ばせたりし
てたんだ。もっとも、ほとんど機械音ばかりだったけど」
「そ、そうなのか?」
 台詞の最後にくしゃみをつけて、兄は達哉を見つめてきた。本当に苦手な
んだな、と達哉はその様子に少し苦笑してしまう。向こう側でもそうだった
なら、兄避けにいつも猫を連れて歩いていたのに、と考えて。
 また、思い出す。自分がいた世界。自分がいるべき世界。あの悲劇を繰り
返さないために、自分はここにいる。けれど本当は、それこそが世界を滅亡
へ導いているのだと。
 唇を噛み締めると、やりきれない想いが怒涛のように襲い掛かった。振り
払うと、眩しいくらいの彼女の笑顔。
「…達哉…」
 じわじわと侵食してくる罪悪感の端を、克哉の声が捕まえた。得体の知れ
ない黒い影から、目が覚めたように達哉は我に返る。
「…なに?」
 それきり口をつぐんだ兄に、達哉は訝しげに首をかしげた。くしゃみを一
つ残した克哉は、少し目をそらして苦笑する。
「…お前は、強い。けれど強いだけでは生きていけないことも、知っていて
ほしい」
 ぽつり、と言葉が残された。何を言われたのか、達哉はしばらく理解でき
なかった。…強い。――何が?

 あれほど独りで戦う決心をしたくせに、また得ることができた仲間を手放
せないでいる自分が? かつてのかけがえのない存在を置き去りにしていな
がら、今この時に刹那の幸福と安堵を感じていることを否定できない自分が?
何もかもが自分のせいで、子供じみたわがままのせいで、世界を滅びの危機
に追い込んでいるというのに。

「強いだけでは、生きていけない」

 兄はそう言うけれど、強くなくては生きていけないことも達哉は知ってい
る。言い返したくて、でもできなくて、耐えるべく拳を握り締める。そう、
自分がもう少し強ければ。もう少し強ければ、こんなことにはならなかった
はずなのだ。こちら側で目覚めてから、ずっと達哉を責め苛んできた後悔と
自責の念が、蘇りつつある懐かしい共鳴と共に大きくなってゆく。

 意識を、集中させてみる。彼女はもう『向こう側』にはいない。わかって
いるのだ、自分は『こちら側』で幻影を求めているだけなのだと。わかって
いるのだ、それが彼女の負担になっているということも。そうやって自分で
自分を思い込ませて彼女を忘れようとしていることも、戦っていれば何も考
えなくてすむから、傷つくことを厭わずに夢中でここまで来たことも、そう
思いながら彼女の許しを望んでいることも全て、何もかもわかっている――
わかっているけれど。






 生きていてほしい、と思った。笑っていてほしい、と思った。けれど、代
償が大きすぎた。選べなかった。望めなかった。拒んでしまった。生きてい
てほしいと思ったのに、笑っていてほしいと思ったのに、血の海で幸せそう
に微笑みながら死んでほしくなどなかったのに!






「…兄さん、俺は…」

 想いが、言葉が、刃のように達哉を切りつける。目を閉じて、痛みに耐え
る。身体の痛みなら耐えられる、けれど、この痛みには。
「…達哉?」
 何か悪いことを言ったのだろうかと、克哉が心配そうに覗き込んできた。
苦痛の表情のまま、達哉は辛うじて笑顔を作ろうとした。無理やり上げた口
角は引きつって、かえって泣き出す寸前の子供の顔になった。

「…俺は、強くなんかない」

 そのまま、ゆっくりと空を仰ぐ。青い空、白い雲。変わらない風景、変え
てはいけない風景。
「…だって、俺が」
 かすれて震え、空気に溶ける声。



「俺が、舞耶姉を」



 置き去りにされた言葉は誰にも届かず、空の向こうに消えていった。残像
を追いかけて、達哉はただ空を見上げ続ける。



 瞳は、何も映さないままに。


 




END




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