夢を見た。内容は、忘れてしまった。ただ、残った孤独。絶望感。赤
い色。
 腕が離れてゆく。何もしないまま、何も告げないまま。思い出しかけ
ていたものが、本当は切望していたことが、また置き去りにされてゆく。
 臆病者、と叫ぶ。偽善者、と罵る。
 何もしない彼も。そして、伝えられない自分も。









 携帯をつないで舞耶に連絡を入れると、彼女は驚くほど冷たい電話の
応対をしてくれた。どうしたの、達哉クン。風邪でもひいたのかしら?
そう、じゃあ予定は明日に繰り越しね。淡々とそう言って、最後に諭す
ような言葉を残して。

「…逃げたくて、目をそらすのね。でも、過去の罪は消えないわよ?」

 達哉がその意味を理解しようとする前に、電話はあっさりと切られて
いた。嘲るような、からかうような口調だったのは気のせいだろうか?
 探偵事務所で合流してから、達哉は彼女がどこかいつもと違うことに
気づいていた。何が違うのか、どこが違うのか、具体的にはわからない。
ただ、感じる激しい違和感。まとう空気が、見つめてくる瞳が、静かに
燃え上がる炎のようで。

 ――炎。赤。焼きついて離れない、痛みの赤。

 連想して、達哉はそれを振り払った。携帯を放り出すと、床に転がる
直前で、何かに当たってかさりと音を立てた。白いメモ用紙。丸められ
て皺だらけになった隙間から、兄の文字がかすかに見える。さっきろく
に読みもせず、ゴミ箱に投げつけたものだった。
 一瞥し、無視を決め込んで、達哉は再度布団に潜り込んだ。意識をか
すめる、今朝の夢の内容。忘れよう、忘れてしまえ。思い出したくない、
思い出してはいけない。脳裏で鳴り響く、警鐘も赤。

 今日は仲間たちとアラヤ神社へ向かう予定だった。リサが何かを訴え
たくて、でもできなくて、辛そうに皆を導いた場所だった。今までもそ
こへ立ち寄ると、リサも栄吉も舞耶も何故か暗い表情になっていた。一
人だけ何も感じないのか、ゆきのがひどく心配していた。周防、あんた
も同じような顔してるよ。皆、どうしちまったんだい?
 知らない、と思った。かすかに感じる既視感も、気のせいだと思い込
もうとした。逆に考えようとすると、いつも記憶の壁にぶち当たった。
恐らく少しでも力を加えれば、何かが怒涛のように流れ出してしまうの
だ。

 ――そう、自分は怖がっている。それは、開けてはいけない扉のよう
で。

 達哉は何も考えないですむよう、じっと睡魔を待っていた。誰もいな
い部屋に、雀の声だけがやけに大きく響いている。そういえば、こんな
静かな時間は久しぶりだ。いつもどおり学校から帰ろうとしていたあの
日から、めまぐるしく変化した日常のせいで。
 あれから数日。やっぱり一人でいる方がいい、と思う。これが当然な
のだ、とも思う。今はただ、何もかも忘れて眠りたい。その方がいい。
きっと、自分は疲れている。だから、よくわからない悪夢も見てしまっ
たりするのだ。
 瞼の裏で、緋色が点滅し始める。また、夢に落ちてゆく。逃げたくて
もがいても、なす術もなく、まっすぐに。







 ――周囲から、炎が迫ってきていた。
 幼い自分が泣き叫んでいる。助けて、置いていかないで。一人にしな
いで。ひとりにしないで。
 緋色の闇の中で、兄の呼ぶ声がする。駆け寄ってくる。だいじょうぶ
かたつや、と唇が動く。いつもは冷静な眼鏡の奥の目から、こぼれ落ち
る透明な雫。炎の照り返しで、赤く見える涙。
 大丈夫、と答えようとした。お兄ちゃん、なんで泣いてるの? そう
言って、笑おうとした。けれど、体に力が入らない。頭がぼんやりして
いて、目もはっきり見えない。ただ、網膜に感じる赤。炎の音。流れ出
す赤。自分の血。背中から滴り落ち、抱えてくれる兄の手を濡らしてい
る赤。
 救急車のサイレンが、曇った視界を突き刺している。時折光る赤。背
後で断末魔の悲鳴を上げている、神社も赤。空も赤。全てが赤。――暗
転。

 夢が飛ぶ。色あせた記憶の中、学校からの帰り道。ばらばらと出てく
る男子生徒。顔も知らない上級生たち。囲まれる。ナマイキナンダヨオ
マエ、と声が残される。顔に腕に手に足に体に、容赦なく叩きつけられ
る痛み。次第に薄れてゆく意識。何かが自分の内側で、叱咤するように
ささやいてくる。
 気がつくと視界は真っ赤に染まっていた。血の海だった。炎もはぜて
いた。自分がやったのだと悟るのに、そう時間はかからなかった。通り
すがりの誰かの悲鳴。蛋白質の焦げる匂い。赤く濡れた自分の手。返り
血が目に入って、何もかもが緋色に変わる。また、救急車のサイレン。
自我を手放す自分。暗転。

 一人にしないでとすがる。一人にしてくれとはねつける。どうして僕
を置いてくの。どうして俺にかまうんだ。放っておかないで。放ってお
いてくれ。矛盾する感情の間で、赤い色がぐるぐる回る。それが意志を
持って、全てを束縛してくる。過去に捕らわれる。記憶に縛られる。忘
れたくて、忘れられなくて、閉じ込めて、抑え込んで、忘れようとして、
そして。








 ――目が覚めると、全身に嫌な汗をかいていた。
 しばらく夢の余韻を持て余し、達哉は天井を見上げたまま、荒い息を
整えた。ゆっくりと、現実を認識する。
 いつの間にか外は真っ暗で、時計の針は既に九時過ぎを指していた。
ずっと眠っていたらしい。思ったより、疲労がたまっていたようだ。
 ひどく、喉が渇いていた。夢見は悪い方ではないはずだが、最近はう
なされて起きることが多くなっている。そしていつも、悪夢の内容は定
かではないのだ。おぼろげな辛さと苦しみと痛みとが、緋色と共に残っ
ているだけで。

 ――大丈夫。目を閉じても、そこには炎も赤も蘇らない。

 自らを落ち着かせて、達哉は水を飲みにいこうと起き上がった。ベッ
ドから抜け出すと、足元で白いメモ用紙の潰れる音がした。大した内容
ではなかったが、弟が読みもせず捨てたことを知ったら、兄は悲しむだ
ろうか。そんなことをちらりと考えて。――思い出した。
 夢の中で、兄は確かに泣いていた。滅多に感情を表に出さず、いつも
冷静なはずの兄。大丈夫か、と自分を見て涙していたのは、一体何故だ
ったのだろう?
 考えても答えは見つからず、達哉は少し首を振った。とにかく水だけ
飲んで、また寝てしまおう。兄が帰ってくる前に。
 部屋を出て階段を降りると、階下から灯りが漏れていた。珍しく誰か
いるのだろうか、思ってリビングに足を踏み入れて、達哉はテーブルの
向こうの視線と目が合った。少し驚いて、躊躇する。

「…なんだ、起きていたのか」

 目を丸くしてつぶやいてきたのは、新聞を読んでいた克哉だった。な
んでこんな時間に帰ってるんだ、言いかけて壁の時計を見ると、既に夜
中の一時過ぎを回っている。達哉は自分の部屋の時計が、朝と同じ時間
を指していたことに今更気がついた。いつから止まっていたのだろうか。

「夕飯はまだだろう?」

 ミネラルウォーターを取り出すべく、冷蔵庫を開ける達哉に、兄は心
配そうに声をかけてきた。ラップをかけた皿を横目に、ペットボトルだ
け出して扉を閉める。

「何か食べた方がいいぞ」

 兄がため息をつくのがわかった。立ち上がって、夕飯の準備をしよう
とする。昨日の夜の記憶が蘇る。同じ、光景。

「いらない」

 気がつくと、思わず吐き捨てるような口調になっていた。それだけ言
って水を飲もうとする弟に、兄は再度ため息をついて。

「…達哉」

 あやすように、名を呼んでくる。

「言われたことをすぐはねのけるのは、お前の悪い癖だ。食べたくない
なら食べたくないと、ちゃんと理由も言葉にして伝えなさい。そんなこ
とでは何一つ他人に理解されないばかりか、誤解を招くだけだろう?」

 いつもの説教じみた口調だったが、そこには噛んで言い含めるような、
どこか自分に言い聞かせるような雰囲気が感じられた。恐らく、昨日の
ことがまだ尾を引いているのだろうと思う。
 本当に爆弾テロ犯なのか否か、達哉ははっきりした答えを言わなかっ
た。お前を信じている、と兄は言う。馬鹿馬鹿しい。だったら、かまわ
ないでほしい。放っておいてくれればいいのに。
 心の中で嘲って、けれど表向きは兄を無視して、達哉は二階へ戻ろう
とした。その瞬間に。

 また、脳裏で炎が蘇った。踵を返した足が、思わずふらりとよろめい
た。記憶が交錯する。どこか不安定な、心と体。そう、昨日からだ。炎
の迫るあの屋上で、思い出せと花を突きつけられてからだ。

 十年前の夏。白い花。咎める口調。責める瞳。思い出せ――。

 知らない、何もしていない、思い出すことなんかない。そう思いなが
らも、頭の中で肯定している自分がいる。赤が、責めてくる。

 倒れそうになった達哉を、克哉が慌てて立ち上がって抱き止めてくれ
た。至近距離の赤いサングラスに、驚いた自分の顔が映っている。その
奥の瞳。赤い照り返し。涙。また、何かが弾け飛ぼうとする。

「…気をつけなさい」

 克哉はそれしか言わなかった。あのときはしっかりと支えてくれたは
ずの腕が、昨日と同じように達哉から離れる。離れてゆく。本当は、離
してほしくないのに。本当は、本当は。

「…大体、お前は言葉が足りないんだ」

 達哉の視線に気づいたのか、兄は新聞をたたみながら思い出したよう
につけ加えた。

「何かあったら言いなさい。目は口ほどにものを言うと言われることも
あるが、それにも限界があるだろう」

 達哉は何も言わない。ただ、じっと目の前の兄を見つめている。物言
いたげなそれに少し苛立って、克哉は思わずきつい口調で続けていた。

「他人に自分のことを伝える勇気がないのか? それは人見知りとか人
嫌いというよりも、ただの臆病者だぞ」

 ――それは、今までにも何度か繰り返されていた説教だったと思う。
 聞き飽きるほど聞いていて、そのたびに達哉は心の中で反発して無視
を繰り返していた。ほとんど日常茶飯事のはずだった。けれど、今日は
その慣れた説教にも苛立ちがつのる。

 そう、わかっている。自分は臆病者で、他人が怖くて、自分が怖くて、
心を閉ざして逃げていて、でも、それを言うなら。

「…あんただって、臆病者じゃないか。俺を…」

 低く、つぶやく。克哉が顔を上げる。言葉は、吐き捨てるように。

「俺を、抱く勇気もないくせに」

 ――空気が、一瞬にして凍りついた。

 恐ろしいほど表情をなくした兄が、無言でこちらを見つめてきた。そ
れを同じく無言で受け止めて、達哉は正面から視線を返した。ほら、何
かくだらない言い訳でも並べてみろよ。図星だったら、素直に肯定して
みせろよ。そんなことを思う脳裏に、昨日の光景が蘇る。

 あのとき自分を抱きしめてきた克哉の震える手は、どんな言葉よりも
確かなものだった。伝わってきた熱は、嘘偽りのない想いだった。受け
止めようと思った。受け止めたかった。けれど。

 臆病者。常識とかモラルとかで理由をつけて戒めても、結局自分自身
に嘘をついているだけじゃないか。

 それ以上動かなかった手と、無理やり引き剥がされた体。振り返らな
かったその背中に、何度そう罵ってやろうと思ったか。
 弟だからとか血がつながっているだとか、そんなしがらみを捨てて、
あのまま全てを壊してほしかった。身に覚えのない過去の罪よりも、も
っと逃れられない大罪を、自身に刻みつけてほしかった。そうして、堕
ちるところまで堕ちてしまえば。そうすれば、楽になれたのに。そうす
ればきっと、あの緋色の記憶も、何もかも忘れてしまうことができるの
に――。

 凍りついた空気の中で、兄の瞳がわずかにすがめられた。無表情のま
ま、何も言わず近づいてくる。思わず、後ずさる。逃げようとする両手
が捕らえられ、ものすごい力で壁に押しつけられた。そこに縫いとめら
れた手首が、鼓動で痛みを訴える。兄の唇が、ゆっくりと近づいて。

「…二度と、そういうことを口にするんじゃない」

 耳元で、言葉と感情が低く残された。無理やり抑制されたようなそれ
をそのままに、兄は踵を返し、新聞をつかんで部屋から出てゆく。階段
を昇る音が、あからさまに苛立ちを含んでいるのがわかった。

「…は…」

 痛みの残る手首に触れることもなく、達哉は壁に押さえつけられた姿
勢のまま、ずるずると床に座り込んだ。緊張が解けて息を吐くと、馬鹿
馬鹿しくて大声で笑いたくなった。怒らせたと思った。それでいい、と
思った。そうして、愛想をつかしてくれればいい。優しくて弟思いで世
話好きの兄なんか、二度と演じてくれなくていい。きっとその方が、彼
にとっても楽なはずなのだ。自分は兄が望んでいるような、少し手のか
かったりする可愛い弟にはなれない。なろうという努力もしたくない。
だから、もう、俺のことなんか。

 赤が、襲ってくる。記憶の中から、自分の内側から。揺さぶり起こさ
れようとしている過去。素直になれない、臆病な自分。理性の仮面を外
そうとしない、嘘つきの兄。――何もかも、赤に包まれて燃えてしまえ。

 冷たい床で膝を抱え、腕に顔を伏せながら、達哉は自暴自棄になりか
けた意識が、ゆっくりと緋色に飲み込まれるのを待っていた。


















 ――夢を、見た。内容は、忘れてしまった。ただ、残った消えない孤
独。一面の赤。焼きついた赤。

 誰かにすがりたくて、助けてほしくて。
 誰かを拒絶して、はねのけて。

 矛盾しながら虚しく宙を泳ぐ、自分の手も赤。炎の赤、血の赤、一面
の赤、一面の赤、一面の赤――。






赤い柵 - Rev it up -





克達だとどうも達哉が棘だらけというか
尖ってるというか。


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