夜を越えて







 誰かの笑い声がしたような気がして、達哉は現実を取り戻した。――いつの
間にか、眠ってしまっていたらしい。

 耳を澄ますと、波の音がかすかに届いた。忍び込んで、デッキの陰に身を隠
して、もうかなりたつはずだ。船は相変わらず、穏やかな海の上でその大きな
体を休めている。
 どう見ても普通の客船である日輪丸は、ちょっと中を探っただけで、それが
単なるカモフラージュであることがわかった。物々しい警備、物々しい兵士た
ち。目的の人物は船の一番奥で、これからのことを指示しているに違いない。

 夜の空を見上げると、雲ひとつない星空がそこにあった。そろそろ東から、
オリオン座が昇ってくる季節かもしれない。幼い頃友人に見せてもらった星座
盤を思い出し、達哉は少しため息をついた。――それは、「こちら側」にはあ
りえない記憶。

 ポケットの中で、ジッポーをもてあそぶ。彼からそれが受け取れなくて、け
れど染みついた癖はどうしようもなくて、自分で手に入れた物だった。「向こ
う側」ではこうしていると、何故か心が落ち着いた。けれど今鳴らしている小
さな金属音は、焼けつくような焦燥しか生み出さない。
 休むな。立ち止まるな。走って、戦い続けろ。
 内側から、叱咤する自分の声が聞こえてくる。頭を振って、歯を食いしばっ
て、剣を握り締める。わかっている。これは、罰。

「……?」

 もう一度周囲の様子を確認しようとした達哉は、ふと違和感に気がついた。
波が穏やかとはいえ、多少の揺れはある船上。さっきまで見張りの兵士がうろ
ついていたデッキに、船内から漏れてくる灯り。――静か過ぎる。
 緊張して感覚を研ぎ澄ました刹那、唐突に足元の床が溶けた。驚いて目を見
張ると、飴のように歪んだそれが無数の手と化して、自分の両足をつかんでき
た。反射的に剣でなぎ払うと、それは一瞬空気にちぎれて分解し、また形を取
って絡みついた。そのまま達哉の自由を奪い、引きずり込む。既に闇一色と化
した、海の深淵へ。
 もがいた腕が押さえられ、上げかけた悲鳴が塞がれて、息ができなくなった。
何かの体内に飲み込まれていくかのような、得体の知れない不快感。嫌悪。全
身全霊で拒絶して、そうして気がつくと。

「そうだ、一人で戦い続けるがいい」

 目の前に、自分の姿があった。否、自分であって自分でない存在がいた。傲
慢に達哉を見下ろして、唇に笑みを刻みながら、歌うように言葉を紡ぐ。

「この世界が滅びの道をたどっているのは、全てお前の弱さのせいだ。孤独が
辛くてそう願ったのに、その尻拭いのためにお前はまた一人であることを余儀
なくされている。…似合いの罰だろう、周防達哉?」

 ぐいと顎がつかまれて、至近距離で視線が交錯した。奥底に冷たい炎が浮か
ぶ、金色の瞳。そらさず、達哉はにらみつける。おもしろそうに、彼が目を細
める。

「…怒れ、そして憎むがいい。それが私の力の源、私の遊戯、私の快楽…」

 彼は笑いながら、不意に唇を重ねてきた。驚いてはねのけようとするが、ま
た闇から無数の手が生まれて、達哉の抵抗を封じた。

「走って戦ってそうやって足掻いて、絶望に歪んだ顔を見せてくれ。…お前は、
私の玩具なのだから」

 嘲笑しながらささやかれ、それでも達哉は彼をにらみ続けた。怒りも憎悪も
なく、ただ、静かに。彼は更に笑い、愛おしげに頬を撫でてきた。

「その虚勢がいつまでもつか見ものだな。待っている、早くここまで来い。お
前と、お前のかけがえのない存在の目の前で、お前自身の弱さをたっぷりと知
らしめてやる」
「…っ!」

 再度唇が塞がれ、思いきり噛みつかれた。走った痛みに、声が喉の奥で凍り
つく。血がにじんで、流れ出すのがわかる。彼はそれをゆっくりと舐めて。

「…お前には、休む暇などないはずだろう?」

 嘲笑を残したまま、彼の姿が不確かになってゆく。同時に達哉の自由を奪っ
ていた無数の手も、闇に紛れて溶けてゆく。けれど、動けない。見えない何か
に金縛りにあったかのごとく。残される笑い声。刻まれた痛み。

 ――憎悪を抱けば抱くほど、彼の力は増してゆく。わかっている、わかって
いるけれど。

 自分の内で激しく暴れ回る感情を抑えて、達哉は闇に目を閉じていた。








 ――目が覚めると、何が現実で何が夢なのか、一瞬わからなくなった。

 けれど近づいてきた兵士の足音に、達哉は今度こそ現実を認識して、息を潜
めて気配を殺した。兵士は達哉に気づかず、通り過ぎてゆく。
 暗い、船の上。ここまで全速力で走ってきたせいで、疲労は癒せず増すばか
り。知らずうたた寝をして、夢から覚めて、また夢の世界に落とされていたよ
うだ。思わず床の硬さを確かめて、達哉は剣を握り締めた。
 交代の時間だったらしく、見張りがデッキを巡回してゆく。それを目で追い
ながら、達哉は自戒した。

 そうだ、自分に休む暇などない。――眠ることすら、許されない。

 兵士が姿を消したら戦闘開始、そう自分でタイミングを計りながら、達哉は
慣れた感覚にふと振り向いた。
 まだ遠い、海の向こう。こちらに近づいてくる、あの共鳴。
 少し、ため息をつく。関わるなと言った、それを彼女がおとなしく守るとは
思っていない。けれど。

 ――心が、悲鳴を上げ始める。

 目を閉じて、葛藤に耐えて、達哉は再度瞳を船内に向けた。進まなければな
らない、走らなければならない、戦わなければならない。もう二度と、繰り返
さないために。
 ふと血の味がして、無意識に口元を拭う。手の甲がぬるりと血で濡れたのを
振り払い、再度固く剣を握って、達哉は地を蹴っていた。

 ――笑い声が、聞こえたような気がした。




―All through the night―





ニャル達風味。
仕方ないですが、達哉中心に罰話を書くとどうも暗い。




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