痛みを感じた。

 正確には、痛みではなかった。空気が弾けるような、静電気に似た衝撃。

 反射的に左腕を押さえて、カイトは後方へ飛び退っていた。目の前の幼馴染はこちらに手を伸ばしたまま、きょとんと目を見開いている。何が起きたのかわからないといったように。

「……ルー、ク?」

 思わず呼びかけると、彼はぱちぱちと瞬きをした。やがて盛大に吹き出して、大声で笑い始める。

「カ、カイトってば、今の!」
「……あ?」

 やはり何か企んでいたのか、最初から危害を加えるつもりだったのか。そんなことを思ってしまっただけに、カイトは突然の爆笑に虚を突かれた。

「何、今のジャンプ! びよんって音がしたかと思うくらい、すごかったんだけど!」
「……」

 身体を折り曲げて大笑いするルークを、カイトはしばらく呆然と見つめた。逃げた自分の反応が面白かったらしいが、これほど無邪気に笑えるということは、どうやら何故逃げられたのかわかっていないようだ。あるいは、己の単なる錯覚だったのか。

 眉根を寄せて、押さえていた左二の腕を撫でてみる。微弱な電流が走ったような、妙な感覚は既に消えている。確かに、その瞬間は痛みだと認識した。だから柄にもなく、大げさに飛び退いてしまったわけだが。

「そんな、爆笑するようなことかよ……」
「だ、だって……!」

 独り言を拾って、ルークはまだ笑っている。心底おかしそうなその様子に、まあいいかとカイトは嘆息した。

 ルート学園へ続く道を並んで歩きながら、今日買ったパズル雑誌の話をしていた。ことパズルとなると夢中になりすぎて周りが見えなくなってしまう、その自覚はカイトにもある。だからこそいきなり上腕に手を伸ばされたら、何事かと驚くのも当然ではないだろうか。

「ごめんね。ちゃんと、断ってからにするべきだった」

 ため息を吐いているカイトに、ルークは屈託のない笑顔で首を傾げてみせた。

「改めて、触ってもいいかな」
「……なんだ、それ」

 力なく突っ込みながらも、カイトは内心で戸惑った。軽い口調とは裏腹に、縋りつくようなルークの視線。深みのある蒼い目が、まっすぐカイトの左二の腕を見つめている。つい先日まで、金色の腕輪があった場所だ。

「別に……いい、けど」

 目を逸らして、カイトはぶっきらぼうに言った。よくわからないが、触れることで何かを確かめたいのかもしれない。ルークが安堵の表情で、ありがとうと呟くのが聞こえた。

 先日のパズル対決の最中に、あの腕輪は弾けて消えてしまった。とはいえ失われたことに対して、カイトは特に何の感慨もない。むしろ勝手に自分を選び勝手に脳を弄んでくれた厄介者で、壊れて清々したと思うほどだ。だが、ルークは。

 腕輪が弾けた瞬間の、彼の絶叫が蘇る。もしかすると、ルークは強い執着を抱いていたのかもしれない。腕輪と、それを持った大門カイトに。

「……こうして見ると、本当に君が腕輪の契約者だったのかどうかすら、わからないね」

 ルークがどこか淋しそうに言った。それなりに長い時間はめられていたはずの左腕には、日焼けなどはもちろん、他に何の痕跡も見当たらない。それはあの腕輪が人智を超えたものであり、常軌を逸したものであるからだろう。

 そりゃそうか、とカイトは恐る恐る手を伸ばすルークを見た。彼は右腕に同じ腕輪を持っている。神のパズルに至る資格、黄金比の頭脳である証拠。長い前髪の奥に隠された左目は、今も赤く輝いているに違いない。

「お揃い、だったのに」

 小さな呟きと共に、ルークがそっと腕に触れた。一瞬身体を強張らせたカイトだったが、先ほどのような衝撃はない。やはり、気のせいだったらしい。

「お揃いって、お前……」

 呆れると同時に苦笑して、カイトは口角を引きつらせた。お揃いの腕輪なんて、女子供じゃあるまいし。そう思ったが、時折ルークの心は子供の頃のまま、時間が止まっているのではないかと感じることがある。九年前のイギリス。カイトとルークと、それからジンとパズルが全てだった頃。

「お揃いだよ」

 ルークが重ねて断言した。なんだよとまた笑おうとしたカイトは、見上げてくる強い視線に射抜かれた。思いがけない至近距離に驚いて、知らず半歩後退する。

「逃げないで」

 懇願するような声が、下がりかけた足を凍らせる。左腕に触れていた手が、今度は頬に伸ばされる。

「触らせて」

 触るって、どこを。

 疑問を口にする前に、カイトはその答えを悟った。あくまでも優しく、ルークの手が両頬を包み込む。人差し指と親指が、やや強引に瞼を押さえて―――右目だ。

 お揃いだったという彼の言葉は、腕輪だけを示しているのではない。その力の作用で緋色に輝く、片目のことも同様に。

「やめっ……」

 まさか、指で目を触る気か。頬を固定されたまま、カイトは戦慄に身を捩ろうとした。逃げないで、とまたルークが囁く。お願いだから、少しだけ。

 真剣なルークの顔を、ゆっくり近づくその唇を、カイトは呆然と見つめるしかなかった。本気で逃げようと思えば振り払えるのに、魅入られたように動けなかった。やめろという拒絶の言葉も喉で絡まって、刹那。

 視界が遮られた。目にぬるりと熱いものが触れて、全身が総毛立った気がした。眼球を舐められている。ルークの舌で。

「う、わ」

 それに気づいた瞬間、カイトは今度こそ飛び退いていた。濡れた粘膜同士の接触は、寒気に似た感覚を連れてくる。慌てて右目を強く擦り、這い上がる熱を上書きしようとするが、柔らかな舌の感触は消えてくれない。

「なっ、な、何っ、何してんだよっ!」
「え、だって」

 恐慌状態に陥るカイトとは対照的に、ルークは不思議そうにこちらを見るだけだ。

「だって、指で触ったら爪とかで傷つけちゃうと思って」
「だだだだからって舐めるか舐めねーよマジで舐めねーだろフツー!」
「嫌だった?」
「い、嫌とか、そういう問題じゃ……!」

 噛み合わない会話と悲しそうなルークの顔に、カイトは自分の方がおかしいのかと思ってしまった。いや、そもそも目を触りたいと思うこと自体おかしくないだろうか。更に妙な方向へ気遣って、舌でそれを実践するなど。

「血の味がするかと思ったんだけど、そうでもなかった」

 まだ目を擦っているカイトの横で、ルークは無邪気に微笑んでいる。

「少し、残念だな。僕は君の、鮮血を思わせるあの赤い目が好きだったのに」
「なん、だよ、それ……!」
「カイト」

 ルークは穏やかに言葉を遮ると、西の空を指してみせた。傾いた太陽が、街を茜色に染め始めているのが見える。青に混じるオレンジ色と、黄昏へ向かうグラデーション。

「君の右目は、本当に綺麗だった。僕の左目より、あの夕陽より、ずっと赤くて、ずっとずっと綺麗……」

 ひとりごちるルークの表情は恍惚に緩み、夕焼けのせいか静かな狂気を滲ませている。急に遠く思えた幼馴染に、カイトは強く首を振った。荒廃した未来の映像が重なる。誰もいない灰色の世界と、独り佇む彼の姿が。

「っ……!」

 暴走しかけた幻は、ポケットの中の球体を握ることで消えた。幼いルークが自分のために作ってくれた、手のひらサイズの組み木パズル。伝わるほのかなぬくもりが、気分を和らげ落ち着かせてくれる。

 そうだ、とカイトは詰めていた息を吐き出した。離れていた九年の間に、何があったのかは知らない。だがこのパズルに込められた優しさは、根底にある素直な想いは、決して嘘偽りなどではないはずだ。

「カイト?」

 呼びかける声に、カイトははっとして顔を上げた。いつの間にか少し先を歩いていたルークが、こちらに手を差し伸べている。

「ほら。図書室、行くんでしょ?」

 そう言って促す屈託のない笑顔は、よく知る子供のときと変わらない。間違いなく残っているその面影に、カイトは少しだけ口元を緩めた。

 いつも、一緒だった。何かあれば、自分がルークを守るのだと思っていた。全てが楽しくて、全てが輝いていた頃。かけがえのない、大切な記憶。

「……ああ。そうだな」

 もう一度、ポケットの中で組み木パズルを握り締める。大丈夫だ。自分たちはきっと、あの頃の関係に戻ることができる。同じ思い出を共有しているのだから、この先も同じように、必ず。

 まだ熱が残る右目を再度擦ってから、カイトは足を踏み出した。伸ばされた手を繋ぐことはしなかった。何を考え何を欲しているのか、互いに理解し納得できたときにこそ、その手を取るべきだと思った。











アシンメトリー
20120424UP


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