ふと鳴り響いたドアチャイムの音に、カイトはパズル雑誌から顔を上げた。 いつの間に降り出していたのか、外からは静かな雨音が聞こえてくる。時刻は二十三時過ぎ。押し掛け癖のあるノノハなら、チャイムを鳴らすなどという他人行儀なことはしないはずだ。こんな時間に誰だろう。 「ったく……」 ペンを机の上に置いて、ため息混じりに玄関に向かう。がしがしと髪をかきながらドアを開けたカイトは、そのままの姿勢で固まった。そこには、白い髪と青い目の少年が立っていたのだ。雨のカーテンを背景に、全身ずぶ濡れの姿で。 「あ……よかった」 驚いて絶句しているカイトに、少年はほっとしたように微笑んだ。 「もし留守だったら、どうしようかと思ってた」 「……ルーク!」 そこでカイトは我に返り、慌てて彼を招き入れた。ドアを閉めて、雨音と冷たい空気を遮断する。予想外の来訪に驚きすぎて、一瞬思考が停止してしまった。 「来るんだったら連絡しろよ! てか、帰ってきてたのかよ!」 POGの一件が落ち着いた後、ルークは部下を伴って世界を巡る旅に出ていた。旅先からメールや絵葉書をもらったことはあるが、あれから直接顔を合わせるのは初めてだ。なんだかものすごく久しぶりのような気がして、カイトは笑顔で彼を歓迎した。 「あれ、ケチャップとかいう奴は? 一緒じゃないのか?」 「一人で来たんだ。ちょうど、近くに寄ったものだから」 「そっか、ってちょっと待て、タオル取ってくるから!」 まあ上がれよと促しかけて、改めてルークがずぶ濡れであることに気づいた。いつもよりボリュームの減った髪から、ぽたぽたと水滴が落ち続けている。そんなに土砂降りだったのか、というか傘を持っていなかったのだろうか。 「あの……突然来ちゃってごめん。迷惑、だったかな」 「んなわけねーだろ」 洗面所からバスタオルを持ってきたカイトは、どこか所在無げなルークの頭にそれを被せた。乱暴に拭いてやりながら、冷え切った彼の体温に眉根を寄せる。一体どれほどの間、雨に打たれてきたのだろう。 「なあ、これ絶対風邪ひくぞ。とりあえず着替えて、服乾かして……そんで時間あるんだったら風呂入ってあったまって、ついでに泊まってけよ。もう夜も遅いしさ」 提案すると、ルークは少し目を丸くした。すぐ申し訳なさそうな笑顔になり、ありがとうと呟いて。 「本当に、ごめんね。君に会いたかったし、せっかくだから朝まで一緒にいたいって、確かにちょっと思ったりもしたけど……決してそんなつもりじゃなかったんだ。急に雨が降ってきて、でも傘も何も用意してなくて」 「ああいいって、気にすんな」 まるで懺悔するかのようなルークの言葉を、カイトは明るく遮った。彼は旅に出る直前まで組織のことで忙しく、二人でゆっくり話す暇もなかった。いい機会ではないか。 「ほら、とりあえずシャワー浴びとけ。使い方わかるか?」 風呂はさっき使ったばかりだから、すぐに入ることができるはずだ。着替えは自分の服でも大丈夫だろうか。そこまで背丈に差があるわけではないから、サイズに問題はないと思うのだが。 考えながら新しい着替え一式を用意して、曖昧に頷くルークを浴室に押しやる。なんだか幼い弟の世話でも焼いているかのようで、カイトはこっそり笑ってしまった。 思い返せば、子供の頃もこんな感じだった気がする。いつも自分が先頭に立って、ルークの手を引っ張っていた。あの教会の迷路で迷ったときも、そこで知らない大人―――ジンに出逢ったときも、真っ先にルークをかばって守ろうとしていた。幼い自分にとってルークは唯一の友人であり、失うわけにはいかない庇護対象だったのだ。 懐かしく思い出しながらルークを見送り、途中だったパズル雑誌に向かう。どれもそれなりに楽しめる問題ばかりだが、彼ならこれをもっと面白く、難しいパズルにしてくれるかもしれない。そんなことを考えて、カイトはまた一人笑った。 「……カイト?」 「おー、あったまったか?」 やがてルークが浴室から出てくると、先ほどよりも随分と顔色が良くなっていた。結局パズルを全て解き終えていたカイトは、ほっとして椅子から立ち上がる。ちゃんと髪も乾かせという命令を守ったらしく、白い髪はいつもどおりふわふわと揺れている。 「頭、復活したな。やっぱりルークはこのもこもこ頭じゃねーと」 「カイトだって、いつもぼさぼさ頭だ」 「うるせーよ」 温まることで落ち着いたのか、ルークは表情も口調も穏やかだ。軽口の応酬に笑い合って、カイトはキッチンに向かった。 「何かあったかい飲み物淹れようか。腹は減ってないか? といっても大したもんねーけど」 「あ。同じだね、カイト」 「へ」 意味を取りかねて振り返ると、いつの間にか背後にいたルークが、嬉しそうな笑顔でこちらを見ていた。そのまま無造作に伸ばされた手が、カイトの髪を優しく撫でてゆく。側頭部で跳ねている一房から、ヘアゴムで束ねた襟足の方へ。 「髪。カイトと僕から、同じ香りがするなって」 「……あ、ああ」 突然の接触に戸惑っていたカイトは、そういうことかと納得した。何がそんなに嬉しいのかと思ったが、ルークが本当に幸せそうに笑っているので、深く突っ込まないことにする。 「同じシャンプー使ったからだろ。俺もさっき風呂入ったとこだし」 「うん。……いい匂いだ」 「うお!?」 呟きと共にルークが正面からもたれてきて、カイトは思わず驚きの声を上げた。抱きしめられるというよりも、寄りかかられるような格好だ。とっさに後ろのシンクについた手で、二人分の体重を支えることになる。 「ル、ルーク?」 なんだどうしたと声を掛ける間もなく、ルークが首筋に鼻先を埋めてきた。そこで深呼吸する気配を感じ、改めて匂いを嗅ぐ必要はないだろうと脱力する。なんだか、大型犬にじゃれつかれている気分だ。 「おい、ルーク」 不快感や嫌悪は感じないのだが、とにかく肌をくすぐる髪や、耳に触れる吐息が落ち着かない。いい加減離れろとばかりに肩を押そうとすると、それより早く背中に両手が回って固定された。カイト、と静かに呼びかけられる。 「カイトは、優しいね」 「……なんだよいきなり」 ぽつりと落ちたルークの声は弱々しく、どこか震えているようにも聞こえる。カイトはどうしていいのかわからずに、とりあえず子供をあやし宥めるかのごとく、彼の背中を軽く叩いてやった。 「なんかよくわかんねーけど、どうかしたのか?」 「ううん……大丈夫。ただあまり優しくされると、甘えてしまいたくなるよね」 ふふ、と耳元でルークの笑う気配がした。なんだか自嘲が混じっているような、皮肉が込められているような、そんな笑い方にカイトは違和感を覚える。 「ねえカイト」 「ん?」 「キスしていい?」 「キ……は!?」 思いきり聞き返したカイトに、ルークはおかしそうに喉を鳴らした。その振動がくすぐったくて逃げようとするが、許されず強く抱きしめられてしまう。 「ごめん嘘。でもちょっと本気」 「どっちだよ!」 「あはは。せっかくだし、少しだけならいいよね」 「いや何がせっかくなのか意味わかんねーし、ってうわ」 唐突に首に押しつけられた熱を感じて、身体が勝手にびくりと跳ねた。耳の後ろの髪の生え際。本当にキスされた。 「おい待てマジかよ、つかキスってそこかよ!」 慌てて身を捩って仰け反ろうとするが、背後にはシンクがあってそれ以上後退できない。少しだけ離れたルークの目が、真剣な光を宿して見つめてくる。 「じゃあ、どこならいい?」 「ど、どこって」 「ねえどこならいいの、カイト」 そういう問題じゃないだろうと絶句している間に、ルークの顔が視界から消えた。先ほどと同じ感触が、今度は耳朶に落とされる。 「わ」 「ここも駄目?」 押しのけると、淋しそうな視線とぶつかった。捨てられた子犬のような表情に、カイトは強く拒絶することができない。 「……駄目なの? 嫌?」 重ねて問われて、言葉に詰まる。絶対に嫌だというほどではない、と思う。だがだからといって、この状況はおかしくないか。 「嫌だったら、やめるから。本気で僕を止めて」 「待っ……ルーク!」 「僕を殴って、もう二度と顔も見たくないって、部屋から追い出してよ」 「そ……」 そんな言い方はずるくないか。決定権を委ねると見せかけて、その実断れないよう誘導しているだけではないか。言いかけた反論が、また首筋に落ちたキスのせいで曖昧になる。濡れた熱がそこを這い上がる。叱咤する理性も、甘く痺れ始めてままならない。 「お前、ずるい、ぞ……」 「うん、知ってる」 あっさり肯定したルークが、瞳を覗き込むようにして微笑んだ。 「だから言ったんだ。カイトは、優しいねって」 言い終わると同時に、やや強引に唇で唇を塞がれた。まだ降り続いているらしい雨音が、遠い世界の出来事のように聞こえた。 「カイト。僕はずっと、君が僕の隣にいてくれればそれでよかった」 雨だれのように淡々と、ルークの独白が肌に落ちる。 「君以外は何もいらなかった。本当に、君だけでよかった。だからあんな過ちを犯してしまったというのに、今でも時折、僕は君が欲しくてたまらなくなる。それはいまだに、君しか必要ないと思い込んでいるからなのかな。僕はまだ、狭すぎる僕の世界から抜け出せていないのかな。そう思うと、不安になるんだ。余計に君が欲しくて、仕方なくなるんだ。今日みたいに。今みたいに……」 胸元でうなだれる白い髪を撫でてやると、湿った感触が纏わりついた。先ほどのシャンプーの香りは、汗の匂いに上書きされてしまっている。もう一度風呂に入った方がいいかもしれない。 ぼんやりと考えながら、カイトはルークの髪を撫で続けた。次第に瞼が重くなって、何もかもが億劫になってくる。冷えてきた汗も、中途半端に脱がされた衣服も気持ち悪いのに、身体が言うことを聞いてくれない。床に転がされた背中が痛い。寝るならちゃんとベッドで寝たい。 「好きなんだ、カイト。君のことが好きで、好きで、好きだから、こんな」 顔を上げたルークの、青い瞳が至近距離で揺れる。その頼りない表情や声は、なんだか泣き出す寸前のようだ。そう思ったカイトは、無意識に微笑を浮かべていた。泣くなよという意思表示だったが、伝わったかどうかわからない。ルークが一瞬息を呑む。 「……カイト、君は」 深いため息は、まるで責めるかのごとく。 「優しすぎて、ずるい」 ―――ずるいのはお前だろ、ルーク。 縋りつく身体を受け止めて、もう一度笑ってやる。言い返そうとした揶揄は、最後まで言葉にならなかった。
優しい雨 |