第二美術室を訪れたカイトは、あくびを噛み殺しながら後ろ手にドアを閉めた。 部屋は薄暗く、静かで人の気配もない。開け放たれた窓の外では、そよ風に木々が揺れている。油絵のかすかな匂いが気になる程度で、昼寝にはもってこいの場所だ。 もう一度あくびをして、カイトは窓際の大きなソファに寝転んだ。昼休み終了を知らせるチャイムが、ひどく遠いところで鳴っている。 昨夜遅くまでパズルを解いていたせいで、朝からずっと睡魔と戦っていた。先ほどの昼食後に限界が来て、耐えられず午後は勝手に休むことにした。保健室、屋上、食堂のテラス。サボり場所の候補はいくつかあるが、誰かに見つかるとうるさくて厄介だ。ゆえにカイトは一番誰も来ないだろう場所、第二美術室を借りることにしたのだった。 ここの主であるアナは、食堂のテラスで何やら妙なオブジェを作っていた。一応許可は取ったのだが、彼がちゃんと聞いていたかどうかは定かではない。まあいいか、とカイトはため息を吐いた。あの調子だと、しばらく戻ってこないだろう。 ソファの上で寝返って、天才テラスに集う面々の、毎日のように繰り返される騒ぎを思い出す。ギャモンは相変わらず馬鹿で見栄っ張りだし、キュービックは脳波脳波とうるさいし、アナは終始マイペースだし、ノノハはそんな彼らを呆れ顔で見守ってくれていた。勘弁してくれと思いながらも、カイトは自分がその中心にいることに気づいていない。 口元を緩めて、目を閉じる。もう一度寝返ると、すぐに眠りが落ちてきた。あっという間だった。 人の気配で、意識が浮上した。しかも、ものすごく至近距離で。 少し前から、小さな話し声は聞こえていたのだ。気遣うような囁きと、鳥のさえずりと、それから。 「ん……」 鼻の頭を走るくすぐったさに、カイトは小さく呻いた。ふわふわとした何かが、何故か眉間に向かって移動してゆく。眉を辿って頬を滑り、そのまま首筋からうなじへ―――。 「う、ぎゃああああっ!?」 そこでカイトは思わず跳ね起きて、得体の知れない何かを反射的に振り払っていた。寒気に似た感覚が走ったからだが、予想外に目が合ったのは、きょとんとした顔のアナだ。 「ああああアナ!?」 「おはよーカイトー」 知らず身構えていたカイトに、アナは右手を挙げて挨拶をした。その手に握られている絵筆を見て、カイトはぶるぶると頭を振る。さっきの感覚はあれに違いない。 「な、何勝手に描いてんだ!」 慌てて顔を擦って確かめるが、絵具で汚れた様子はない。よく見ると筆に色はついておらず、どうやら人の顔をキャンバスにしていたわけではないらしい。 「だってカイト、起こしたら機嫌悪くなるかなって」 「いや、起こしたじゃねーか……」 脱力すると、アナはのんびりと微笑んでみせた。 「だからパズルのことで起こせば大丈夫かなって!」 「パズル?」 絵具なしとはいえ何か描いていたようだから、それがパズルになっているということだろうか。筆の軌跡を思い出そうとするが、半分寝ていたため曖昧だ。首を傾げたカイトに、アナは無邪気に宣言した。 「では今から、カイトの顔にナンプレ問題を描きまーす」 「今からかよ!」 パレットを引き寄せて、アナは黒のチューブ絵具を出している。相変わらずマイペース極まりない。 「うん。さっきのは練習ー」 「ああ練習、じゃなくてなんでわざわざ顔!」 一瞬納得しかけたカイトは、慌てて突っ込んだ。ナンプレなら、別に普通のキャンバスでも事足りるはずだ。アナはにこにこと笑って。 「顔だと、カイトは自分じゃ見えないでしょ? 鏡に映った問題を解くことになるから、題して鏡像ナンプレ!」 「……な、なるほど?」 それは一味違ったパズルかもしれない。そう思っていると、アナが無造作にソファに乗り上げてきた。思わず仰け反ってしまったカイトに構わず、筆ではなく指先に絵具を取る。 「さっき練習してみて、筆を使わない方が描きやすいってことがわかったんだな」 「え」 「カイト、じっとしてて?」 言うが早いか、右頬にアナの指が触れた。その感触と絵具の冷たさ、何よりも近すぎる距離に、カイトは思いきり動揺してしまった。 澄んだ鶯色の瞳と、羽のような睫毛。長い髪がふわりと、カイトの肩に落ちて揺れる。 アナが男だということはわかっているが、見た目は完全に美少女なのだ。馬乗りで押し倒され触れられているこの状況は、落ち着かないことこの上ない。 「っ……」 とにかく、パズルができるまでの我慢だ。息を呑んでやり過ごそうとしたカイトは、ふとアナの手が止まったことに気がついた。 「……カイト」 「な、なんだよ?」 呼びかけたきり、アナは瞬きを繰り返している。カイトがわざとぶっきらぼうに促すと、みるみるうちに顔を輝かせて。 「可愛い! 猫さんみたいー」 「は? 猫?」 「おひげー!」 どうやらナンプレの枠として描こうとした線が、途中で猫のひげに似たものになったらしい。何がそんなに楽しいのか、アナは嬉々としてカイトの顎を押さえてきた。 「こっちのほっぺたにも描いたら、カイトも猫友なんだな!」 「ネコトモって、猫じゃねーし!」 「うにゃん? にゃんにゃん!」 「猫語!? 全然わかんねーし!」 必死で顔をそむけようとするも、抵抗むなしく絵具を載せた指が何度か滑る。はい、とアナに渡された手鏡を見て、カイトは大きく嘆息した。両頬に黒で描かれた、揃いの三本線。ああ確かに猫だ、猫だけれども。 「ナンプレ描くんじゃなかったのかよ……」 「おーそうだ、何か足りないと思ったら! 猫の耳と尻尾!」 「ちげーよ! そっちかよ!」 「今すぐ演劇部から借りてくるんだなー」 「借りてくるのかよ!!」 「カイト、きっと似合うんだな!」 部屋の隅で鼻歌交じりに手を洗っているアナは、既にナンプレのことなど忘れてしまったかのようだ。あまりにも話を無視してくれる彼に、カイトは盛大に脱力する。このマイペースっぷりこそ、アナがアナたる所以でもあるのだが。 「それじゃーカイト」 もう猫友でもなんでも、最終的にパズルができればそれでいい。そんな諦めの境地でソファに座り直すと、ふいにアナの手が近づいて。 「アナが帰ってくるまで、良い子にして待っててね?」 言って、優しく頭を撫でられた。手は耳を経て喉をくすぐり、まるで、本当に猫をあやすかのごとく。 「な……」 言葉を失ってしまったカイトは、ぱくぱくと口を動かすしかない。何か言おうとして何も言えないでいる間に、アナは手を振りながら出ていった。 「だっ……だから」 誰もいなくなった部屋で、カイトは辛うじて声を絞り出す。 「俺は、猫じゃねえって……!」 猫扱いされたからか、その手が一瞬でも心地良いと思ってしまったせいか。自分でもわからないまま、カイトは頬が熱くなってゆくのを感じていた。
猫友の午後 |