それを発見したとき、狛枝は驚いて立ち止まってしまった。

 ストロベリーハウスの二階、階段の横。手を伸ばすような格好で、誰かがうつ伏せに倒れている。シンプルな白いシャツと、特徴的な髪型は間違いない。

「……日向クン?」

 呼びかけると、うう、と小さく呻く声が聞こえた。

(日向クンが行き倒れてる……)

 とりあえず死体ではないことを確認して、苦笑する。彼の体勢は不自然に床を掻くようで、行き倒れたという表現がぴったりだ。なんでこんなところで、と狛枝は首を傾げた。

 周囲には他に誰もいない。赤い床や壁を、赤いイチゴ模様の映像がただ流れてゆく。ずっと眺めていると本物のように見えてきて、もしかして、とうつ伏せの日向に視線を移した。

(もしかして日向クン、このイチゴの絵を食べようとして力尽きたのかな。食べられるわけないのに……まあ、気持ちはわかるけど)

 知らず笑みを堪えながら、切なげに鳴く自らの腹を押さえる。意識したせいか、空腹が一気に耐えがたいものになる。軽い眩暈に、大きなため息が零れた。

(仕方ないよね、もう何日も何も食べてないんだし。他のみんなもそろそろ限界だろうな。ボクもだけどさ)

 誰かが誰かを殺さなければ、このストロベリーハウス及び隣のマスカットハウスからは出られない。出口はないし、探索にも飽きた。何よりも食べる物がなく、どうあがいてもじり貧であることは明らかだった。

(でも今のみんなに、人を殺せるような気力と体力が残っているのか疑問だよ。いつもしっかりしてる日向クンだって、この有様なんだし)

 動かない日向を見下ろして、狛枝はぼんやりと考えた。餓死の場合、犯人はどうなるのだろう。それでも裁判が行われるのだとしたら、とんだ茶番ではないだろうか。

(こんなところで倒れるくらいなら、日向クンもボクに相談してくれればいいのに。キミの希望のために完璧な計画を立てて、喜んでキミに殺されてあげるのに)

 内心で不満を並べ立てている間にも、次第に目の前が狭く、暗くなってゆく。立っているのが辛くなるほどの、また眩暈。

(はあ、お腹減ったな。体に力が入らない。水はあるからそう簡単には死なないだろうし、こういう不運にも慣れてはいるんだけど、改めて食べることの大切さを思い知るよね)

 体だけではなく、頭もうまく働かなくなっているようだ。首を振って、再度嘆息する。

(旧館に監禁されたときも、似たようなこと思ったっけ。あのときは、日向クンが朝食を持ってきてくれたんだった。食べさせてくれなかったから、這いつくばってパンをかじるしかなくて)

 記憶を辿ると、トーストの香りと味が脳裏に蘇った。空っぽの胃が刺激されて、狛枝は頭を抱えたくなる。

(まいったな、思い出したら食べたくなってきちゃった。トーストかあ。ふわふわのパンにマーガリンとジャムをたっぷり。ああ、イチゴジャムがいいな。美味しそう)

 床と壁の絵が、先ほどよりみずみずしく鮮明に見えてくる。舐めるように動く赤い果実を追って、狛枝は倒れている日向に再び目を止めた。彼の下にも流れる、赤い影。

(イチゴ。美味しそうなイチゴ。ううん違う、あれは単なる絵で食べ物じゃない。……あれ? だったら、日向クンは?)

 ふいに浮かんだ思考に、狛枝は思いのほか捕らわれた。何度か瞬きをしてから、改めて文章を組み立ててみる。

(イチゴは絵だから、食べられない。日向クンは絵じゃないから、食べられる?)

 単純すぎる論理が本能を揺さぶり、食欲を誘惑する。そうだ。彼は平面に描かれた幻などではない、確かに形として存在するものだ。

(食べられる……かな。食べられるよね。イチゴの絵よりは現実的だよね。日向クンはヒトだし、ヒトも動物なんだから、食べられなくはないよね?)

 半袖から伸びる健康的な腕に、知らず目が惹きつけられる。シャツの襟や髪の間、少しだけ覗くうなじと耳にも。

(食べたいな。食べてみたいな。ああでもひょっとしてヒトって、硬くて美味しくないのかな。確かに手や脚は硬そうだけど……そうか、だったら柔らかい部分を探せばいいんだ)

 思いつきのまま、狛枝は足で彼の身体を引っくり返してみた。目を閉じたまま力なく転がる様子は、完全に気を失っている証拠だ。

(日向クンは意外と筋肉質っぽいから、硬い上に筋が多いかもしれない。二の腕はどうだろう。太腿とか、お腹とか? どこが一番柔らかいかな。でもいくら柔らかくったって、今のボクに肉を食いちぎるような元気は残ってないし、なによりボクみたいなゴミ虫が日向クンを傷つけるなんて……ああでも味見。味見だけなら、許されるよね?)

 自分なりに言い訳を探りながらも、狛枝の視線は忙しなく日向の上をさまよう。捲り上がった裾の脇腹や、きっちりと締められたネクタイの首。青ざめた顔、皺の寄った眉根、伏せられた瞼。

(あ。そういえば、聞いたことがある。鳥が人の死体をついばむとき、真っ先に柔らかくて食べやすいところを狙うんだって)

 そう、目と。

(……唇)

 誘われるようにしゃがみ込むと、鼓動が大きく跳ねた。壊れ物に触れるかのごとく、そっと日向の顔に手を伸ばしてみる。頬を軽く撫でてから、薄く開かれた唇の端へ。

(赤。イチゴと同じ色だ。柔らかそう。食べたら甘いかな)

 吸い寄せられて上半身を傾けるだけで、そのまま倒れてしまいそうだ。耐えられず床についた手のひらから、冷たい感触が伝わった。指のすぐ横を這ってゆくイチゴの絵。つかもうとしてもつかめず、手は虚しく空を切る。

 やはり、こっちのイチゴは食べられないのだ。単なる絵で、実体のない幻。そう考えると、今触れている体温が限りなく愛しいものに思えてくる。

(唇。柔らかくて、甘そうなイチゴ。ねえ日向クン)

 彼も空腹に耐えかねて絵を食べようとしたのなら、自分だけ味わうのは申し訳なくないだろうか。気がついて呼びかけようとするが、結局声にはならない。

(ねえ、ボクが先に食べちゃうよ。唇。イチゴ。お腹減った。食べたい。食べたい)

 純粋な欲望に従って、ゆっくりと顔を近づけてゆく。鼻が邪魔にならないよう角度を変えて、両腕で精一杯自分の体重を支えて。

(赤。イチゴ。唇。美味しそう。日向クン。食べないの?)

 何がしたいのか、何をしようとしているのか、自分でもよくわからなくなる。取り留めのない単語がぐるぐる回る。日向クン。イチゴ。日向クン。唇。食べて、いいよね。

 優しく食んでみたイチゴは柔らかく、陶然として脳髄を刺した。無意味に流れる映像より、トーストに塗ったジャムより、それは果てしなく甘美で極上の果実に思えた。

(ああ、ボクだけ食べちゃずるいよね。日向クンも一緒に食べようよ。ボクをあげるから)

 応えて身じろぐように、イチゴが逃げる。追いかけて捕まえて、少しだけ歯を立てる。また逃げられる。

(どうして逃げるの、日向クン。ボクがキミを食べる代わりに、キミにもボクを食べてほしいんだ。交換しようよ。食べ合えばいいんだよ。イチゴだよ)

 舌で割って裏側を舐めて、溢れる果汁を吸っては味わう。やはり逃げようとするイチゴを無理に押さえつけると、小さな呻き声が零れ落ちた。

(そうだ、いっそ逃げられないように摘み取って閉じ込めて縛りつけてどろどろのジャムにしてしまえばいいのかな)

 ねえ日向クンお腹すいてるでしょ、キミもボクを食べてよ困ったときはお互い様だよ日向クンほら食べようよイチゴだよ甘くて美味しいよ食べさせてあげるよねえ日向クン美味しいね日向クン日向クン日向クン日向クン。

 呪文のように繰り返しながら、夢中で貪り続ける。本来の飢えを忘れてしまうほど、それは穏やかに満たされた幸福だった。









 息苦しさに重い瞼を持ち上げると、覗き込む狛枝と目が合った。彼は何故かひどく興奮した様子で、うっとりとこちらを見下ろしている。

「ああ、日向クン。イチゴ、美味しいね」

 ―――イチゴ?

 疑問符と共に、日向は虚ろな視線を巡らせた。壁を上ってゆくイチゴの映像。ストロベリーハウス。部屋に閉じこもっている気にもなれず、探索途中のラウンジでただぼんやりしていたはずが、その後の記憶が曖昧だ。どうやら自分は床に倒れているようだが、現状がいまいち把握できない。空腹のせいだろうか。

「日向クンももっと食べてよ。ボクも食べるから」

 食べるってなんだ。食べ物なんてどこにあるんだ。幻を見てしまうほど限界なのか、まさかイチゴの映像が本物に見えているのか。

 うまく頭が働かないまま、疑問だけが渦を巻く。とにかく狛枝が随分危険な状態まで追いつめられていることは理解できて、日向は苦笑してしまった。さすがの彼も空腹には勝てないらしい。この状況は後に訪れる幸運の布石だと、はしゃいでみせる元気もないようだ。

 ああほら、よだれ出てるぞ。油断するとそういう子供みたいになるのやめろって、なんか図体だけでかいガキの世話してる気分になるんだよ。そんで左右田や九頭龍から「超高校級の世話焼き」とか言われるんだ。

 目を閉じると、またゆっくりと意識が沈んでゆくのがわかった。日向クン、という囁きと共に、熱を帯びたものが唇に触れた。日向クン、と繰り返される吐息混じりの声。食べさせてあげる。

 口の中に入り込んできた何かを、日向はうまく認識できなかった。イチゴにしては温かく、柔らかな感触。ぬるりと滑るそれが、妙に甘く自我を痺れさせる。

 それでも、反射的に食べようとしたのだ。だが噛む力はもはや残されておらず、軽く歯を立てるだけに終わった。一瞬だけ震えたように思えたその感触が、日向の舌に絡みつく。唾液を舐めて掬って吸い上げて、一旦離れて唇に触れて、改めて口内に潜って動き回る。イチゴの味はしない。ただ、熱い。

 違和感を覚えたが、もう何も考えられなかった。濡れた音と狛枝の呼吸と呼びかける声を耳に、日向は再度意識を手放した。









 ―――数分後。

 ふらふらと部屋を出てきた左右田が、「なんか日向と狛枝が重なって行き倒れてる!?」と悲鳴を上げることになる。










ストロベリーカーニバル
20130801UP


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