穏やかな波の音を耳に、日向はぼんやりと砂浜を歩いていた。 少し前方を進む狛枝は、軽い足取りで砂を踏んでいる。色素の薄い髪が潮風に揺れ、ふわふわと炎のようだ。 見慣れたその背中を追いながら、日向は手元の電子生徒手帳に視線を落とした。この修学旅行の目的は『希望のカケラ』を集めることだと、引率者であるウサミは言った。友人たちと仲良く平和に過ごせば、希望が育まれカケラが増えてゆくのだと。 日向はつい先ほど、狛枝の希望のカケラを入手したところだった。砂の城を完成させ、子供のように喜ぶ笑顔を見て、また一つ彼のことがわかった気がした。また一歩彼に近づけた気がした。そう感じたとき、ポケットの中で生徒手帳が鳴ったのだ。 カケラを入手すれば電子音が鳴り、通信簿に表示される。今まで過ごしてきた日々から考えると、『希望のカケラ』とは相手に対する好意の積み重ねであり、いわゆる友情の証なのかもしれないと日向は思う。基準や仕組みはよくわからないが、つまり築いた信頼や絆を可視化したものなのだろう。結果自分の生徒手帳に記されるなら、自分自身の感情なのだという推測もできる。 独自の信念を持つ狛枝のことを、日向はいまだに理解できないでいる。だが修学旅行も既に半分以上が終わり、何度も会話を交わすうち、次第に打ち解けることはできていると思えた。少なくともさっきの時間、自分たちは友人同士だと感じられたのだ。だから日向の電子生徒手帳はカケラの入手を告げた、けれど。 狛枝の電子生徒手帳から、音は聞こえなかった。 そうだった、と日向は無意識に手帳を握り締めた。考えてみれば電子音は自分のポケットからばかりで、狛枝の方からは今まで一度も聞こえてきたことがないのだ。他の仲間たちと過ごした場合は、特徴的なあの音を大抵耳にできているというのに。もちろん、自分と相手の二回分を。 ―――狛枝の周囲には、見えない壁がある。 以前から感じていた違和感が、ここに来て確実になった。それは必要以上に自分を卑下する言動や、仲間たちを過剰に神聖視するような態度で、狛枝自身が張り巡らせた透明な壁だ。もしかすると人当たり良く社交的な性格も、他人と距離を隔てるための盾なのかもしれない。 確かに狛枝は常識の通じないところが多々あるが、悪い奴でないことはわかる。だから少しでも親しくなりたい、仲良くなれればいいと思っていた。言葉を交わすことで、自分なりに少しずつ理解を進められていると思っていた。そうではなかった。日向の方が勝手に思い込んでいただけだったのだ。 手帳を握り締めたまま、知らず息を詰める。自分だけが一方通行で空回りしていたのかと、今更の事実に悔しさが込み上げる。相手に悪気がないのなら、尚更に。 「……日向クン?」 ふいに呼びかけられて、日向はいつの間にか立ち止まっていたことを知った。同じく歩みを止めた狛枝が、訝しげに振り返っている。 「どうしたの?」 「い、いや、ちょっと」 日向は笑顔を作ってから、早足でその隣に追いついた。不思議そうに聞いてくる狛枝の表情は、いつもどおり明るく無邪気だ。恐らく、本人は何も自覚していないのだろう。 「あのさ。狛枝は希望のカケラ、集まってるか?」 持っていた電子生徒手帳を示して、さりげなく訊ねてみる。狛枝は緩く首を振ると、そろそろ夕暮れ時になろうとしている空を仰いだ。 「それが、なかなか難しくてさ。どうすれば集まるのか、まだよくわからないんだよね」 「わからないって……」 さらりと告げられた予想外の答えに、日向は言葉をなくしてしまった。修学旅行の全日程五十日間のうち三十日が過ぎて、最大の目的である希望のカケラの収集方法が、いまだよくわからないとはどういうことだ。まさか。 「ちょっと、生徒手帳見せてもらっていいか? 通信簿のページ」 「うん、どうぞ」 きょとんとしながら、狛枝がポケットから出した手帳を操作した。示されたページには、思ったとおり。 「お前……」 希望のカケラが、一人につき一つしか表示されていない。つまり初めて会って自己紹介をしたとき以来、全く増えていない。恐らく一番多く共に過ごしているだろう、日向のカケラさえも。 「日向クン?」 「……」 絶句したまま、日向は自分の生徒手帳を見せてやった。残り日程で全て集めるのは厳しいかもしれないが、それなりに全員の分が満遍なく埋められている。狛枝のカケラも、残すところあと一つだ。 「うわあ、すごいね! もうこんなにたくさん集まってるんだ?」 純粋に驚いたらしく、狛枝が目を丸くした。いやいや、と日向は頭を抱えたくなる。彼が日向以外の誰かと出かけたり、一緒に話していたりするところは何度も見ている。てっきり、同じくらい集められていると思っていたのに。 「お前が集められなさすぎなんじゃないか?」 「そうかなあ」 狛枝が変わった思考の持ち主であることは周知の事実だ。そして仲間たちも超高校級の才能を持つ天才ゆえか、負けず劣らず個性的な人間ばかりである。性格が合わなかったり反発したり、カケラが集めにくいということもあるのかもしれない。それはそれで仕方がない、とは思うのだが。 「きっと単純に、ボクみたいなゴミ虫じゃ無理なんだよ。だって、みんなと同じ空気を吸うだけでも恐れ多いのに……」 そんなことを考えていた日向は、狛枝の言葉に眉根を寄せてしまった。やはり己を卑下するあまり、勝手に線を引いて壁を作ってしまうことが最大の原因に違いない。というか、日向のカケラも全くの初期状態だとは思わなかった。親近感を持って接していたのは本当に自分だけだったのかと、少し淋しくなってしまう。 「あれ?」 それより、このままでは期限に間に合わなくないだろうか。気がついて、日向は思わず声を上げた。 「そういえばこの修学旅行って、カケラが集めきれなかった場合はどうなるんだ?」 「んん……そうだね、ウサミに聞けばわかるかな」 独り言じみた日向の疑問に、狛枝が顎に手を当てて考え込む。かと思えば、すぐ笑顔になって。 「もしかして、全員が全員の分を集めるまで延長されるのかな? だったらボクは大歓迎なんだけど。だってまだまだみんなと一緒に過ごせるなんて、こんなに素晴らしい毎日が続けられるなんて、とんでもない幸運だよね!」 幸せすぎて怖いよと呟きながら、狛枝は自身を抱きしめている。まさかそれを狙ってわざとなのか?などという思考が日向の脳裏をよぎったが、振り払って否定した。もしそうだったとしても、現時点で一つだけというのはさすがにおかしいだろう。 ともあれ、これは問題かもしれない。延長は日向もやぶさかではないが、狛枝がこの調子だといつまで経ってもカケラは集まらず、旅行が終わらなくないだろうか。どんなに会話を積み重ねても、どんなに楽しい時間を過ごしても、狛枝の生徒手帳だけは変わらないまま、永遠に続いてゆく修学旅行。一年が経ち二年が経ち、三年を越えても―――あまり考えたくはない。 「……あー、狛枝? 少しでいいから、そういう考え方を変えることはできないか?」 「え?」 真正面から見つめると、狛枝もこちらに向き直った。同じくらいの背丈のせいで、対等に向かい合う形になる。 「そういう考え方って、何?」 「超高校級のみんなと自分の間に線を引いて、完全に区別しようとするところ」 「線?」 意味がわからないといったように、狛枝は首を傾げたままだ。日向は狛枝に比べて口が達者なわけでもないし、説得が得意なわけでもない。だがとにかく言葉にしないと伝わらないなら、そうするしかない。 「お前だって希望ヶ峰学園に選ばれた、超高校級の幸運だろ?」 「それは、そうだけど……でも、みんなと違ってボクなんて」 「ああだからそういうとこだよ、ほら!」 いつもどおり自虐的に後ずさろうとした狛枝の両手首を、日向は反射的につかんでいた。そうやって壁を作られることを防ごうとしたのか、逃げる素振りをされたから単純に捕まえたかったのか。狛枝はその場に固まって、ぱちぱちと瞬きをしている。 「みんな同じ人間で、同じ学園の仲間なんだって、そう思えばいい」 「え」 「だから壁を作る必要もないし、距離を置く必要もない。もっと歩み寄って、近づいてもいいんだって」 固まったまま、狛枝は戸惑ったように日向の手を見た。しばし逡巡した後、うつむいて首を振る。 「そんな、無理だよ。おこがましいよ。だってボクは、みんなと同じなんかじゃ……」 返答に困って視線をさまよわせる様は、まるで迷子の子供のように見えた。彼はその才能のせいで、幼い頃から壮絶な人生を余儀なくされたらしい。不運と幸運を繰り返す中で、両親も亡くしてしまったと聞いた。 狛枝が築き上げた透明な壁は、己の不運に周囲を巻き込まないための防護壁でもあるのだろう。表面の人間関係は円滑に進めつつ、そうやって人との関わり合いを避けているのかもしれない。本当は、いまだ臆病な子供のまま。 「うーん……そうだなあ」 自分で言い出したことながら、日向はどう論破したものかと悩んでしまった。超高校級の才能を崇拝し盲信する信念と、対比して己を貶める狛枝の劣等感、そして経験に裏付けられた幸運という才能。それらはそう簡単に覆せるものではない。そもそも無自覚に作り上げている壁を、自覚して取っ払うのは難しいはずだ。 知らずしかめ面になってしまった日向は、いまだ狛枝の両手をつかんだままだったことに気がついた。反射的だったとはいえ誰もいない砂浜で、高校生男子二人が向かい合って手を握っているなど、かなり寒い光景ではないだろうか。苦笑して離そうとして、ふと思い留まる。 触れた手から伝わる、狛枝の体温。自分と同じぬくもり、生きている証。そんな当たり前のことを、今更ながらに意識した。同時に。 「わ、日向クン?」 一旦手を離し、右手で狛枝の左手を握り直す。驚きの声を耳に、日向はそのまま砂浜を歩き出した。 「ちょ……え、なに、どうしたの?」 手を繋ぐというより手を引かれて連行される格好になり、狛枝は激しく動揺しているようだ。だが無理に振り払わないということは、少なくとも嫌がってはいないのだろう。 「これで、距離が縮まった気がしないか?」 「え。ええ? ど、どういうこと? よくわからないよ、日向クン」 「で、こうすればいいかな」 握った手を引っ張って、後ろではなくすぐ隣を歩かせる。狛枝は砂に足を取られてこけそうになったが、日向の手を支えに立ち直った。覚束ない足取りではあったが、やがて並んで歩く自然な形になる。 「……ええと、日向クン?」 呆れたような笑みを浮かべて、狛枝が繋いだ手を示した。 「なんかこれじゃ距離が縮まったというか、一気にゼロになってない?」 「そ、そうだな。でもこれで少なくとも、俺はお前と同じ人間なんだってこと、伝わってこないか?」 ごまかして笑った日向は、その手を大げさに振ってみせた。歩幅もわざと大きくリズムを取って、照れ隠しのように。 「同じ、人間……」 狛枝はぽつりと呟いたきり、無言で隣を歩き続ける。まだ戸惑っているのか、どうしていいのかわからないのか。 「なあ狛枝」 とにかく、と日向は口を開いた。 「なんか、色々言ったけどさ。俺は単純に、お前ともっと仲良くなりたいだけなんだよ」 水平線を見つめながら、純粋な気持ちを素直に告げる。隣でかすかに息を呑む気配がしたが、思考を巡らせていた日向は気がつかなかった。 なんでもいい。なんでもいいのだ。心の距離など抽象的で説明しづらいのだから、まずは多少強引に、物理的にでも縮めてしまって、同じ人間で同じ仲間なのだと知ってほしい。手を繋いで並んで歩いて、そこから何か変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれないが、それでも。 それに、と日向は思った。超高校級を相手にすると臆してしまうなら、自分がきっかけになることはできないだろうか。いまだ才能を思い出せていない日向に対しては、狛枝も多少は壁を取り払えないだろうか。そして日向をきっかけにして、いずれ他のみんなとも普通に交流することができればいい。 「……ふふ」 しばらく黙って歩いていると、やがて狛枝がおかしそうに言った。 「誰かと手を繋いで帰るなんて、久しぶりだよ。なんだか、子供みたいだね」 「ああ、そうだな」 くすくすと笑っている狛枝に、日向も笑顔で同意した。本当に、遊び疲れて一緒に帰る友人同士のようだ。明日は何をしようか、何をして遊ぼうか。そんな相談をしながら、腹を空かせて家路を急ぐ幼い子供のごとく。 「日向クン」 ふいに呼びかけられ、狛枝の方から強く手を握り直される。なんだか縋りつかれているみたいだ、と感じた時。 「日向クンは、あったかいね」 はにかんだように、狛枝が微笑んだ。彼のポケットから、電子生徒手帳の鳴る音がした。 以来、狛枝は順調に日向の希望のカケラを集められるようになっていった。日向もできるだけ狛枝と出かけるようにしたし、なるべく共に過ごすようにした。ただ狛枝の態度は基本的にあまり変わらず、日向以外の仲間たちに対しては、順調とはいかないようだった。 修学旅行はもう残り十日しかない。狛枝との時間を優先した結果、日向自身も期限までに全員分のカケラを集めることはできなくなった。ウサミの話によると、集まりきらなかった場合は旅行延長となるらしい。 ではいつまで延長されるのかと訊ねたら、何故か曖昧にごまかされてしまった。とにかくひたすら平和に希望を育めばいいのだと言われた。疑問は湧き上がったものの、よくわからないがそういうものなのだろう。そうやって納得する自分自身にも疑問が生じたが、考える前に霧散した。まあいいか、と考えないようにした。本当はもっと考えたかったし、考えるべきだとは思っているのに。例えばこの修学旅行の意味とか、理由とか、そういう根本的なものを―――。 「日向クン」 ベッドに寝転んでぼんやりしていた日向は、インターホンの音と呼びかけで我に返った。返事をして扉を開けると、そこに立っていたのは狛枝だ。 「こんばんは日向クン。ごめんね、もしかしてもう寝てた?」 「いや大丈夫。入るか?」 「うん、ありがとうお邪魔します!」 ぱっと笑顔を咲かせる狛枝を、日向は微笑ましい気持ちで迎え入れた。 電子生徒手帳の狛枝の欄は、先日全て埋めることができた。狛枝の方も昨日の午後、日向の分のカケラを集め終わったという。だからもう義務や強制はないものの、カケラ集めのための自由行動以外でも、日向は狛枝と共にいることが多くなった。特に何をするわけでもなく、たわいのない会話をしているだけだ。しかしそれはいつの間にか、お互いが自然体で過ごせる友人同士の時間となっていた。 仲良くなりたいと思ったのは間違いなく日向の本心で、狛枝も受け入れてくれたのなら単純に嬉しい。だが壁を失くし距離を縮めようという説明を、わかりやすく手を繋ぐ方法で最初に示してしまったせいだろうか。事あるごとに触れたりじゃれたり、とにかく狛枝はあれ以来、日向に対するスキンシップが激しくなっている。まるで、野良犬に餌をやったらものすごく喜ばれてまとわりつかれているかのような―――いや、その例え方は失礼か。 随分と懐かれたようだなとは十神の談で、言い得て妙だと日向も思う。しかも狛枝が過剰に接してくるのは日向限定で、その様子は正に尻尾を振って飼い主に甘える大型犬のような―――いや、やはり例え方が失礼か。というかどう例えようと結局犬か、犬なのか。 「そういえば、今日は希望のカケラ手に入れられたか?」 ちぎれんばかりに尻尾を振っている狛枝犬を想像してしまい、日向は振り払って訊ねてみた。狛枝が頷いて電子手帳を取り出す。 「うん、ちょっと時間は掛かっちゃったけどね」 今日は学級目標に向けた採集活動の後、それぞれ他の仲間たちと過ごした。聞けば、狛枝はずっと七海とゲームをやっていたらしい。それで信頼関係が築けるのかどうか疑問だが、対戦をしたり攻略方法を聞いたりで、意外と親密度が上がるようだ。 「ほら」 「おー、よかったじゃないか」 開かれたそのページには、七海のところにしっかりとカケラが増えている。とはいえ全体的に見ると、やはり集まりは芳しくない。日向の欄だけが全て埋まっていて、かえって違和感を覚えるほどに。 「でもまあ、このペースだと確実に延長だろうな。俺も人のこと言えないけど」 冗談めかして言いながら、日向は狛枝にソファを勧めた。嫌味ではなかったし、責めたわけでもなかったが、狛枝がふと視線を逸らすのがわかった。そうだねと呟くその顔は、なんだか淋しそうだ。 「……どうした?」 肩透かしをくらってしまった気分で、日向はベッドに腰掛けた。旅行の延長は大歓迎だ、などと言っていた狛枝だ。てっきり正に幸運だとかなんとか、はしゃいでみせると思っていたのだが。 「あのね、日向クン」 狛枝が手帳をポケットに戻し、どこか意を決したように口を開いた。視線から逃れるようにうつむき、ソファを通り過ぎて日向の隣に座る。軽くベッドが軋む音。 「その……ボクはもう、キミの希望のカケラを集め終えてしまったんだ」 「ん? ああ、そうだな」 手帳を見れば一目瞭然の事実だ。それがどうかしたのだろうか。疑問符に首を傾げる日向と、狛枝は目を合わせようとしない。 「だから、これ以上カケラは増えない。これ以上親密にはなれない。これ以上、キミと仲良くなれない……そういうことなのかなって、思って」 「……は?」 落ちる言葉はやはり淋しそうで、日向はぽかんとしてしまった。もしかして、そんな勝手な思い込みで悩んでいたのだろうか。 「いや、それは違うぞ。別に、カケラが集まったらそれで終わりってわけじゃない」 「でも……でもね」 否定する日向の右手を、狛枝が両手で包み込むように握る。 「こうすれば距離が縮まった気がしないかって、キミは言ってくれた。キミに触れることで、確かに距離はゼロになるけれど、そこで終わりだよね。ゼロが最大値で、それ以上は無理だよね。だから希望のカケラも同じで、限界があるんじゃないかって」 どういう理屈だと苦笑して、日向は何か説得できる言葉を探した。狛枝は泣きそうな顔になりながら、弱々しく首を振る。 「そんなの嫌だよ。ボクは……ボクはもっと、キミと仲良くなりたい。もっと、キミに近づきたいのに」 「ええと、狛枝?」 そういえばこいつはあまり人の話を聞かず、一度こうだと思い込むと簡単には折れない奴だった。とりあえずもう一度否定してやるべく、口を開こうとした時。 「だから日向クン。ボク、考えてみたんだ」 唐突に身を乗り出され、頬に手を添えられた。いきなりの至近距離に、日向は思わず仰け反ってしまう。 「な。なんだよ?」 「……」 狛枝は無言で、じっと日向を見つめた。何が何だかわからず、日向も沈黙でそれに応えた。穏やかな波の音が、窓の外から遠く聞こえてくる。しばらく、静寂が保たれた後。 「……うん、そうだ。そうだよね」 ふいに、狛枝が笑った。先ほどの表情とは一転、嬉しそうに顔を輝かせて。 「カケラは増えなくても、距離はまだ縮められる。今、それを確信したよ。だって距離なんて、マイナスにできるもんね!」 「……は?」 マイナスって、どういう意味だよ。訊ねる前に、顎を強く捉えて阻まれた。続いて、唇を割った親指が。 「んうっ!?」 前触れなく、口の中に潜り込んできた。舌をくすぐる異物感に驚いて、日向は反射的に狛枝の腕をつかむ。すぐに押し戻して吐き出して、非難しようとしたのだが。 「何す、んッ!」 親指は一旦退いたものの、今度は人差し指と中指をまとめて突っ込まれた。あまりのことに目を見開いた日向は、侵入を止めようとつかんだ手に力を込める。そうしてなんとか狛枝を突き飛ばし、咳き込みながら唇を拭った。 「なっ……何やってんだよ!」 「え、だって」 狛枝はベッドから半分ずり落ちながら、悪びれもせず首を傾げてみせる。 「だってゼロ以上に近づこうと思ったら、キミの内側に入るしかないじゃない」 「うう、内側って、お前」 「あ。ねえ」 絶句する日向に構わず、狛枝は自らの指を舐めた。根元から舌を這わせて、うっとりと微笑んで。 「こうすればキミの唾液とボクの唾液が混ざり合ってボクの中に取り込まれるわけだから、これも距離が縮まったってことになるのかな」 「な……」 なんだ、それ。何も反論できないまま、日向は知らず後ずさった。ちゅ、と音を立てて指を吸った狛枝が、再び身を乗り出してくる。まるで獲物を追いつめるかのように。 「うーん、でもこれじゃよくわからないな。一度キミを離れてるからかな? キミの体温が感じられないよ。やっぱり直接触るのが一番だね。はあ……体温って大事だよね。常夏のこの島でも、人のぬくもりって全然違って落ち着くし、気持ちいいよね……」 独白に似た囁きを、日向は呆然と聞いていた。彼は何を考えているのか読めなくて、常識が通じない相手で、そんなことはわかっていた。わかっていたのだが。 「日向クン」 後ろ手をついてしまった日向に、狛枝が笑顔で迫る。以前、風に揺れる彼の髪を炎のようだと感じたことを思い出す。今は髪と同じ色素の薄いその瞳の奥に、炎に似た何かが揺らめいて見える。じわりと滲む恍惚と狂気、それらが入り混じった複雑な色。 日向の背筋を這い上がるのは、得体の知れないものに対する恐怖だ。 「キミが教えてくれたんだ。もっと歩み寄って近づいていいって」 「ちょっ……」 接近を拒もうと無意識に膝を立てると、邪魔だとばかりに両手で割り広げられた。足と足の間に入り込まれて、日向は慌てて身を捩る。圧し掛かるような体勢のせいか、密着してくる身体が押さえきれない。 「ねえ、こうすればもっとキミに近づける? ボクはキミとの距離を失くしたい。ゼロじゃ足りない。足りないんだ」 「ま、待てって、狛枝!」 「何、日向クン?」 狛枝は日向を押さえつける格好のまま、従って体重を掛けるのをやめた。至近距離の柔らかな微笑は、やはり無垢で無邪気な子供に似て、自分がよく知る狛枝だ。頼りないところもあるけれど、優しかったり面倒見が良かったりする―――いや。 『よく知る狛枝』、だって? 違う、と日向は己の思考を自嘲混じりに否定した。自分たちはまだ、出逢ってたった四十日ほどではないか。共に過ごした時間に比例するわけではないが、その程度では彼を知ることも、ましてや理解することもできないだろう。希望のカケラと同じだ。知った気になっていただけなのだ。親しみを持って接していたのはこちらのみで、実際は一方通行ですれ違っていて、勝手に思い込んでいただけで。 「……んーと。どのくらい待てばいいのかな」 待てと言ったことを律儀に守っていたのか、狛枝が困った顔で問いかけてくる。日向は動揺から我に返ったものの、それ以上拒絶する言葉が浮かばない。本人に悪気はないとわかっているからこそ、どうしていいかわからなくなる。そもそも、本当に悪気がないのかどうかもわからない。わからない。わからない。 「まあいいや」 焦れたため息と共に、また距離を詰められた。同時に右手を取られ、指を絡ませる形で繋がれる。何度か確かめるように握った後、狛枝はふわりと微笑んだ。 「やっぱり、日向クンはあったかいね。さっきちょっとだけ触らせてもらえたけど、内側はもっとあったかかったよ」 「こ、狛え……」 「とりあえず、ほら。口開けて?」 呼びかけを遮るかのごとく、逆の手で唇をなぞられる。その感触と熱を帯びた吐息に、本格的に悪寒が走った。 「そして奥深くで繋がって、いっそ一つになってしまおうよ……ね?」 色を含んだ声が、有無を言わさない響きで吹き込まれる。覆い被さる体温も、近づいてくる唇も、どこか切実に訴えるひたむきな目も。 「そうすればきっと、もっと、気持ちいいよ」 全てを遠く感じながら、日向はやはり呆然と受け止めるしかなかった。 縋りつくように、しっかりと手を繋がれたままで。
手を繋いでゼロの向こうへ |