一日の終わりの授業は、いつも途中で眠くなる。 教科書に顔を埋めるようにして、日向はこっそりあくびを噛み殺した。 季節は春、科目は退屈な古文、更に窓際の最後列というベストポジション。これで眠くならない奴はいないだろうと、ぼんやりしながら頬杖をつく。初老教師の声は間延びしていて、まるで読経か呪文のようだ。 開け放された窓の向こうでは、木々が柔らかく揺れている。穏やかな日差しと、目に優しい緑。都会の一等地にあるここ希望ヶ峰学園は、そんな雑踏や喧騒から切り離されたオアシスを連想する。教室が一階でなければ、もう少し心地良い風を感じられたかもしれない。 もう一度あくびをした日向は、黒板に目を戻そうとして気がついた。窓の外、少し離れた大きな樹の下に、一人の男子生徒が見えたのだ。 言うまでもなく、今は授業中だ。何故そんなところにいるのだろうと、日向は目を細めて彼を観察した。 細身の肢体に学園指定の制服、炎のように揺れる白い髪。顔はこちらに向けられているが、遠いせいでどこを見ているのかはわからない。 あんな特徴的な髪型をした生徒は、今までこの西地区内では見たことがない。もしかして、東地区の本科生だろうか。だったら何故、予備学科の敷地にいるのだろう。 「それでは、今日はここまで」 チャイムの音と教師の声を合図に、教室が一気にざわつき始める。いつの間にか授業は終わり、放課後になっていたらしい。 ああ眠かった、とぼやいているクラスメートたちに同意しながら、日向は大きく伸びをした。ついでに再度外を見ると、さっきの生徒はいなくなっていた。 まさか幽霊……じゃ、ないよな。そんな噂なんて、全く聞いたことないし。 怪談話は学校の付き物だが、それにしてもこんな昼日中の太陽の下だ。ないない、と日向は否定して忘れておいた。 幽霊の類ではないと確信できたのは、その翌日のことだった。 同じ六時限目の、古文の授業中。眠気を誘う教師の声を耳に、ぼんやり窓の外を見たときだ。 樹の下に、またあの白髪の生徒がいた。昨日はそこに佇んでいただけだったが、今日は文庫本らしきものを手に、大木を背もたれ代わりに座り込んでいた。ああ、あれはサボりだなと悟ることができて、日向はこっそり笑ってしまった。 晴れた天気も爽やかな風も気持ちよく、あそこは一等席だろう。読書にも昼寝にも、もちろんサボりにも最適に違いない。本当に本科生なら、絶好の隠れ場所にもなるはずだ。この西地区内においても、本科生は優遇されている。予備学科の教師に見つかって、咎められることもないだろう。 でも、もったいないよな。せっかく本科に入学できてるのに、授業サボってこんなところで読書なんて。 既に彼が本科生であるという前提で、日向は知らず眉根を寄せた。優れた才能を持つ本科の生徒でも、退屈な授業はサボりたいほど退屈なのだろうか。本科が自分たちと同じように、画一的で何の面白みもない授業をしているとは思えないけれど。 むしろ超高校級と呼ばれるほどの才能があるからこそ、自分の専門分野以外は全く興味がないのかもしれない。 なるほどだからサボりかと、日向は勝手に納得した。彼がどんな才能を持っているか知らないが、読書好きなら文系だろうか。こんなところで堂々としているくらいだ、一風変わった学者肌ではありそうだ。名前も知らないその推定本科の生徒に、日向は純粋な興味を抱いた。それにしても、と思いを巡らせてみる。 憧れの学園に入学できたものの、本科は遠く雲の上だ。彼らの多くは予備学科の存在を知りもせず、知れば過剰に見下し蔑む生徒もいるという。そして予備学科生はそんな彼らに、嫉妬と羨望の入り混じった感情を向けている。同じ学園の生徒とは思えないほど、二つの間には明確な境界線と、決して越えられない壁が存在するのだ。 あいつはどうだろうと、読書中の生徒を眺めてみる。敷地に入り込んで寛げるのは、ここが予備学科の地区だと知らないからか、知ってはいれど気にしていないのか。どう思っているのか、一度訊ねてみたくなった。 翌日も、彼はそこにいた。気がついたのはやはり同じ午後、睡魔と戦う古文の授業が終わって、放課後に入ったときだった。 倒れている姿を見て一瞬驚いたが、どうやら熟睡しているだけのようだ。チャイムが聞こえなかったのかもしれない。この陽気で風邪をひく心配はなくても、あまり遅くなると校門が施錠され、敷地内に閉じ込められてしまう可能性がある。 帰るついでに寄って、話しかけてみようか。もしかすると、本科生と知り合いになれるいい機会かもしれない。そんな多少の下心はありつつも、彼に対する単純な好奇心の方が大きかった。それに本科生なのかどうか、まだ定かではないのだ。 とにかく、声を掛けてみよう。決意して鞄を手に立ち上がった、その時。 「一緒に帰りましょう、ハジメ」 抑揚のない声が、背後から聞こえた。呼びかけに振り向くと、見慣れた顔がそこにあった。自分と同じ顔。髪の長さと、目の色が違うだけの。 「……ああ、イズルか」 一瞬だけ奇妙な違和感を覚えてから、日向は笑顔を浮かべてみせた。本科の方に在籍する、日向の双子の弟だ。 「生徒会はいいのか?」 「今日の活動はありません」 話しながら、日向は促されるように教室のドアへ向かった。兄と違って様々な才能に恵まれたイズルは、希望ヶ峰学園本科の生徒会にも所属する自慢の弟だった。 教室を出る前に、思い出して窓の方を振り返る。いつの間にか、白髪の生徒はいなくなっている。起きて帰ったのだろうか。だったら、いいけれど。 「ハジメ」 再度、名前を呼んで促された。ああと返事をして教室を出た日向は、イズルが珍しく険しい目で、窓の外を睨んだことに気づかなかった。 次の日も、古文の授業が終わった放課後だ。自席で教科書を片付けながら、ふと窓の外を見たとき。 樹の近くにいた彼と、目が合った。彼もこちらを見ていた。まだ少し離れてはいたけれど、つまりそう認識できる距離だった。 「あ……」 声を掛けなければ。無意識にそんな義務を感じて、日向は教室を飛び出していた。 談笑する生徒たちをかき分けるように、廊下を走って校舎を出る。ぐるりと回り込んで、教室のそば。―――いない。 「ボクに何か用?」 ふいに、あさっての方から声がした。振り返ると、彼が立っていた。 天然なのかふわふわ揺れる白い髪と、色素の薄い瞳。すらりとした手足に、中性的ともいえる整った顔の造作。女子生徒に人気がありそうな奴だと、日向は容易に察することができた。 「あ。えっと」 用と言われるほどの用はない。ただ話をしてみたかっただけなのだが、日向は言葉に詰まった。男子生徒は不思議そうに首を傾げながら、教室の方を見やる。 「キミ、あそこのクラスの生徒だよね。前にも見たことあるから、知ってるよ」 「そ、そうなのか?」 「うん。ここは静かだし風も気持ちいいし、ボクのお気に入りの場所なんだ」 言って、彼はにっこり笑ってみせた。そうするとまるで無邪気な子供のようで、日向もつられて微笑んでしまう。 「あ、でもお前、本科生じゃないのか? ここ、予備学科の敷地なんだけど……」 恐る恐る口にすると、彼はきょとんと目を丸くして。 「知ってるよ? 別に、本科生が入っちゃいけない校則はないでしょ?」 逆に予備学科生は本科の敷地に入るなっていう、暗黙のルールはあるけどね。 さらりと付け加えて、彼は悪気のない笑みを浮かべている。確かにそのとおりだが、彼自身は本科も予備学科も気にしないということだろうか。侮辱や軽蔑めいた視線を覚悟していただけに、日向は知らず安堵した。 「なんかお前、本科生らしくないな」 「そうかな。それを言ったら、キミだって予備学科生らしくないよ。ほら、キミたちの嫌いな本科生様だよ? なんで気軽に会話してくれちゃってんの?」 軽く肩をすくめて、彼が冗談混じりに反論してくる。その辺りはお互い様かと、日向は苦笑のため息を吐いた。 「そうだな、俺は本科に弟がいるからかもしれない。双子なんだけど」 「……弟?」 微妙に顔をしかめた彼に気づかず、頷いて説明する。 「生徒会に入ってる、神座出流っていうんだ。知ってるか?」 「カムクラ、イズル……」 噛み締めるようにその名を呟いて、彼はぐいと眉根を寄せた。 「もちろん、知ってるよ。ボクは超高校級の超高校級マニアだから、本科生の顔と名前は全員覚えてるんだ」 「そうなのか、すごいな。え、もしかしてそれがお前の才能だったり?」 「そんなわけないじゃない。でも、カムクラクンにお兄さんがいることは知らなかったなあ。そういえばキミ、名前は?」 「え。ああ、日向創だ」 そこで日向はわずかに、質問に込められた苛立ちを感じ取ってしまった。何が気に障ったのか知らないが、彼は少々不機嫌になっているようだ。 「ヒナタハジメ。なんで、弟のカムクラクンと名字が違うの?」 「な、なんでって……」 詰問するように迫られて、日向は圧され気味に口角を引きつらせた。なんでと言われても、それは。 あれ。なんでだっけ。 急に、頭が真っ白になった気がした。名字。理由。どちらかが母方のもので、親が離婚したときに勝手に別々に決められて、だから兄弟で姓が違うのだ。確か、そんな設定だったような記憶がある。―――設定? 「どうかした?」 動揺を見透かしたかのように、彼が覗き込んでくる。いや、と日向は頭を振った。また奇妙な違和感を覚えた気がするのだが、気のせいだろう。 「まあ別に、なんでもいいけどさ。それより日向クン」 彼は一転して笑顔になると、無造作に日向の手を握ってきた。 「ボク予備学科って大嫌いなんだけど、キミとなら友達になれそうな気がするんだ。これからよろしくね」 ……大嫌い、だって? 聞き間違いかと思ってしまうほど、彼はにこにこと笑顔のままだ。もしかして一筋縄ではいかないような、難しい性格の持ち主なのだろうか。本科生は個性的で変わり者の天才が多いと聞くから、あり得るかもしれない。 「こちらこそ、よろしく」 戸惑いながらも握り返して、軽く握手する。途端に、彼が宙を睨んで舌打ちした。 「……あーあ、もう見つかっちゃったか」 「ん? 何がだ?」 「こっちの話。あ、自己紹介がまだだったね。ボクは『超高校級の幸運』狛枝凪斗」 戸惑う日向に構わず、彼はもう一度にっこり笑って。 「忘れないでね、日向クン。……また来るよ」 その言葉を耳にした、刹那。 視界が傾いた。頭痛がした。微笑む彼の姿がぶれて、雑音が走る。足下が揺らぐ。身体が軋む。歪み始めた世界に、日向は微動だにできない。―――なんだ、これは。 「ハジメ!」 誰かの声が飛び込んできて、いきなり全てが正常になった。日向は今の一瞬を現実として受け止められず、ふらりと眩暈に襲われる。 「大丈夫ですか、ハジメ」 気がつけば、すぐ隣にイズルがいた。無表情ながらも慌てた様子で、日向を気遣ってくれている。辛うじて頷くと、ほっとしたように口元を緩めて。 「教室に戻りましょう。『今日』はもう終わらせます」 「……今日? でも、狛枝が」 「誰ですか、それは?」 心なしか冷たい声に見渡してみると、いつの間にか彼の姿はどこにもない。狐につままれたような気分で、日向はぽかんと立ち尽くした。 「ハジメは何も気にしなくても大丈夫です。さあ」 右手をつかまれ、やや強引に引っ張られる。まるで、早くこの場から立ち去ろうとでもしているかのように。 「これは、もっとセキュリティを強化しなければなりませんね。一度初期化した方が安全でしょうか……」 独り言のようなイズルの言葉が、どこか遠くで響いている。意味がわからない。理解が及ばない。 呆然としながら教室に足を踏み入れると、また眩暈がした。そうして窓際の、一番後ろ。自分の席に座った日向は、担任教師の朝の挨拶を聞いている。―――違和感。 「……あれ?」 続けて、出欠確認が行われる。今日の一時限目は生物の授業だ。六時限目は古文で、きっとまた眠くなるに違いない。いつもどおりの毎日、いつもどおりの平穏。普段と変わらない一日の始まりだ。 そう思うと、さっきの違和感はやがて消え失せていった。日向は何の疑問も持たず、『今日』という日を昨日の続きだと認識した。ただ朝の気だるさを持て余しながら、何気なく窓の外に目を向けたとき。 少し離れた大きな樹の下に、誰かが佇んでいた。こちらを見ていた気がした。瞬きをすれば人影などなく、優しい風が吹き抜けるだけだったけれど。 確かに、誰かがいた。強烈な懐かしさと、おぼろげな既視感が滲んだ。誰だろう。よくわからない。その誰かを、自分は知っている。知っているはずなのに。 「えー来週はテストをしますので、出題範囲の説明を……」 いきなりの教師の台詞に、生徒たちから不満の声が上がっている。日向はテストという単語で我に返って、慌てて教科書を開いた。その瞬間、既視感は霧散した。窓の外のことも、そこにいたはずの誰かの面影も、無意識の奥底へと沈んでいった。 「はあ……『来週』、だってさ」 ―――誰にも干渉されない、ゆえに何も干渉できない切り離された場所で。 狛枝はため息混じりにひとりごちながら、そんな日向を遠く眺めていた。 「馬鹿みたい。この学園には来週どころか、明日すらやってこないのにね」 偽りの学園に偽りの記憶、偽りの自分、何もかも偽りの世界。カムクライズルが構築したプログラムは、日向の意識を巻き込んで、ひたすら『希望ヶ峰学園のとある平穏な一日』を繰り返している。 「うーん、でもやっと接触できたよ。これで何回目だったかな、七海さん」 『二十七回目、だよ』 少女の柔らかな声が、更にはるか遠くから降ってくる。 『結局、また初期化されちゃったみたいだけど。どうしても、セキュリティとのいたちごっこになるんだよね。私たちは、ウィルスみたいなものだから』 「ウィルスか。だったらボクもコロシアイを計画して、最後は巨大化するべきかな?」 『それなら狛枝くん、まずはその自分のアバターじゃなくて、モノクマの姿で登場しないと。データ、すぐに転送して読み込めるよ?』 「余計なトラウマ思い出されたら困るし、日向クンのために遠慮しておくね」 軽い冗談を交わしながらも、狛枝はぼんやりと教室を眺め続けた。 日向創の第二の人格ともいえる、カムクライズル。彼が現実を拒んだことにより、日向の心は道連れに囚われてしまった。何のためかは本人に聞いてみないとわからないが、なんとなく想像はできる。 きっと、彼は気に入ったのだ。自分の予測をはるかに超越した、何の才能も持たない日向のことが。 だからって閉じ込めて独り占めしようとするなんてまるで子供だよね、と狛枝は鼻を鳴らした。あるいは、お節介で子離れできない傍迷惑な親か。現実の絶望から目をそむけ、幸福だけを与えて甘やかしたいのか。 どちらにせよ、仲間たちの再三のアクセスと呼びかけにも関わらず、日向はいまだ昏睡状態から目覚める気配はない。まるであの新世界プログラムのように、閉ざされた作り物の世界で、繰り返し平和な夢を見せられているのだ。 けれどようやく先ほど、狛枝の存在に気がついてくれた。イレギュラーであるはずの自分に、声まで掛けてくれた。つまりカムクラのプロテクトは完璧ではなく、日向も全ての記憶を失ったわけではないということだ。この調子で繰り返せば、きっとまた一歩近づける。彼の目覚めに。現実での意識回復に。繰り返すほどにプログラムがバージョンアップされ、こちらからのアクセスがかなわなくなる危険もあれど。 「双子設定なんてちゃっかりしてるよね、カムクラクン。でもありとあらゆる才能に愛された『超高校級の希望』にだって、予測できないことはあるんだよ」 今も目を光らせているに違いないプログラムの管理者に、届かない皮肉をぶつけておく。日向は退屈そうに黒板を見ていて、その顔は現実で眠る彼より少し幼い。入学した年の春という設定のせいか。まだ何も知らない、本当にただの予備学科生の頃の。いつか本科に編入できると信じて夢見る、果てしなく純粋で愚かな。 「ねえ日向クン。ボクは予備学科も、キミのことも大嫌いなんだ」 目を細めながら、狛枝はぽつりと呟いた。突き放す言葉とは裏腹に、その口調はどこまでも優しい。 こうしている間も、他のメンバーは現実側のプログラムルームで見守ってくれている。コロシアイ修学旅行と本来の更生プログラムを経て、過去の絶望を乗り越え、今を強く生きる仲間たち。それを先導したはずの日向がいないなど、許されることではない。だから、大嫌いだ。だから。 「そんなところで遊んでないで、早く本当の現実を知って、大いに絶望すればいいよ。皆でそれを創り変えてあげるから。すばらしい希望に。新しい未来に」 やはり届かない独り言を投げて、狛枝は小さく笑った。 「キミが、ボクたちにそうしてくれたようにね」
学園天国Ver.1.27 |