パソコン画面を睨みながら、狛枝はキーボードを叩いていた。

 狭い部屋に響く、デスクトップの排気音。自家発電による電力を節約するため、作業は消灯時間までに中断することを推奨されている。あと二時間もあれば、今日のノルマは終わるだろう。

 一旦ファイルを保存し、椅子にもたれて嘆息する。未来機関の人手不足はよく知っているが、自分にばかり大量の書類が押しつけられるのは、行動を制限するために違いない。機関の上層部において、狛枝凪斗はいまだ要注意人物なのだ。自業自得だと、他のメンバーには言われるだろうけれど。

「別に、いいけどね」

 吐き出した独り言が、消灯前の穏やかな静寂に紛れてゆく。パソコンを落とせば、かすかに波の音が聞こえるだろう。夜の特訓とやらを日課にしている、弐大や終里の声も聞こえてくるかもしれない。

 平和だ。まるで二度目の修学旅行、ひたすらほのぼのと過ごした五十日間のようだ。狛枝はしばし目を閉じて、取り留めのない回想に浸った。

 ―――二度にわたる新世界プログラムを終えて、数か月。

 無事に目覚めた十五人のメンバーは全員、未来機関の保護下に入ることになった。島を足掛かりに世界の復興に協力し、島外の本部と連絡を取りながら、それぞれの才能を生かして尽力する毎日だ。

 とはいえ才能の使いどころが難しい狛枝は、他の仲間の手伝いや事務仕事などに留まっている。それは修学旅行を先導し、『日向創』として目覚めた日向も同じだった。

 一度は開花したはずの後天的な才能を、今の彼は全く認識できていない。ゆえに使うこともできないままだ。それでも人手があるに越したことはなく、「予備学科の手も借りたいほど忙しいわけだからいいんじゃない?」と、皮肉混じりに言っておいた。何より勤勉で真面目な日向は、仲間や機関からの人望があり信頼も厚い。それもまた才能と呼べるのではないかと、そんなフォローはしてやらなかったけれど。

「……だってなんか、むかつくし」

 ぼそりと呟いて、ため息を吐く。今日も仕事の合間、たまたま見かけた日向に対し、何故か無性に苛立ちを覚えてしまった。理由がわからないことにまた苛立って、早々に自室に引きこもった。先ほど夕食を済ませてきたレストランでは、機嫌の悪さが周囲にも伝わったらしい。居合わせた数人に遠巻きにされ、触らぬ狛枝に祟りなし、などという小声も聞こえた。あれは恐らく左右田だろう。

 現実に戻ってしばらくは記憶の混在に戸惑った狛枝だが、今は違う。プログラムの一度目も二度目も、自分自身の経験であり思い出として、懐かしく思い返すことすらできている。元絶望だからといって仲間たちを避けることも、過剰に見下し侮蔑することもないというのに。

 日向に対してだけは、いまだどうしても棘を含んでしまうのだ。

「だって……本当に、むかつくし」

 もう一度呟いて、唇を尖らせる。そんなに日向のことが気に食わないのかと、何度も自問しては行き詰まった。何の才能も持たない予備学科だった事実には、確かに大きく失望したが、ここまで引きずるほどのことだろうか。裏を返せば、それだけ彼に期待していたということになるではないか。

「……何それ。下らない」

 ひとりごちて、狛枝は自嘲に肩をすくめた。もういい、日向のことなど考えるだけ時間の無駄だ。さっさとノルマを仕上げてしまおうと、気持ちを切り替えて再度パソコンに向かったとき。

「狛枝?」

 控えめなノックと共に、ドアの向こうから遠慮がちに呼びかけられた。日向の声だ。そういえば今朝、夕食後に本を借りに部屋に行くと言われた気がする。

 思い出した狛枝は、無意識に渋面になった。借りるといっても元は図書館のものであり、共有物である。世界が混沌としている今、貴重な資料であり文化財ともいえるだろう。そして復興に忙殺されるこの島の者たちにとっては、数少ない娯楽の一つだ。

 日向は昨夜推理小説の上巻を読み終えて、続きが非常に気になりながら、今日の仕事のついでに図書館に寄ったらしい。そこで目当ての下巻がないと知り、犯人として思い当たったのが狛枝だという。

 日向が口にしたタイトルには、確かに覚えがあった。だらだらと前置きが長いだけの上巻に反し、下巻の方は話の展開が面白く、何より最後のトリックに惹かれて持ち帰ったような気がする。自分の部屋にあるかもしれないと答えたら、消灯前に取りに行くと伝えられた。面倒だと思いつつ、適当に頷いて了承しておいた。

 狛枝は読んで気に入った本を、片っ端から自室の本棚に収めてしまう癖がある。書架が長期にわたって不自然に歯抜けになっていれば、大抵自分の仕業で間違いない。ジャンルを問わず乱読し、かつ『気に入った本』の基準も様々だ。長編ファンタジー小説の五巻と九巻とか、三部作の真ん中とか、間だけを中途半端に私物にしてしまうこともある。どうせ何度も繰り返し読むので、面倒になって借りっ放しにしてしまうのだ。

 渋面のまま立ち上がって、狛枝は部屋の奥を占拠する本棚を見た。日向が訪ねてくることなど、すっかり忘れていた。すぐに渡してすぐに帰ってもらうつもりだったのだが、あの中から目当ての一冊を見つけるのは、それなりに時間が掛かりそうだ。

「悪いな、仕事中だったか?」

 仕方なくドアを開けると、日向が申し訳なさそうな顔で立っていた。白いシャツに黒いネクタイという、見慣れた機関の服装だ。まあねと答えて、狛枝はドアを大きく開け放った。

「どうぞ」
「どうぞって……お前な」

 勝手に入って勝手に探して勝手に持っていけという、言外の意思が伝わったらしい。日向は呆れたように嘆息した。

「じゃ、探させてもらうぞ」
「ご自由に」

 素っ気なく応えて、さっさとパソコンに戻る。今日は特に苛々していたから、できれば会いたくなかった。理由は考えないようにした。考えれば考えるほど、泥沼に落ちてしまう気がした。

 部屋の奥へ向かう背中を、そっと横目でうかがってみる。本棚にはハードカバーも文庫本も雑誌も、様々な本が乱雑かつ不規則に押し込まれた状態だ。サイズや作家名で揃えることもなく、間には小さな像や壷も飾ってある。お前らしいな、と言われたのはいつだっただろう。もしかすると、プログラム内のことだったかもしれない。

「うーん、ないなあ……」

 日向の唸る声を耳に、狛枝は緩く首を振った。対する苛立ちは相変わらずだが、彼がそばにいることで感じる安堵のような、不思議な充足感も否定できない。それを自覚して、また苛立ちが募る。悪循環だ。

「見つからないの? 探し物も下手だなんて、これだから予備学科は……」

 息を吐いて立ち上がると、日向がしかめ面で振り返るのがわかった。だが反対側の本棚に向かう狛枝を見て、すぐ笑顔になる。

「一緒に探してくれるのか? というか、探し物に予備学科関係なくないか」
「関係あるでしょ。目当てのものを探索する才能すら持っていない、本当の凡人ってことなんだから」
「どういう才能だよそれは」
「ボクだったらこんなの、幸運ですぐに見つけられるよ?」
「そう言うなら一発で見つけてくれよ……」
「やだよ。なんでボクが日向クンの探し物なんかのために、代わりの不運を迎えなきゃならないの」

 力なく突っ込む日向に、畳み掛けるように言葉を重ねる。それは相手がどう言い返してくるか予想がつくからこその、妙に心地良いやり取りだ。会話を楽しんでいる自分に気づいて、狛枝はぐいと眉根を寄せた。本当に、苛々する。

「……あのさ、狛枝」

 常にない刺々しい空気を感じたのか、ふいに日向が切り出した。

「今日、何かあったのか?」
「……」

 静かな口調から察するに、心配して気遣っているのだろう。また左右田あたりが余計なことを言ったに違いない。狛枝が不機嫌なんだけどどうにかしてくれ、とかなんとか。

「何かって、何」

 意味不明だとばかりに、わざと肩をすくめてやる。

「要領を得ない質問に、答えられるわけないよね」
「わからないから訊いてるんだ」
「別に何もないよ。あったとしても予備学科には関係ないし、ボクみたいなゴミクズを気にする暇があるなら、希望の糧になることでも考えたら?」

 脳内で左右田を睨んで、狛枝はさらりと話を終わらせた。まだ何か言おうとする日向を制するため、指で背表紙を辿りながら話題を変える。

「そんなことより、本当に見つからないね。ここまで見つからないとなると、奥の方かもしれないから……前にある本、全部出しちゃおうか」
「奥? ああ……」

 本棚を覗き込んだ日向が、納得したように脱力した。棚にはそれなりの奥行きがある。手前の本の後ろにしまい込まれているなら、小さな文庫本は埋もれて見えない。

「お前、一体どれだけ溜め込んでるんだよ」
「ついでに返しに行くいい機会だし」

 文句じみた言葉を無視して、狛枝は何冊かまとめて本を出した。日焼けした古いハードカバーと、大判の図鑑。とりあえず足下の床に積み上げておき、後から分別することにする。

「返すって、あまり多いと持ってくの大変だぞ」

 日向は苦笑すると、倣って手前の本を出しては積み始めた。心理学や言語学読本、風景写真集、昔流行ったベストセラー小説、付録つきのミリタリー雑誌など、よく見なくても雑多なラインナップだ。そうして床に築かれてゆく歪な本の塔は、かなりの量になりつつある。

「これをお前一人で運ぶのは、ちょっと厳しいんじゃないか? 明日の昼以降でよかったら、俺も手伝うけど」
「いらない。台車使うから」

 遮るように、狛枝はきっぱりと断言した。不自然な拒絶をどう思ったのか、日向がじっと見つめてくる。

「……狛枝?」

 その視線を感じながら、狛枝は無言で唇を噛んだ。手伝うという申し出から、今日の昼前に見かけた日向を思い出したのだ。

 レストランの入口で、彼は書類を片手に罪木と話し込んでいた。大げさな身振り手振りで何やら説明する罪木に、屈託なく笑う日向。通りがかった小泉と西園寺にも向けられる、太陽のような笑顔。

 たったそれだけで、苛々した。今日狛枝を苛立たせている、一番の原因だった。日向が誰にでも優しく誰にでも笑顔で、仲間たちを慕い仲間たちに慕われていることが。

「……日向クン。今日は、罪木さんの手伝いをしてたの?」

 低く問いかけると、思いがけず詰問に似た口調になった。脈絡のない問いに、日向が首を傾げる。

「ああ。薬とか医療器具とかのリストを作ったんだけど、使いやすいように整理したいからって、罪木が」
「小泉さんと西園寺さんも一緒だった?」
「よく知ってるな、手伝ってもらったんだ。あの三人、なんだかんだ言って仲いいんだよな」

 一方的に罪木を罵倒する西園寺、ひたすら謝る罪木、それを宥める小泉。プログラム内と同様に、意外と微笑ましく気の合う三人を思い出したのか、日向がおかしそうに目を細めた。本人たちは否定するかもしれないが、傍から見れば良いバランスなのだ。

「日向クンは、みんなと仲がいいよね。みんな日向クンのことが好きだし、日向クンも、みんなのことが好きだよね。……みんな、平等にね」

 苛立ちを抑えて、狛枝は奥から文庫本を抜き出した。タイトルをなぞってから、ぱらぱらと捲る。間違いない、探していた推理小説だ。返答に困っているらしい日向を振り返り、無造作に差し出して。

「はい。見つかったよ、下巻」
「あ、ああ、ありがとう」

 日向は慌てて笑みを作ると、礼と共に手を伸ばしてきた。狛枝はひょいとそれを避けて、本を頭上に掲げてやる。

「ねえ。ボクのことも、みんなと同じように好き?」
「え」

 訊ねながら足を踏み出す狛枝に、日向が気圧されたように後退した。

「な、なんだよ、いきなり。当たり前だろ?」
「……へえ」

 そうだよね、と狛枝はまた苛立ちが煽られるのを感じた。日向にとって修学旅行のメンバーは、かけがえのない大切な仲間だろう。友情や信頼を抱くのは当然のことで、それは嘘偽りない純粋な好意だ。事あるごとに突っかかる狛枝に対しても、例外ではないはずだ。けれど。

「本当に?」

 苛立ちのまま、更に詰め寄る。同じ距離を後ずさった日向は、少しだけむっとしてみせた。

「嘘ついてどうす、わ」

 言いかけた途中で、すぐそばの本の塔が傾いた。日向が足を引っかけたのだ。つられた身体がバランスを崩し、ゆっくりと後方へ。

「日向クン!」

 予想外のことに驚いて、狛枝はとっさに彼の腕をつかんだ。だが支えるまでには至らず、引っ張られる形で前のめりに倒れ込む。どさどさと大量の本が落ちる音に、鈍痛と衝撃。近くにあった本の山を巻き込みながら、二人揃って無様に転んでしまったらしい。

「……だ、大丈夫、日向クン?」

 気がつくと狛枝は、仰向けの日向に乗り上げるような格好になっていた。日向は雪崩れた本たちの上、半ば背を反らして寝転んだ形だ。

「っい、って……悪い、狛枝」

 下敷きになった分厚いハードカバーの角が、背中や腰にごつごつと当たるのだろう。痛みに耐えるように眉根を寄せて、日向が手を伸ばしてきた。

「ちょっと、手を貸してくれないか」

 中途半端に仰け反っているせいで、うまく身体が起こせないらしい。不安げにこちらを見る目には、薄い涙が滲んでいる。泣き顔、とまではいかないが。

 ―――そんな表情を見るのは、初めてかもしれない。

 意識した途端、狛枝は寒気に似た何かが這い上がるのを感じた。愉悦だとおぼろげに自覚して、我ながら驚いた。痛みに目を潤ませた相手を見て悦に入るような、そんなサディスティックな趣味が自分にあっただろうか。あるいは、日向だからか。苛立ちの原因が彼にあることは間違いなく、だからそれを発散したくて、嗜虐的な思考に捕らわれるのか。

 内心で冷静に分析しながら、もっとそばで顔が見たくて覗き込む。と、日向がびくりと背中を震わせた。

「いっ……」

 どうやら肩甲骨か背骨あたりに、ちょうど本の硬い角が当たっているらしい。歪む彼の表情に、またさざ波のような悪寒が湧き上がる。狛枝はわざと体重を掛けて、強く押しつけてやった。

「ッ……何、やって」

 耐えられないほどではないが、無視はできない地味な苦痛なのだろう。睨みつけてきた日向を、狛枝は目を眇めて見下ろした。知らず、恍惚に口元が緩む。

「キミのそういう顔、初めて見たよ」
「……は?」
「なんか、ぞくぞくする」
「はあ!?」

 思いきり聞き返して、日向が身を捩ろうとした。だが動けば動くだけ新たな痛みが走るのか、青ざめた様子で息を引きつらせている。ただでさえ起き上がりにくい体勢に加え、狛枝が圧し掛かっているせいで、そう簡単には逃れることができないのだろう。

「痛い?」
「ちょ……い、痛いに決まってるだろ、どけよ」
「あはっ、そんなに痛いの?」
「おおお落ち着け、マジで痛、っ」

 肩に置いた手にわずか力を入れるだけで、組み敷いた身体が小さく跳ねる。獲物を捕らえた肉食獣の気分で、狛枝は深く息を吐いた。

 今日罪木たちと談笑する彼を見て、改めて思い知った。日向は誰にでも公平に、優しく接して笑いかける。分け隔てなく振り撒かれる、親しみを込めた同じ笑顔。そんなものはいらない。自分は日向に負の感情しか向けていないのだから、平等の好意など返さなくていい。他とは違う、区別されるべき存在だ。だから。

 だから、誰も知らない日向を欲した。仲間たちには見せたことのない、表情や態度を引き出そうとした。冷たくあしらって嫌味を言って皮肉を投げて、傷ついたような呆れたような少しだけ悲しそうな、そんな顔に優越感を覚えた。これは日向が自分だけに向ける感情で、自分だけが知る日向なのだと。

「いっ……もうやめろって、狛枝」

 無意識に両手に力を込めていたらしく、懇願に似た悲鳴が上がる。そむけられた顔を陶然と眺めたとき、日向が弱々しく呟いた。

「お前が俺のこと嫌いなのは、わかったから……」
「……嫌い?」

 狛枝はきょとんとして、思わず繰り返していた。口にすることで噛み締めると、じわりと意味が広がった。

 嫌い。そう、嫌いだ。日向がプログラムでも現実でも変わらず、自分のようなゴミクズに優しくしてくれるからだ。優しくしないでほしいのに。そんな風に笑顔を向けられても、勘違いして増長して贅沢になってしまうだけなのに。

「……そうだよ。ボクは、日向クンが嫌いだ」

 言いきる強さとは裏腹に、言葉は淋しさを孕んで落ちた。日向もそれがわかったのか、目を丸くして狛枝を見上げてくる。驚いたように、気遣うように、真意を測ろうとするかのように。まっすぐ突き刺してくる、綺麗な瞳。

 ―――ああ、苛々する。

「なんで……なんでボクがキミなんかに、こんな思いをしなくちゃならないわけ?」

 文句をぶつけて、狛枝は日向の両目を右手のひらで塞いだ。見たくないし、見られたくない。きっと今の自分は、途方に暮れた子供の顔をしているだろうから。

「お、おい、狛枝?」

 日向は無理に手を外そうとはせず、困惑した口調で呼びかけてくるだけだ。どうしたんだ狛枝、本当に大丈夫か?などと心配する声を、どこか遠いところで聞いた気がした。

 嫌いだ。わけのわからない感情を植えつけていった、日向が嫌いだ。何の才能もないくせに、こんなにも心をかき乱す日向が。それに気づかず笑ったり話しかけたり、他の仲間と同じように接してくる日向が。

「……大嫌いだよ」

 断言と共に、狛枝は目の前の唇に噛みついた。柔らかな感触と、くぐもって詰まる息。手のひらの下、大きく瞠目する気配。

 思い知れとばかりに、強引に舌を捻じ込んでやる。このどうしようもない衝動が、熱を通して伝わればいいと思った。












ボクはキミが嫌いだ
20131129UP


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