「日向クン。ボクと、友達になってくれる?」 わずかに震えた狛枝のその言葉は、一世一代の告白といっても過言ではなかった。 波の音が響く、誰もいない午後の砂浜。対する日向はぽかんと口を開けて、時を止めたように固まったままだ。 「……」 しばらく、無言で見つめ合う。永遠にも感じられる沈黙に、狛枝はいっそ逃げ出したくなってきた。もしかして、不快に思われただろうか。勇気を振り絞って切り出してはみたものの、次第に不安と恐怖が押し寄せてくる。 「ごっごごごごめん日向クン!」 日向が何か言おうとするのを感じ取って、狛枝は慌てて遮った。ここで断るとか嫌だとか、拒否する返事を聞くことになれば、ショックのあまり卒倒してしまいそうだ。 「ごめんね、ボクなんかがキミと友達になりたいと思うなんて、おこがましいにもほどがあるよね。日向クンにはもうたくさん友達がいるし、こんなゴミクズがその輪に入ろうとするなんて迷惑だよね、贅沢だよね、身の程知らずだよね」 早口で言いながら、無意識に後退する。今なら間に合う。笑ってごまかしてなかったことにすれば、単なる修学旅行のメンバーとして、これまでどおり振る舞うことができる。 そうだ、本当は現状維持でも十分なのだと、狛枝は自分に言い訳をした。超高校級の才能を持つ仲間たちと、ひたすら平和でほのぼのとした共同生活。焦らなくても、旅行の日程はまだ残っている。大した不運も訪れることのない、そんな幸せな日々を過ごせるだけで満足すべきなのだ。 けれど人間というものは貪欲だと、我ながら痛感する。今まで周囲に誰もいなかった自分に、初めて行動を共にする仲間ができた。彼らなら狛枝の不運に巻き込まれたり、振り回されたりすることもないはずだ。何故なら彼らは絶対的な希望だ。愚劣で矮小で下らない、自分ごときの才能に影響されるわけがないのだ。 ゆえにここでなら友達ができるかもしれないと、高望みをしてしまった。ゴミクズの自分が希望たる彼らと友達になろうなど、おこがましいにもほどがある。そう思って、一度は諦めようとしたのだ。だがそれでも『仲間』から更に一歩進んだ『友達』という存在は、ずっと憧れつつも決して手に入らなかったもので、それこそファンタジーのような概念で、雲の上の尊い何かで―――。 「……日向クン?」 まだ呆然としている日向に、狛枝は恐る恐る声を掛けた。共に過ごす時間が一番多いのは日向だし、自分の話をよく聞いてくれるのも日向だ。だから彼ならもしかしてと、一縷の望みを持ってしまったのだが。 友達になりたいと思っても、相手に拒まれてしまえば成立しない。やはり自分のようなゴミが友人を欲すること自体、間違っていたのだ。 「あの……ごめんね?」 「あ。ああ、悪い」 日向は我に返ったように、ぱちぱちと瞬きをして表情を緩めた。 「ちょっと、びっくりしてた」 自失するほど驚いたということは、予想もしていなかったからだろう。所詮は分不相応な願いだったのだと、狛枝は息が詰まりそうになった。とにかくもう一度謝罪を重ねて、忘れてほしいと言おうとした時。 「だって俺は狛枝のこと、もうとっくに友達だと思ってたからさ」 言って、日向が屈託なく笑った。え、と狛枝は言葉を失った。今度こそ、息を詰まらせてしまった。 もうとっくに、友達だと思ってたからさ。友達だと。友達。ともだち。 日向の言葉が繰り返し繰り返し、頭の中で反響する。そのうち祝福の鐘の音や花吹雪までもが混じり始めて、これは夢なのだろうかと疑った。なんて幸せな夢を見ているのだろうと、思わず拳を握り締める。爪が手のひらに食い込む、小さな痛み。夢じゃない。 「ひ、日向クン……本当に?」 「ああ。というか友達になってくれるかどうかなんて、わざわざ訊くものじゃないと思うんだけど……」 照れた様子で呟いている日向に、後光が差して見える。急に目の前が明るくなった気がして、狛枝は感極まって身悶えた。崇めて拝んでひれ伏したくなってしまった。 自分が言い出すよりも前から、日向は狛枝を友達だと思ってくれていた。だがそうすると、自分は彼を友達だと思えていなかったことにならないか。 「ごめん日向クン!」 それはそれで何様だ、傲慢だと、狛枝は慌てて身を乗り出した。免罪符にもならないだろうが、とにかく言い訳じみた説明を並べ立てることにする。 「あのね、ボク今まで友達らしい友達なんていたことなかったから、どうすれば友達ができるのか、どこからが友達なのか、そういうことが全くわからなくて、だからその、キミのこと友達だと思ってなかったわけじゃなくて、あの、ご、ごめんね?」 何をどう謝ればいいのか悩むうち、結局しどろもどろになってしまった。パニックに陥った狛枝を見て、日向がおかしそうに笑う。 「いや、謝る必要なんてないって」 「でも……」 「どこからが友達かなんて、俺もよくわからないしさ。とりあえずお互いがお互いのこと友達だと思ってるなら、もう友達でいいんじゃないか?」 そう言ってくれる日向の笑顔は、太陽のように明るく眩しい。嬉しさのあまり気が遠くなりながら、狛枝は緩く首を振った。 「そ。そう、なのかな。なんだか、信じられないよ」 誰かと友達になれるなんて、それが日向だなんて。自分で望んで訊ねておきながら、本当に夢のようだ。笑みを引きつらせている狛枝に、日向は少し思案顔になった。 「だったら、握手でもしておくか?」 「あ、あくしゅ?」 「ほら、なんていうか……友達になったんだっていう確認とか、誓いみたいな感じで」 「う……うん、ありがとう日向クン!」 照れ臭そうに差し出された右手を、狛枝は飛びつくようにして握り込んだ。握手なんて初めてだ。こんな幸運、今すぐヤシの実が降ってきたり、突風が吹いて飛ばされたり、いきなり波にさらわれたりしてもおかしくないというのに。 知らず首をすくめて身構えるが、しばらくしても何も起こりそうにない。やはりこれは日向が希望だからだ。絶対的な希望は、狛枝の不運など物ともしないのだ。 「嬉しいな。これでボクたち、友達なんだね!」 「ああ、そうだな」 勢いに気圧されながらも、日向が微笑で頷いてくれる。ぶんぶんとその手を振って、狛枝は改めて喜びを噛み締めた。 友達。友達なのだ。ずっと不運が怖くて、それに巻き込んでしまうのが怖くて、意図的に人を避けていた自分の、初めての。 「あ。それでね、日向クン」 手を握ったまま、ふいに以前からの疑問を思い出す。この際訊ねた方がいい、いや訊ねておくべきだと、決意して口にした。 「えっと。友達になったら、どうすればいいのかな?」 「……へ」 正に鳩が豆鉄砲といったように、日向が目を丸くする。にこにことその顔を眺めながら、狛枝は無邪気に答えを待った。 友達って、何だろう。そんな疑問に頭を悩ませた狛枝は、ろくに眠れないまま翌朝を迎えてしまった。 物心ついた頃から、友達などいた記憶がない。近くにいればいるほど不運の影響を受けやすいせいで、誰もが狛枝から離れていった。不吉だ死神だなどと言われ、そのうち周囲には誰もいなくなった。両親も飼い犬も死んだ。財産目当てにちやほやしてきた名前も知らない親戚も、次々と不幸に見舞われていった。 やがて自ら他人を避け、独りでいることを選ぶようになった。制御できない己の才能から他人を守るため、そして己自身を守るため。自分は友達や仲間どころか、知り合いさえ作ってはならないのだと。 『友達』という存在を、狛枝は書物や映像から得た知識でしか知らない。友達になりたいと思う感情を自覚できても、友達とは何かという定義はできても、それは辞書に並んだ言葉の羅列だ。身近なものとして、具体的に理解ができないのだ。 だから改めて日向とそうなれた今、どう接していいのかわからなくなっている。日向は別に今までどおりでいいと笑ってくれたが、そもそも今まではどうしていただろう。意識すると、かえって身動きが取れなくなった。友達という枠に囚われてしまうなど、考えもしなかった。これまで何も気にせず、自然に隣にいることができたのに。せっかく手に入れた友達なのに。ずっと友達でいたいのに。嫌われたくないのに。 「こんなことならいっそ、友達になんて言い出さなきゃよかったのかな……」 ぽつりとひとりごちて、狛枝は手にしたおでかけチケットを弄んだ。今朝日向に渡されたそれは、午後から出かけようと誘われたものだ。 その日向は少し離れた入口付近の席で、左右田や九頭龍たちと遅めの昼食を食べている。採集の担当場所によって戻ってくる時間が違うため、昼食はその日の班ごとに取るのが常だ。今日の狛枝は掃除担当で、食事も一人で先に終わらせた。そのままなんとなくレストランに残り、なんとなく日向を待つ形になっている。昨夜の寝不足が祟って、少し虚ろにぼんやりしながら。 どうしよう、とまたチケットを弄ぶ。間違って余計なことをして愛想を尽かされてしまうくらいなら、自ら距離を置いた方がいいのだろうか。それでは、友達になった意味がなくないか。友達になったら何をどうすればいいのか。大体、友達とは何だ。ああほら、また疑問が堂々巡りだ。 「そしたら、そこで日向がさあ」 ふと聞こえてきた大きな声に、狛枝は顔を上げた。日向の肩を抱き寄せるようにして、左右田が何やら愚痴を零している。日向を挟んで逆隣にいる九頭龍は、身を乗り出して呆れ顔だ。 「オイ、別に日向のせいじゃねーだろうが」 「ちげーよ、日向が邪魔しやがったんだって」 「テメーが勝手に自爆しただけだ。気にすることねーぞ日向」 「いいや違うね責任取れよ日向!」 日向は左右田にぐらぐらと揺らされ、九頭龍にネクタイを引っ張られているが、苦笑しつつも楽しそうだ。何の話かよくわからないが、どうせまた仲睦まじい田中とソニアの間に、左右田が無理やり割って入ろうとでもしたのだろう。そのとばっちりを受けた日向を、目撃者である九頭龍が擁護している、といったところか。 経緯を想像しながら、狛枝は左右田と九頭龍を羨んだ。あの気軽で微笑ましいじゃれ合いが、世間一般でいうところの『友達』に違いない。思って、何故かちくりと胸が痛んだ。 日向には、友達がたくさんいる。自分もその一員になりたいという、願いはかなえられたはずだ。それなのに、この疎外感は何だろう。もやもやとした気持ちは何だろう。独占欲? まさか。 「ちょっと、狛枝」 「え」 呼びかけに、狛枝ははっと我に返った。気がつくと目の前に小泉が立っていて、どうやら少々うとうとしてしまっていたようだ。いつの間にか全員が食事を終えているし、左右田と九頭龍の姿もない。日向は後片付けを手伝うつもりか、花村と皿を運んでいるのが見える。 「ぼーっとしてるけど、大丈夫? 体調が悪いなら、コテージに帰って休みなよ?」 「あ……うん。ありがとう、小泉さん」 思いのほか、昨日の睡眠不足が堪えているらしい。笑顔を作った狛枝は、頭を振って立ち上がった。 「おねぇ!」 そこへぱたぱたと駆け寄ってきたのは西園寺だ。人懐こい子犬のように、笑顔で小泉に抱きついて。 「ほら、早く行こうよ!」 「はいはい」 二人は共に出かけるらしく、どこへ行こうかと相談しながらレストランから出ていった。彼女たちも自他共に認める友達同士だろうと、狛枝はその後ろ姿を見送った。 ぼんやりと移動させた視線の先では、後片付けを終えた日向と花村が立ち話をしている。聞こえてくる会話から、日向が和菓子の作り方を訊ねているのだと推測できた。 「ンフフ、今夜にでもぼくのコテージで手取り足取り腰取り教えてあげるよ?」 「いや、コテージじゃなくていい。というか腰関係ない」 「甘いね日向くん、世の中は等価交換だよ! ぼくが特別に草餅を御馳走してあげるから、きみも何か特別なものを差し出すべきだよさあさあさあさあ!」 「ちょっ……待て、俺はレシピを教えてほしいだけで、別に御馳走してほしいってわけじゃなくてだな!」 花村はいつもの軽い調子で、日向に纏わりつくようにして迫っている。日向は若干引き気味とはいえ、やはり笑っていて楽しそうだ。少々逸脱しているような気はするが、あれも友達と呼ぶに相応しい関係だろう。 自身の関わらない誰かと誰かなら、『友達』がどういうものかなんて簡単にわかるのに。まるで己だけ切り離された別世界にいるような、見えない壁に阻まれた気分だ。 「……あ」 知らず渋面になっていた狛枝は、ふと気がついて小さく声を上げた。見えない壁。そうだ。彼らと自分の決定的な違いは、もしかすると物理的な距離にあるのではないだろうか。 思えば日向と最も近づけたのは昨日の握手で、それが初めてだったような気がする。ならばひとまず、他の仲間たちを倣ってみるのも手かもしれない。例えば左右田のように肩を抱いたり、九頭龍のように顔を近づけたり、西園寺や花村のように抱きついたり。先ほどの日向自身や小泉同様、日向は苦笑混じりに受け止めてくれるはずだ。だって、友達なのだから。 とにかく皆の真似をすれば間違いはないだろうと、狛枝は密かに決意した。接し方がわからないならわからないなりに、友達らしいことをしてみればいいのだ。 「悪いな狛枝、待たせた」 「日向クン」 申し訳なさそうに駆け寄ってきた日向に、狛枝は慌てて笑顔で応えた。じゃあまたね、と花村が明るく手を振りながら階段を下りてゆく。日向は適当に手を振り返すと、ため息混じりに頭を掻いた。 「ったく、相変わらずだな花村の奴」 「話はもういいの?」 「ああ、今度草餅のレシピを教えてもらいに……ってお前、なんか調子悪そうだけど大丈夫か?」 「え? そ、そうかな」 いきなり心配されて、狛枝は少しうろたえた。寝不足の自覚はあるが、小泉や日向に気遣われてしまうほど顔に出ているのだろうか。 「体調が悪いなら出かけるのはやめて、一応罪木に診てもらった方が」 「ひ、日向クン!」 考え込んでいる日向の独り言を、狛枝は強引に阻んだ。体調不良でも寝不足でもなんでも、これからはできるだけ日向と一緒にいたい。せっかく友達になれたのだから、彼との時間を大切にしたいのだ。 そんな衝動のまま、きょとんとしている日向に手を伸ばす。そうして、半ば倒れ込むように。 「うおわッ!?」 抱きついた途端、日向から驚きの悲鳴が上がった。あまりにも頓狂な大声に、狛枝は一抹の不安に襲われた。とっさに西園寺や花村を真似てみたものの、身長のせいか抱きつくというより抱きしめる形になってしまった。唐突すぎただろうか。もしかして、間違ってしまっただろうか。 「な、なんだよ、どうかしたのか?」 だが後悔も一瞬だった。日向は戸惑ったように言いながら、狛枝の背中をぽんぽんと叩いてきた。あれ、と今度は狛枝が戸惑う番だった。 てっきり苦笑して受け流されると思っていたが、子供をあやすようなこのリアクションは予想外だ。返答に悩んでわずか離れると、焦点が合うぎりぎりに日向の顔が見えた。 「ん?」 促すように、日向が首を傾げる。その仕草に、何故か鼓動が大きく跳ねた。 「あ。え、えっと、その」 とにかく何か言わなければと視線をさまよわせるも、うまく言葉が出てきてくれない。この後、どうすればいいのだろう。西園寺や花村はどうしていただろう。 「なあ、本当に大丈夫か?」 狛枝の腕の中で、日向は不思議そうにこちらを見ている。伝わるぬくもりが妙に心地良くて、どんどん頬が熱くなってくる。 「顔赤いぞ。やっぱり罪木呼んでこようか?」 「え、や、ううん、大丈夫」 覗き込まれると、更に熱が集まった気がした。自らの心臓の音が妙にうるさく、胸が苦しい。呼吸がし辛いのは、二人の距離が近すぎるせいか。 「その、ちょっと、睡眠不足ってだけで……」 戸惑いながらも、狛枝は笑って首を振る。当たり障りのない言い訳だったが、かえって心配させてしまったらしい。日向は眉根を寄せて、とりあえずコテージに戻ることを提案した。 「だったら、少しでも寝ておいた方がいい。明日も採集だからな」 「でも、せっかくキミにおでかけチケットもらったのに……」 「んー。それじゃ、今日のおでかけはお前のコテージってことでいいんじゃないか?」 付き合ってやるからと明るく言って、日向が微笑む。ああまたあの笑顔だ、と狛枝は息を呑んだ。太陽のようにあたたかくて、眩しくて、見る者全てを和ませるような。 「日向クン……」 呟いて噛み締めると、胸がいっぱいになった気がした。その笑顔が好きだと思った。以前からずっと好きだった。好き。―――好き? 初めて浮かび上がったその単語に、一瞬だけ思考が停止する。いや、別に何もおかしくはない。好きだと思うのは当然だ。だって、日向は友達なのだから。―――友達? 「ほら、行くぞ」 笑顔のまま、日向が身じろぐ。反射的に離すまいとして、狛枝は抱きしめた手に力を込めた。ほとんど無意識だった。 「……狛枝?」 不審げに、日向がまた見つめてくる。緑がかった瞳に、途方に暮れた自分の顔が映っている。そう、友達だ。友達。友達なのに。 「こ」 狛枝、と言いかけたのだろう呼びかけが途切れた。大きく見開かれた日向の目が、恐ろしく至近距離に見えた。気がつけば狛枝は、唇でその唇を塞いでいた。先ほどと同じく反射的で、無意識だった。 何をしているのだろうと、遅れた自覚が他人事のように降りてくる。磁石のごとく引き寄せられたまま、沈黙に凍りついてゆく時間。かすかに動いた唇の隙間から、何も考えず舌を挿し入れる。言葉を奪うために。 「んんッ!?」 瞠目したきり固まっていた日向が、びくりと肩を跳ね上げた。抵抗に突っ張られた腕を阻むべく、狛枝は覆い被さるように角度を変える。また日向が跳ねる。構わず後頭部を固定して、奥にいた舌に触れて、絡め取って吸いついて唾液を混ぜ合わせて押し込んで。 「……っふ、ぅ」 日向はそれ以上拒もうとはせず、ただ耐えるように固く目を閉じている。あまりのことに思考が追いつかないだけに違いない。薄く開いた視界でそれを確かめると、狛枝の理性が疑問を反芻した。 本当に、自分は何をやっているのだろう。日向は友達だ。友達にこんなことはしないはずだと、それくらいの判断はできる。親愛を伝える軽い接触ならまだしも、こんな、情欲を煽るような口づけなど。 「ん……も、や……狛、えっ……」 何度も繰り返す合間に、日向が弱々しく呻いてきた。そのかすれた吐息と濡れた音と、ホテル外の賑やかな笑い声が重なった。あれは澪田か終里だろうか。ハムスターと遊んでいるソニアかもしれない。何やら難解な言葉を並べているのは田中で、怒鳴っているのは左右田だろう。どの声も遠く、また見えない壁で隔離されたかのようだ。 だが今度は独りではなく、こちら側に日向がいる。二人きりの世界を実感して、狛枝は薄暗い悦びを感じた。今の彼は紛れもなく、自分だけのものだ。そう思うと、唐突に理解が降りてきた。 友達になりたかった。友達だと思っていた。その気持ちに偽りはないが、それでは足りない。独占欲が付随するほど望んだのは、友達以上の特別だ。他の仲間たちとは違う、唯一の。 「……ひ、なた、くん」 散々貪ってから離れると、互いにすっかり息が上がっていた。濡れて艶めいた色が名残惜しくて、もう一度軽く唇を舐める。日向は身体を震わせてから、潤んだ目を向けてきた。明らかに困惑したその様子に、狛枝は少し微笑んでみせた。 「昨日も言ったけど……友達って何をどうすればいいのか、ボクにはわからないんだ」 逃げないでほしいという思いを込めて、両手でそっと頬を挟み込む。 「ねえ、こんなことしたら友達じゃなくなっちゃう? キミを独り占めしたいなんて、友達に対する感情じゃないのかな? じゃあどこからが友達なの? どこまでが友達なの? 触れたいとかキスしたいとか抱きたいとか抱かれたいとか、そういう欲望を自覚した時点でそれはもう友達じゃなくて、だったらボクはキミと友達なんかじゃいられなくて、でもボクはキミと友達でいたくて、だから……」 話しているうちに涙が滲んできて、狛枝は言葉に詰まってうつむいた。何を言っているのか、何が言いたいのか、後悔ばかりが先立って混乱する。友達でいられる境界線がわからない。あるいはもうそんなものはるかに飛び越えて、友達の資格など失っているのかもしれない。 『友達』はもっと明るくて綺麗で、きらきらと輝いているものだと思っていた。だが、それ以上を望むこの感情はどうだ。汚くて醜悪で、まるでどろどろと渦巻くヘドロのような。 「……あのさ、狛枝」 日向はしばらく呆然としていたが、やがて大きなため息を吐くと、無造作に手を伸ばしてきた。驚く狛枝に構わず、慰めるかのように頭を撫でて。 「なんかお前って時々、本当に子供みたいだよな」 「わ、ひっ、日向クン?」 苦笑しながら、乱暴に髪をかき乱される。何が何だかわからないでいると、軽く頭を叩かれた。 「言っただろ。お互いがお互いを友達だと思ってるなら、それでいいんだって。狛枝は俺のこと、友達だって思ってくれてるんだよな?」 「そ。そうだけど、でも」 「でも、なんだよ。もう友達じゃないって思うのか?」 「そ……それは……」 少しだけ怒ったように訊かれて、激しい戸惑いが駆け抜けた。たった今、友達ではありえないような、友達でいられなくなるようなことをしてしまった。その自覚だけはしっかりとできている。けれど。 「思……わ、ない……」 けれど、友達でいたい。友達でいてほしい。特別とか、唯一とか、贅沢はいわない。許されるならこの修学旅行中だけでなく、終わった後もずっと、ずっと。 「だったら、それでいい。俺たちは友達だ」 にっこりと、日向が笑う。その断言と笑顔に、狛枝は心臓を鷲掴みにされた気がした。ああボクはなんてずるいんだろうと、自嘲と卑下がない交ぜになった。本当はわかっている。わからないふりをしている。奥底で淀む感情の名前を、その正体を。 だがそれでも、友達でいたいと願った。己の衝動など抑えつけて押し殺して、そうやって嘘をついて日向の優しさにつけ込んで、そんな醜い自分を痛いほど認識していながらも。 今は友達としてこのまま、そばにいられるだけで。 「はあ……っていうか、なんでキスなんか……初めてだったのに……」 ぼそりとひとりごちて、日向が唇を擦っている。聞きとめた狛枝は、嘘、と目を見開いた。 「え、待って日向クン、初めてって……本当に?」 「うっ、嘘ついてどうするんだよ」 日向は一瞬だけしまったというような顔をしたが、すぐに開き直ったのか、むっとして言い返してきた。睨みつけるその赤くなった頬に、ほのかな歓喜と優越感が湧き上がる。では陶然と蕩けてゆく表情も声も、唇や舌の柔らかさも甘さもその熱も、知っているのは狛枝だけということになる。 「……なんでにやにやしてるんだ」 「し、してないよ」 「してるだろ!」 「いひゃい!」 両頬をつまんで引っ張られて、狛枝は不明瞭な悲鳴を上げた。変な顔、と日向がからかってくる。悔しくなって、狛枝も日向の頬をつまんでやる。キミも変な顔だし、いやお互い様だろ、などという不毛な言い争いの後、しばらく牽制するうち馬鹿馬鹿しくなった二人は、やがてどちらからともなく吹き出した。 「あはっ、ひ、日向クンの顔、面白すぎて……」 「ちょっ……はは、それより狛枝、お前の髪型、なんかものすごいことになってるぞ」 「こ、これはさっき、キミがぐちゃぐちゃにしたからっ……」 おかしさのあまりふらついた身体を、笑いながら互いに支え合う。笑いがまた笑いを誘い、本気で呼吸困難に陥りそうになった。こんなに楽しく笑ったのは久しぶりだと思った。 笑いすぎてぼやけた視界に、まだ笑い続けている日向の姿が映る。今の自分たちは、ちゃんと友達に見えているだろうか。他の仲間がここにいたら、友達同士として見てくれるだろうか。たとえ片方が友情以上の何かを持て余し、燻る澱を抱え込んでいても。 「……ねえ、日向クン」 ひとしきり笑ってから、狛枝は息を整えて呼びかけた。大きく深呼吸をして、右手を差し出して、改めて確認と誓いの握手を求める。せめて、彼には悟られないように。 「ボクたち、友達だよね」 本当はとっくに足を踏み出している、その境界線を越えないように。
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