ドアチャイムの音に、日向は手を止めた。

 気がつけば無心で作業していたらしく、パソコンの表示は二十三時過ぎ。日付が変わるまでには終わらせる予定だったが、この調子では間に合いそうにもない。

「はいはい」

 もう一度鳴ったチャイムに、おざなりに返事をして立ち上がる。一旦中断するべくファイルを保存していると、ふとメールの受信に気がついた。

 上からの連絡事項だろうか。そう思って手を伸ばしかけたが、急用ならチャットを繋いでくるはずだ。後で確認すればいいと、日向はパソコンをそのままにドアに向かった。三度、チャイムが鳴る。

「……遅いよ」

 扉を開けると、黒いスーツに見慣れたコート姿の狛枝が立っていた。ぼそりと言って仏頂面で睨んでくる様は、なんだかものすごく不機嫌そうだ。

「なんですぐ出てこないのさ。まだ仕事終わってないの? さすが元予備学科の凡人だよね、今日のノルマを今日中に片付けることもできないなんて」
「ああ、悪かった。何か用か?」

 いつもどおりの皮肉をよそに、日向は笑顔で受け応えた。別にとあしらいながらも、狛枝は強引に踏み込んでくる。日向を押しのけるようにして、まるでここが自分の部屋であるかのごとく。

「ああもうまったく、忙しすぎて嫌になるよ……書類は山積みだし、上層部は相変わらず無駄な会議を入れてくるし。しかもなんでこういうときに限って、本部サーバーでメンテナンスがあるんだか」
「メンテは仕方ないだろ、前から予定されてたことなんだから。いきなり不具合が出て、重要書類が消えてしまうよりは……」
「そんなのわかってるよ。これは独り言だから。キミの意見は求めてない」

 狛枝はふんと鼻を鳴らすと、身を投げ出すようにソファに座った。つまりは愚痴を零しにきただけか。日向は肩をすくめて、内心でこっそり笑った。

 本部から押し付けられる事務仕事は溜まる一方で、日向もそれなりに忙しい。だが狛枝は更に加えて、今日もまた会議が入ったようだ。ビデオチャットを使った簡易的なものとはいえ、上はそうやって行動を制限し、監視しているのかもしれない。それにしても。

「連日会議ってのは、ちょっとやりすぎだよな」
「……まあね」

 頷いて、狛枝はため息混じりに天井を仰いだ。珍しく疲労困憊といった様相で、無言のまま目を閉じる。わざわざコテージを訪ねて捌け口を求めるほど、ストレスが溜まっているのだろうか。

 無理もないかと、日向は彼を横目にパソコンデスクに戻った。特にここ最近、上層部の動きは異様に感じる。会議と称して狛枝ばかりを指名したり、議題が何であろうとしつこく突っかかってきたり。

 まるで重箱の隅を突いているかのようだと、議事録を見て呆れたことを思い出す。自分たちが要注意人物であることは、二人とも納得しているのだが。

 絶望を乗り越えた十五人全員を、未来機関は第十四支部の一員として受け入れた。本部の要請で、既に十三人がジャバウォック島を出て各地で活躍している。稀に帰島するメンバーもいるが、基本的に彼らの拠点は本土だ。

 希望ヶ峰学園の負の遺産であるカムクライズル―――日向創は、継続監視対象として島の常駐を命じられた。学園にいた頃から問題児とされていた、狛枝に対しても同様だった。よく言えば保護、悪く言えば管理・軟禁、この島は監獄代わりってところかな。狛枝はそう言って笑っていた。

 日向は人工的に得た才能を全く発揮できず、カムクライズルであるという自覚もない。血のように赤かった瞳が元の色に戻り、邪魔な長髪を短く切った今は、カムクラだった面影も消えている。

 狛枝は目覚めたばかりの頃は荒れていたものの、今やすっかり落ち着いて、過剰に希望を求め暴走することもなくなった。彼曰く『元予備学科なんかと二人きりで暮らさなければならないという大きな不運のおかげ』で、それなりに平和な日々を過ごすこともできている。

 確かに二人とも絶望に堕ちた大罪人ではあるのだが、プログラムによる更生は成功しているといえるだろう。ゆえに何故いまだ危険視されるのか、よくわからないのが本音だった。

 気にすることはないよと、上司である苗木は笑っていた。上の人はキミたちを怖がってるだけなんだ。時間は掛かるかもしれないけど、ボクたちが頑張って説得してみせるから。

 そうして島に二人きり取り残されて、早一年余。

 未来機関が支部を置いた時点で、ジャバウォック島のインフラは整備されている。機械類は左右田が時折帰ってくるついでにメンテナンスしてくれるし、定期船による機関からの支給で食料に困ることもない。苗木の尽力のおかげか、島中にあった監視カメラもほぼ撤去された。一日一度の現状報告は義務付けられているが、定期連絡だと思えば特に負担ではない。最初は不安だった狛枝との生活も、思いのほかうまくやっていけているつもりだ。

 彼は相変わらず元予備学科だの人工希望だの、顔を合わせれば棘を含んで冷たく当たってくる。とはいえ真っ向から文句をぶつけられる唯一の相手なのだと思うと、日向も無下にはできない。口では色々言いつつもおとなしく従ってくれるし、頼りにされていると感じることもあるし、その程度で気が晴れるなら安いものだと慣れてしまった。なによりも。

 なによりも、狛枝がここで生きているということ。無愛想でも皮肉混じりでも、日向と共に平穏な毎日を送ってくれていること。それが友人として仲間として純粋に嬉しくて、不器用な彼のコミュニケーションだと思えるようになっていた。

「はあ……」

 深いため息を吐きながら、狛枝はソファに身を沈めている。不健康そうな肌は一層青白く、目の下にうっすらと隈もあるようだ。あからさまに表には出さずとも、疲労はさすがに果てしないに違いない。

 狛枝に対する上層部の風当たりが強くなってきたのは、前回の会議からだった。

 会議といっても多人数チャットを繋いだ報告会のようなもので、そのときはたまたま狛枝がジャバウォック島の担当をした。だが監視対象である狛枝と日向に関して、本部では根も葉もない悪い噂が広がっていたらしい。そもそも二人が絶望の残党であった事実をよく思わない者もいまだに多く、上はここぞとばかりに目の敵にしてきたという。

 そんな中、狛枝は毅然と対応した。復興計画を巡って舌戦と化したときは、ぐうの音も出せないほど完璧に言い負かしてしまったらしい。ゆえに上層部はむきになっているのではないかというのが、苗木や霧切の見解だ。苦笑しながら話していたから、彼らは彼らで上司たちの職権乱用に困り果てているのかもしれない。

 狛枝はいっそ嫌味なほど口が達者で、日向は身をもってそれを知っている。コロシアイ修学旅行の学級裁判のような、あんな調子で手玉に取られたなら、確かにお偉方の面子に関わる大失態だといえるだろう。議事録と人伝にしか知らないが、容易に想像できることだった。

 急遽捩じ込まれた今日の会議も、どうせ上の対抗心と意地とプライドの産物に違いない。そんな下らないことで無駄に時間を費やすくらいなら、機関本来の仕事に集中してほしいものだ。随分と落ち着いてはきたものの、世界情勢はまだまだ不安定なのだから。

「今日は早く休んだ方がいいんじゃないか?」
「んー」

 気を遣って提案してみるが、狛枝は目を閉じたまま生返事を寄こすだけだ。ここに泊まるつもりか、労いの言葉でもかけてやるべきか。日向は少しだけ考えて、すぐにやめた。どうせ反発されたり嫌味を言われたり、素直じゃない対応は目に見えている。眠ってしまった場合は、後でベッドに運んでやればいい。

「あ、そうだ」

 狛枝は思い出したように身を起こすと、ポケットから透明な瓶を取り出した。

「はい、これ」
「何だよ?」

 瓶を示す狛枝に、日向は首を傾げながら近づいてみる。中身は無色の液体で、ラベルのアルファベットはVODKA。

「ヴォ……あ、ウォッカ? 酒かよ」
「おつまみはないけど、別にいいよね」

 このご時世には珍しく、れっきとした正規品のようだ。世界が崩壊する前に製造された物だろう。

「どうしたんだ、それ。飲めるのか?」
「未開封の新品だし、保存状態も悪くなかったみたいだし、大丈夫だと思うよ。レストランの調理場で拾ったんだ。きっと、ここがリゾート地として賑わってた頃の忘れ物だね」
「拾ったって、お前な……」

 ホテルにあるレストランは、コテージや中央島の施設と共に未来機関が整備済みだ。とはいえプログラム内と違って、きちんと整理整頓されているわけでもない。よく見つけたなと思ったが、恐らくあり得ない確率の偶然に違いない。

「山積みの書類に追われつつ上司にいびられるという、今日の不運の代償かな」

 狛枝はこともなげに言って、軽く瓶を振ってみせた。自身と他人の命に関わるほど振り回されることはなくなっても、些細なところで彼の才能は健在らしい。

「飲もうよ。ボクたちもう二十歳超えてるんだから、何の問題もないでしょ」
「それは、そうだけど」
「仕事のストレスも、たまにはお酒で発散しないと」
「あ、おい!」

 言うが早いか、狛枝はさっさと蓋を開けてあおってしまった。ウォッカの正しい飲み方など知らないが、ラッパ飲みはやりすぎだろう。彼が酔っ払って前後不覚になった場合、介抱するのは自分しかいない。

「わ」

 慌てて止めようとした日向は、唐突に腕を引っ張られて狛枝の上へ倒れ込んだ。そのまま強引に唇で唇を塞がれ、更に無理やり酒を流し込まれる。喉から臓腑へと下りてゆく、火傷に似た熱。

「な、何やって……!」

 げほげほと咳き込みながら口元を拭おうとするが、また腕をつかんで阻まれた。

「何って。わからない?」

 日向の口端から零れた酒を舌ですくいながら、狛枝はにっこり笑ってみせる。

「誘ってるんだよ。それくらい、察してほしいなあ」
「……どういう誘い方だ」

 呆れて睨みつけるも、日向は早くも頭が痺れ始めるのを感じた。なに、と狛枝はため息混じりに瓶を置いて。

「どう誘えば満足なの? ムードとか必要? だったら、部屋を訪ねるところからやり直そうか?」
「やり直せって言ったら、本当にやり直すのかよ」
「もちろん、やり直してあげるよ? ただしその場合、キミはドアを開けた途端に押し倒されてるだろうけど」
「やり直す意味あるのか、それ……」

 脱力した途端に上下を入れ替えられ、ソファに転がされる形になる。ネクタイを解く狛枝の手つきは、いつもより性急で乱暴だ。わずかな違和感に、日向は覆い被さる身体を押しのけた。

「ちょっと待て、狛枝」
「んんん、さっきからうるさいなあ」

 見下ろしながら、狛枝は再度瓶から直接酒を含んだ。顎をつかまれた日向は逃げることもできず、口移しのそれを嚥下するしかない。

「ッん、ぐ……!」

 ついでとばかりに口内を舌で掻き回され、酒の味と香りが唾液混じりに絡みついた。喉奥で抗議した声を、新たなアルコールが溶かしてゆく。同時に撫でられた下肢から、ぞくりと這い上がる快感。

「ま、待てって……」

 ようやく離れた唇で、日向は荒い呼吸を整えた。度数が強いのか、既に頭がぼうっとし始めている。

「どうせならベッド、行けばいいだろ?」

 ベルトを抜こうとする手を、辛うじてつかんで押さえ込む。別に、こうなること自体に異論はないのだ。ただ何もこんなところで、事に及ばなくてもいいではないか。

「やだ」
「やだってお前、ここ狭いから落ち……っ!」

 言うが早いか案の定、二人揃ってソファから転げ落ちてしまった。床で後頭部を打ちつけるが、あまり痛みはなく意識も曖昧だ。ああ酔っているからかと、日向は軽く目を回しながら自覚した。

「……おい、狛枝?」

 ぼんやりしている間に、奪ったネクタイを両手首に絡められる。そのまま頭上のソファの脚にくくりつけられ、縛られて自由を奪われてしまった。

「ちょっ……何やってんだよ」

 抵抗する気はなかっただけに、何故拘束されるのかわからない。身を捩った日向は、思いのほかしっかりと固定されていることに戦慄した。ただベッドへ移動しようと、お互いのために提案しただけだというのに。

「何だこれ、ふざけるな。解けよ」
「……あのねえ、日向クン」

 中途半端だったベルトを今度こそ引き抜いて、狛枝が不満げに目を眇める。低い声色とは裏腹に、どこかうっとりと息を吐いて。

「今日はボク、苛々してるんだ。キミはそこでおとなしく、女の子みたいに喘いでいればいいんだよ。……抵抗しないで」

 そう言い放つ表情は、行き場のない何かを抑えつけているかのように見えた。









 それは、二年ほど前のこと。

 本来の新世界プログラムが成功し、仮想現実で死んだ十人全員が無事生還して、数週間。八回目の自殺未遂で、狛枝が病室に監禁されたときだった。

 十人の中で一番最後に意識を取り戻した狛枝は、精神的に恐ろしく不安定だった。目覚めたくなどなかったのに、あのまま死なせてほしかったのに。半狂乱でそう喚いては自らを傷つけ、命を絶とうとした。全てが軽傷の失敗に終わったのは、日向をはじめとする仲間たちの力があったからだろう。あるいは彼自身の幸運、または不運によるものだったのかもしれないが。

「ボクは、キミのことが好きだった」

 ベッドの上で窓の外の暗闇を眺めたまま、狛枝はいきなりそう告げてきた。消灯前に様子を見にきた日向は、驚いて言葉を失うしかなかった。

 病室には監視カメラが完備され、仲間と未来機関のスタッフが交代で見張っている。彼の世話は主に罪木や機関の専門家が担っていたが、日向は暇さえあれば直接狛枝を訪ねていた。自分が嫌われていることはわかっていても、だからこそ、正面から向き合わなければならないと思ったからだ。

 それでも今までは日向が一方的に声を掛けたり、世間話をしたりするだけだった。ずっと無視を決め込んでいた狛枝から何か言ってきたのは、その一言が初めてだったのだ。

「……過去形、か?」

 しばらく黙り込んだ後、日向は思わず呟いていた。予想外の彼の告白にどう応えていいのかわからず、口をついて出た純粋な疑問だった。

 上書きされたはずのコロシアイ修学旅行を、狛枝は鮮明に記憶しているという。予備学科だった日向を罵り蔑んだことも、世界の真実を知って全てを投げ出したことも、伝えられた知識ではなく、自分自身の経験として。

 凄惨な自殺をしたコロシアイと、ひたすら平和な修学旅行。二つの記憶を持って目覚めた狛枝が、現実に反発し日向を嫌うのは当然だ。友人になれた二度目のプログラムを踏まえて、『好きだった』という過去形なのかと思ったのだが。

「狛枝?」

 促してみた呼びかけに、狛枝は無言で顔をそむけたままだ。永遠に続くかのように思われた沈黙の後、やがてふいに視線が合った。縋るような目だと思った。ゆっくりと伸ばされた両手を―――救いを求めるかのような右手と、手首から先がない包帯の左手を、日向は知らずまとめて握っていた。

 どうかしたのか。そう訊ねる前に、前触れもなく指先にキスされた。押し当てられた唇は思いのほか熱く、日向は驚愕に目を見開くしかなかった。また、視線が絡んだ。色の薄い狛枝の瞳は、今にも泣き出しそうに潤んで揺れていた。

 それからのことは、もうおぼろげにしか覚えていない。

 何も言えない唇に、震える唇が触れてきた。戸惑っているうちに引き寄せられて、ベッドに倒され抱きしめられた。唇だけでは飽き足らず、瞼や鼻や首にも落ちてくる熱。まるで存在を確かめるかのように、肌を探り始める手のひら。呆然と見上げたままの視界には、病室の天井と狛枝の髪。混ざり合う白と白。燻る痛みと、押しのけてせり上がる快楽。閃光。白。白。

「キミのことが、嫌いだった。ボクとキミは結局似た者同士で、同族嫌悪で、それを否定したくて拒絶した。でも二度目の修学旅行で友達になれて、キミのことが大好きになって、そんな両方の気持ちを抱えたまま目が覚めてしまって……」

 耳元で繰り返される独り言めいた言葉を、日向は朦朧としながら聞いていた。とにかく熱くて苦しくて、目の前の狛枝だけが確かな現実に思えた。

「大嫌いなのに大好きで、大好きなのに大嫌いで、ねえ日向クン、ボクはどうしたらいい? こうしてキミを抱いている今も、キミが憎くて殺したいと思うし、キミが欲しくて愛しいと思うし、この矛盾は不運? それとも幸運なの? ねえ、日向クン。日向クン。日向クン」

 日向は何も言うことができなかった。ぐちゃぐちゃに混ざり合った彼の感情を、ひたすら受け止めるしかなかった。なんでもよかった。狛枝が答えを見つけようとしているなら、もう一度生きる理由を探ろうとしてくれるなら、こんな些細なことが何かを変えるきっかけになるのなら。

 そのとき監視カメラをチェックしていたのが苗木だけで、本当によかったと思う。翌日彼は真っ赤になりながら、消去しておいたからとこっそり報告してくれた。日向もつられて赤くなって、ありがとなと心から礼を言っておいた。後悔はしていなくても、記録映像として上に提出されるのはさすがに御免だ。苗木には感謝してもしきれない。

 狛枝が目に見えて落ち着いたのは、それからのことだった。自殺を図ったり自らを傷つけたりすることもなく、積極的にリハビリを行いカウンセリングを受けて、一日も早く日常生活に復帰しようと努力し始めた。何かと文句をつけて突っかかるくせに、いつも日向に纏わりついて離れようとしない狛枝を、仲間たちは歓迎しながら見守った。いわゆるツンデレってやつだね、と笑っていたのは花村だっただろうか。狛枝本人は、心外だとばかりにあしらっていたけれど。

 日向は今までと同様に、他の仲間と分け隔てなく狛枝に接した。あの夜の出来事は結局うやむやで、意味も理由もよくわからないままだ。それでも、仲間であり友人である事実に変わりはない。追及したり糾弾したり、改めて蒸し返すことはないと思ったからだった。

 狛枝は何も言わなかった。日向も何も訊かなかった。恋情の延長ともいえず、憎悪の結果でもない。身体を重ねたからといって、恋人になったわけでもない。

 だが以来、気まぐれに抱き合う奇妙な関係は続いた。島で二人きりになってからも同様だった。狛枝が精神の安定を得られるならそれでいいと、日向は拒まず受け入れた。どんな形でも求められていると実感できれば、自分もまた安心できるからだ。

 これは行き場のない諸々を発散するための行為であり、言ってみれば傷の舐め合いに近い。伴う感情の種類が何であろうと、今の自分たちには必要なことで、だから。

「……何、考えてるの?」

 過去に思いを馳せていた意識が、喉を焼く熱に引きずり戻される。また口移しで酒を飲まされたのだと知って、日向は遅れて咳き込んだ。

「お前っ……も、いい加減に……」

 大した量ではないはずだが、飲み慣れていないせいだろうか。頭はうまく働かないし、四肢に力は入らないし、縛られた腕は麻痺している。腰を持ち上げて衣服も下着も脱がされるが、抗おうという気力も湧いてこない。

 集中しろとばかりに、狛枝が唇に噛みついてくる。至近距離の瞳はいつもより艶を孕んでいるようで、彼もまた酔いが回っている証拠だろう。酒とセックスで鬱憤を晴らすなんて退廃的ではないだろうか、などとぼんやり考えた日向は、突然の圧迫感に息を呑んだ。

「お、おい、待……!」

 待て、と言いかけた制止の言葉が詰まった。先走りを塗りつけただけの後孔に、ぐいぐいと先端を押しつけられている。回数を重ねたせいか身体はそれなりに順応していても、ろくに慣らしもせず開かれれば苦痛でしかない。いつもなら軟膏薬、あるいは唾液や精液などを使って、執拗に準備されているというのに。

「何? 日向クン」

 捕らえた獲物を弄ぶかのように、狛枝が両脚を撫でてくる。体温が伝う生身の右手と、手袋をした左手の硬質な感触。日向は弱々しく首を振った。

「ま……まだ、無理だ」
「どうして? 痛いのは最初だけでしょ? ほら……」
「ッ、く」
「ね? ちゃんと、ボクの形に広がってくれてるよ」
「うぁ……あ、あっ」

 無理やり入り込んでくる熱の塊に、堪えきれず悲鳴が零れる。拘束されていてはどうすることもできず、押さえつけられた足を蹴り上げることもできない。ネクタイが軋む、ぎちりという音。

「痛……い、って……」
「キミの中、嬉しそうに迎え入れてくれてるけど。それでも、無理だって言うの?」
「む、り……」
「っ……ふふ、わがままだなあ」

 どっちがだ。反論を呑み込んで、日向は歯を食いしばった。こんなやり方では、相手の方も痛いに違いない。にもかかわらず狛枝は動きを止めることなく、確実に奥へと進んでくる。

 恋人のように優しく抱かれたことはなかったが、特に乱暴に扱われたこともなかった。互いに大した言葉もなく熱を分け与え欲望を発散して、いつもただそれだけのあっさりしたものだった。ここまで一方的なのは、一番最初の夜以来ではないだろうか。

 断片的な記憶が、また脳裏に浮かんで蘇る。あのときの狛枝はひどく錯乱していた。己の感情に板挟みになった結果、半ば自暴自棄であんな行動に出たのだろうと想像する。日向が何も言わず受け入れたことで、彼なりに折り合いがつけられたに違いない。だからこそ、今のような関係に落ち着いたと思っていたのだが。

「こ……まえ、だ……」

 どうかしたのか。何かあったのか。あったとすれば、今日の会議が原因か。そんなに荒れて苛立ってこの行為に変換してぶつけたくなるほど、ひどい扱いでも受けたのか。そう訊ねたくても、じりじりと内側を焼く疼痛が邪魔をする。途切れ途切れの呼びかけは、恐らく本人に届いてはいない。

「なんかさあ……痛い方が生きてるって感じ、しない?」

 狛枝は恍惚として言いながら、溢れた唾液を舐め取っている。

「気持ち良くて頭真っ白になっちゃうより、痛くて辛くてどうしようもない方が、ここにいるって実感できたりしない? 今自分が何をしてるのか、何をされてるのか、鮮明に記憶に刻まれたりしない……?」

 狛枝の両手が日向の頬を辿り、首元へ下りてくる。意図に気づくより早く、ゆっくりと力を込められるのがわかった。絡みつく右手と義手の左手が、真綿のように優しく首を絞め始める。

「……っぐ、ぅ……!」

 どんどん細くなる呼吸に、日向は頭を揺らして抗った。苦しくて口を開くも、うまく酸素が取り込めない。アルコールで酩酊している上に息ができず、次第に朦朧とし始める。ああ日向クン、と狛枝が興奮した声で囁いた。

「後ろ、すごく締まって……そんなにされたら、ボク、もう……っ」
―――ッ!」

 体内の熱が膨張して跳ねると同時に、首を絞めていた手が離された。日向はひゅうと喉を鳴らして、突然の大量の空気に咳き込んだ。狛枝が自分勝手に欲望を吐き出したことも、中に射精されたこともしばらく意識の外だった。

「っ……お前、何、考えて……」

 とにかく酸素を貪りながら、乱れた息を整える。別に優しくしてほしいわけでもないが、少しは気を遣えと怒鳴りたくなる。これではまるで都合のいい道具だ。

 確かに、自分たちは恋人でもなんでもない。とはいえだからこそのマナーだったりルールだったり、暗黙の了解のようなものがあったはずだ。こんな強姦じみたプレイは趣味じゃないし、狛枝だってそうだろう。本気で絞殺するつもりはなかったにしても、何をそんなに荒れているのか。日向を手ひどく扱い傷つけることで、まるで己自身をも傷つけているかのような。

「何って……日向クンのことに、決まってるでしょ?」
「え、うわっ」

 しれっと言って、狛枝が身を引く。いつの間にかまた硬度を取り戻していたその感触に、日向は思わず仰け反った。

「ひっ!」

 そのまま一気に奥まで押し込まれて、高い悲鳴を上げてしまう。ぐちゅん、と重なる卑猥な水音。無理に貫かれたのにあまり痛みがなかったのは、狛枝の精液が潤滑剤になったからか。早くも快感の兆しが滲んでいるのは、アルコールのせいか。

「はあ……日向クンはやっぱり、痛いよりもこっちの方が、好き?」

 上半身を倒して抱きしめて、狛枝が耳元で囁いてきた。吐息混じりのその声に、心地良い悪寒が駆け抜ける。緩やかに揺さぶられると、意思に反してねだるように腰が揺れた。

「気持ちいい方が、キミを縛りつけられるかな? ねえ日向クン、ボクから離れられないくらい、ボクなしでは生きていけないくらい、ボクに依存してくれる……?」

 言葉は揶揄を含みながらも、どこか縋るように切実だ。やはり何かあったのだ。溺れ始める己を叱咤して、日向は真正面から狛枝を見据えた。

 色の薄い瞳はあのときと同じ、今にも泣き出しそうに潤んで揺れている。ただひたすらぶつけることしかできない感情は、日向に救いを求めるかのごとく。

「狛、え……っ!」

 だったら、ちゃんと話がしたい。理由を訊きたいし、こんなことでごまかされたくない。

 そうは思えど突き上げられて、逆らえない愉悦が来た。続けざまに動かれると、意思は儚く崩れ落ちた。狛枝には弱いところを知り尽くされている。何度も何度も同じ場所を同じように責められては、もはや抗う術はない。

「こっ……まぇあ、ぁあッ……!」

 うまく言葉が紡げない。流されては駄目だと思うのに、抉られるたび思考も声も甘く痺れてゆく。わざとだ。何も言わせないし、何も考えさせないつもりなのだ。

 ふざけるなと思ったが、わずかに残った理性が自嘲した。何も言わず何も訊かず、甘んじて受け入れてきた日向も、同じ穴の狢ではないのか。こんなことでごまかしてきたのは、自分自身ではないのか。他人の体温を欲して、自分が自分である確信を求めて、安堵を得るための道具として狛枝を利用したのは。

「……日向クン。ボクから、離れないで。ボクを、置いていかないで」

 繰り返される懇願と、零れる嗚咽。虚ろな視界に、コテージの天井と白い髪が揺れる。

「ボクには、キミが、必要なんだ」

 意識を手放す寸前で、日向は狛枝の涙を見たような気がした。









 頭が痛くて、目が覚めた。

 頭だけではなく、背中も腕も脚も腰も全身が痛い。そして妙に苦しいと思いきや、縋りつくように抱きしめられている。

「……狛枝?」

 呼びかけた日向は、彼の静かな寝息に気がついた。どうやら、揃って床で意識を手放していたらしい。

 軋む身体をずらして、拘束に似た腕から逃れる。ネクタイで縛られた両手は、歯を使って解くことに成功した。いくら南国だからとはいえ、汗まみれの半裸ではさすがに風邪をひきそうだ。狛枝にはとりあえずシーツを引っ張ってきて、掛けておいてやることにする。

 ふらつく足で衣服を拾うと、日向はバスルームで適当に身を清めた。ソファ近くの床はいろんな体液でひどい有様だが、掃除や後始末よりもまずは狛枝だ。ちゃんと身体を拭いてから、ベッドに運んでやらなければならない。

 狛枝は気を失ったように眠っている。珍しく激情のまま随分と乱暴に扱われたのだが、原因が本当に今日の会議にあるとしたら、議事録に目を通しておいた方がいい。それだけ神経を逆撫でされるような、何か耐えがたい発言でもあったのなら、そろそろ本気で抗議が必要だ。

 とにかくタオルを持ってきてやろうとしたとき、そういえばメールが来ていたことを思い出した。もしかして関連する事柄だろうかと、先にスリープモードになっていたパソコンに向かう。新着メールを確認すると、差出人は未来機関本部。

「緊急要請、日向創。本部異動のため、一両日中に本土への帰国を命じ……」

 半ばまで読み上げて、息を呑んだ。帰国命令。まさか。

 急いで開いてみた添付ファイルは、人事に関する正式な書類だ。記されているのは日向だけで、狛枝の名前はどこにもない。愕然として振り返ると、眠る彼の頬に涙が伝うのが見えた。

「お前……もしかして、今日の会議で、これを知ったから……?」

 かすれた声で、小さく呻く。日向が本土に戻れば、狛枝は島に独りきり残されることになる。だから。

 ―――ボクから離れないで。ボクを置いていかないで。

 繰り返し繰り返し、呪詛のごとく囁かれた言葉。初めて形にして伝えられたそれは、一途で純粋な願いだった。いっそここに縛りつけてしまえば、いっそ命を奪ってしまえば。狛枝の先ほどの行動は、そんな葛藤の表れだったのだろうか。拘束して首を絞めて殺して、このまま永遠に。

「俺は、お前を、独りにするつもりなんて……」

 緩く頭を振って、日向はその場に崩れ落ちた。本部への異動は、いわゆる栄転といえるのかもしれない。危険人物の烙印を押され、島外での活動を認められなかった身としては、喜ぶべき朗報なのかもしれない。けれどいずれこの島を出るときは、二人揃ってだと思い込んでいた。何の根拠もないというのに。

「狛枝を……ここに、置いていけって?」

 はは、と意味もなく乾いた笑いが零れる。そんなこと考えもしなかったし、考えたくもなかった。いつの間にか彼に乞われるまでもなく、こんなにも依存してしまっている。その事実に今更気づかされて、自嘲に笑みが引きつった。似た者同士が二人きりで閉じ込められたせいか。傷を舐め合う不毛な関係を続けていたからか。

 ではどうすればよかったのだろうと、日向は思いを巡らせる。狛枝を拒むべきだったのか、あくまでも友人としての距離を保つべきだったのか。今となってはどうしようもないし、その意味や理由もわからないままだ。だが少なくとも、こんな形で引き裂かれたくはない。たとえどんなに歪であろうと、第三者に何と言われようと、自分には狛枝が必要なのだ。そしてきっと、狛枝も。

「畜生……」

 吐き捨てて立ち上がり、再度パソコンに向かう。日向は狛枝ほど口が回るわけではないが、不服を申し立てることくらいはできる。人事異動に関する拒否権はなくても、意見を述べることは許されるはずだ。

 最も要注意だとされているのはカムクライズルで、日向創ではなかったのか。その自分が島から出ることを許可されたなら、同様に狛枝にも許可が下りるべきではないのか。カムクラという未知の絶望を抱える日向より、すっかり更生して日常生活を送れている狛枝の方が、本部に相応しい人材ではないのか。あるいは。

 あるいはもしかすると、これも狛枝に対する上層部の嫌がらせなのか。

 あり得なくはないと、日向は知らず唇を噛んだ。ここ最近の上の動きを見れば否定はできない。もし本当にそうだとしたら、性質が悪いにもほどがある。自分たちを保護し更生させてくれた恩義はあれど、不信感は募るばかりだ。

 何が平和的に世界復興を目指す組織だ。私情を交えた人事も辞さず、権力を驕り体裁を取り繕うことに必死。そんな人間が徒党を組んで、才能のある人間を隔離し排除しようとする。それは結局世界が崩壊する前と同じ、腐りきった社会の縮図ではないか。

 いつかも、似たようなことを思った気がした。妙な既視感に、冷たい炎に似た感情が渦を巻く。あんな連中が上にのさばっていては、何も残らないし残せない。放置すれば、世界がまた行き詰まってしまう。未来を創ると豪語したくせに、このままでは。

「ツマラナイ……」

 無意識に呟いてから、日向は自分の発言に驚いた。違う、と慌てて首を振る。どろりと沈みかけた思考を払い、固く拳を握り締める。

 違う。与えられた選択肢を選ぶのではなく、自ら拓いて創ると決めた。ここでおとなしく命令に従って、なし崩しに離れ離れになってしまえば、それこそ二人とも絶望に逆戻りするかもしれない。笑えない。ツマラナイ。そんな未来など望んでいないし、見たくもない。ツマラナイ。ツマラナイ。

「……うるさい。引っ込んでろ、カムクライズル」

 パソコン画面を睨みながら、日向はそこに映る自分を恫喝した。そうすることで意思を強く持って、チャットソフトを立ち上げる。苗木でも霧切でも十神でもいい、連絡を取って詳細を確認しなければならない。日向創だけが本部異動になった理由、そこに絡んだ上層部の思惑を。

「絶対に……絶対に独りになんか、させないからな」

 押し殺した声で、決意を口にする。ツマラナイツマラナイと喚く何かを抑え込み、緊急メッセージを繋いで画面を見据える。

 その瞳がじわりと赤く染まり始めたことを、日向は知らない。











罪人はふたりぼっち
20140523UP


BACK