森はまるで迷宮のように、旅人の行く手を阻んでいた。 広がる枝葉と夕刻のせいで、周囲は不気味に薄暗い。辛うじて往来の跡が残る細い道は、気を抜けば躓いてしまいそうだ。少年は額の汗を拭うと、下草だらけの地面にため息を落とした。 簡素な服に簡素な靴、腰には安物の刀剣と道具袋。一見どこにでもいる旅装の若者だが、ある重大な目的のために歩みを進めている最中だ。 生まれ育った村を出発して、まだ一日目。少年の名を、日向ハジメといった。 「はあ……」 もう一度嘆息して、日向は赤く色づき始めた空を見上げる。近辺に生息するのはまだ弱い魔物ばかりとはいえ、夜になるとさすがに危険だ。今日中に森を抜けるつもりが、少し迷ったせいで遅れてしまった。荷物運びや買い出しなどで何度も通ったことがあるのに、何故か今日に限って道がわかりにくかったのだ。 大陸の片田舎である出身村と違い、隣町は交通の要所として発展している。今夜はひとまずそこに落ち着いて、人材斡旋所で旅の同行者を雇い入れる予定だった。 何しろ簡単な回復魔法しか使えない見習い剣士、非常に心もとない一人旅である。このままでは最終目的どころか、隣町の次へ向かうことができるかどうかも疑わしい。その辺り日向はしっかりと、自らの力量不足を把握していた。 「あ」 木々の向こうに覗く人工的な屋根を見つけて、幾分気持ちが楽になる。思わず駆け出しそうになった日向は、瞬時に殺気を感じ取って剣を抜いた。振り返った樹木の間、繁みから姿を現したのは。 「……カニ?」 呟いて、知らず眉根を寄せる。蟹に似てはいるが、日向の背丈半分ほどもある大型の異形だ。それが三体、這い寄るようにして集まってくる。歪で大きな鋏と、普通の蟹にはあり得ない青と紫の毒々しい色。 魔力が強ければ強いほど、それは知性を宿し人を騙るという。ゆえに他にも別の魔物がいる気がして、日向は少し戸惑った。先ほど一瞬だけ感じた殺気は、間違いなく高位の魔の気配だった。こんな言葉も通じなさそうな甲殻類ではなく、狡猾で邪悪な捕食者の視線だ。殺気というよりも、底の知れない闇のような。 神経を研ぎ澄ませてみるが、それらしき気配はもう消えている。とにかく、と日向は剣を構えた。この蟹も初めて見る類で、強敵には違いない。先手必勝とばかりに、手近な一体に剣先を突き立ようとして。 「い……ッ!」 ギン、という硬質な音と共に、呆気なく跳ね返されてしまった。思ったより甲羅の硬度が高く、刃が立たない。素早く距離を取った日向は、痺れる右手に舌打ちをした。 「そう簡単には倒されてくれない、ってことか」 自身に軽く回復魔法をかけてから、構え直す。間接や甲羅の隙間を狙うしかない。考えているうちに、同じ蟹の魔物が新たに近づいてくるのが見えた。 「え、嘘」 しかも数が多く、群れをなして周囲を取り囲みつつある。知性があるようには見えないが、獲物を捕らえようとする本能だろうか。あるいはこの中にリーダー格の一体がいて、軍のように統率しているのか。 「これは……ちょっと、やばいかも」 笑みを引きつらせながら、日向は柄を握り締めた。多勢に無勢の上、剣は容易に通用しない。この類の魔物には黒魔術、特に炎の攻撃が効果的だと聞くが。 辛うじて白の下位回復魔法は会得できたものの、攻撃に特化した黒魔術の方はさっぱり身につかなかった。白も黒も魔術方面の才能はないから、伸びしろのある剣術を優先しろと言われ、以来集中して稽古に励んできた日向である。 もちろん、剣だけでは対抗できないことなどわかっている。だからこそまずは隣町へ向かい、魔術を使える同行者を探す予定だった。有り金をはたいて最優先で雇い入れるつもりだったのに、こんな初歩で早速危機に陥るなど、笑い話にもならないではないか。 手のひらに滲み始めた汗に、日向は唇を噛んだ。脳裏に、長老の預言が蘇る。 ―――世界が魔の者により、混沌の渦に飲み込まれようとしている。その日が来れば人類は滅び、魔がはびこる世となるだろう。 村の長であり占い師によるその神託は、絶対的な力を持って村人を震撼させた。漠然とした不安は既に噂として広まりつつあったが、そこではっきりと突きつけられたのだ。 若者は『混沌の渦』を突き詰めて解決するべく、次々と旅立ちそして二度と帰ってこなかった。預言が正しいことを示すかのように、次第に数を増やし強くなる魔物たち。聖なる結界が施されている村の中にまで、最近では目撃情報が多くなった。隣町はもちろん、別大陸や海域も例外ではないようだった。 はるか昔から暗黙の了解で定められているはずの、人間と魔物の境界線。それを今、魔物側が侵食しようとしている。 元来真面目で人の好い日向も、十六の誕生日をきっかけに旅立ちを決めた。村の平和を脅かす魔物をひたすら退治し続けても、元から絶たないことにはきりがないし埒が明かないのだ。だから。 世界のどこにいるのかわからない、存在すらも知られていない、魔物を束ねる長―――魔王と呼ばれるものを討伐する。 そんなとてつもない目標を胸に、意を決して村を出てきた。それなのに、ここで早くも終わりを迎えてしまうのか。 「冗談……」 じりじりと、魔物が包囲の輪を縮めてくる。逃げるしかない、と思った。躊躇している間にも、また新たな魔物が集まってくるだろう。逃げて、できるだけこの場所から離れるのだ。結界が張られている町の門まで行って、警護兵の助力を仰ぐことができれば。 視線を巡らせて、魔物たちとの間合いを探る。前方、十一時の方向。左側の一体の注意を引いて、その隙に駆け抜ける! 考えるより早く、日向は地を蹴っていた。斬りつけると見せかけて、威嚇のために薙ぎ払う。蟹が鋏を振り下ろす。空気を切る音。右の頬と肩に走る痛み。怯んだ隙に、木の葉のように弾き飛ばされてしまう。 とっさに重心を両足へ移した日向は、息を詰めて着地した。無様に倒れることは免れたが、衝撃で剣を落としてしまった。鋏がかすめた頬と肩に、血が滲み出る感覚。まだ立てる。まだ戦える。 小さく唸って、体勢を立て直す。とにかく、動きを止めては駄目だ。剣を拾うべく、もう一度地を蹴ろうとした刹那。 「う」 唐突に、閃光が弾けた。思わず瞼を閉じた瞬間に、ごうと獣の咆哮に似た音が広がった。何が起きたのかわからなかった。次に目を開いたとき、魔物たちは一瞬にして炎に包まれていた。 赤く染まった甲羅から、炎が噴き出しているのがわかる。その命を糧とする生き物のごとく、魔物を舐め尽くす炎の蛇。苦悶に悶える鋏が、何度か宙を切る。そんな抵抗も空しく、全てが緋色の中に飲み込まれてゆく。 日向はしばらく呆然として、そこに立ち尽くしていた。黒魔術だ。自然の流れや力を借りて発動する白と違い、黒は存在そのものを変えて捻じ曲げる。例えば宙に火を生み物質を燃やす、正にこの目前の光景のように。 村の術師の修行はよく見物していたが、ここまで派手な魔法を使う者は存在しなかった。余程の熟練か、あるいは生まれついての天才か―――。 「危機一髪、ってところかな」 ふいに、明るい声が降ってきた。驚いて顔を上げると、木の上に座っていた一人の少年と目が合った。彼は場違いに綺麗な笑顔を浮かべると、軽く日向に手を振った。 ふわふわと揺れる柔らかそうな白髪、淡灰色の瞳。年は日向と同じ頃で、簡素な衣服に草色の上着を羽織っている。 「……お前が、助けてくれたのか?」 まだ現状をうまく理解できないまま、日向は瞬きを繰り返した。村の者ではないし、知らない顔だ。それに一見、あの炎を操れるような高等魔術師には見えないのだが。 「間に合ってよかった。この辺りは、たまにああいう手強い魔物が出るんだ」 言って、少年は木から軽やかに飛び降りてきた。長身ながら細身の肢体、中性的な造作。日向の目の前でにっこり笑って、親しげに右手を差し出して。 「ボクは狛枝ナギト、この先の町に住んでる魔術師だよ。たまたま仕事で通りがかったんだけど、キミが苦戦してるみたいだったから思わず……」 「助かった、ありがとう狛枝!」 台詞が終わらないうちに、日向はその手を両手で固く握り締めた。狛枝と名乗った少年が面くらっていることに気づかないまま、笑顔で話を続ける。 「剣は刃が立たないし数は多すぎるし、どうしようかと思った。魔術の才能がないこと、こんなに後悔したの初めてだよ。あ、でももっと切れ味のいい上等な剣だったら違ったのかもしれないな。所詮田舎の鋳造品だからなあ」 地面に落ちた剣を見ると、折れてはいないが派手に刃こぼれしてしまっている。情けない顔をした日向に、狛枝はぷっと吹き出した。 「もしかしてキミ、見習い剣士?」 「……悪かったな。どうせ半人前だよ」 「だよね」 狛枝は屈託なく頷いて、日向の足先から頭まで観察するように眺めてゆく。 「どう見ても、凄腕のベテランには見えないし」 「そ、そういうお前こそ、凄腕の魔術師には……」 「見えないだけ、でしょ?」 狛枝は余裕の笑みで、優雅に背後を示してみせた。さっきまで地獄絵図のようだった炎の海は消え、今は消し炭に似た魔物の残骸が燻るのみだ。驚いたことに、森の木々や草には全く損傷がない。 「す……すごいな……」 「ふふ」 改めて感嘆の声を漏らす日向に、狛枝は満足そうに笑った。とはいえ自慢げでも得意げでもなく、この程度は当然といった表情だ。 「というかキミ、一人なの? 見習いなら見習いらしく、熟練剣士か魔術の使える同行者を連れた方がいいんじゃないかな。最近は物騒だからね」 「言われなくても、この先の町で雇うつもりなんだよ」 「そうなんだ?」 訊ね返す狛枝の瞳には、興味津々といった光が揺れている。どうも面白がられてるみたいだ、と日向は唇を尖らせた。 「とにかく狛枝、お前は命の恩人だ。改めて礼を言う、本当にありがとう」 言って、日向は深々と頭を下げた。そうしてから顔を上げると、何故か眩しそうにこちらを見る狛枝がいた。ぱちぱちと瞬きをして、思い出したように訊ねてくる。 「……ねえ。キミの名前、教えてもらってもいい?」 「悪い、自己紹介が遅れた。日向ハジメだ。西の隣村から来たんだ」 「日向、クン」 噛み締めるように呟くと、狛枝は少し首を傾げた。 「ここを通って、町に向かう途中なんだよね。お使い? それとも職探しかな。あ、でも同行者を雇い入れるんだっけ。長旅なの?」 「あ……えっと」 どう答えるべきか、日向はわずか躊躇した。魔物による危機の噂は、今や世界規模で広がっているはずだ。隠すこともないかと、意を決して口を開く。 「俺だけじゃなくて、他にもそういう奴いっぱいいると思うんだけど。その……魔王討伐、しようと思って」 「え」 なんだかちょっとそこまで買い物に、といった軽い口調になってしまった。案の定、狛枝が目を見開いている。鳩が豆鉄砲を食らったかのごとく。 「魔王討伐って……キミが?」 「悪いかよ。村の若い連中はほとんどそれを目標にして旅立って、それきり帰ってこなかったんだ。だから」 「ふ」 今度は俺の番だ。そう言いかけた語尾を、狛枝が耐えられないといった様子で遮った。すぐに、腹を抱えて爆笑し始める。 「あは、あはは、キミが、あんな雑魚でさえ苦労してた見習い剣士のキミが、魔王、討伐!」 「……笑うな」 急に恥ずかしくなってきて、日向は仏頂面で呟いた。確かに、自分でも無謀だとは思う。それでも、じっとしていられなかった。村に閉じこもってただ滅亡を待つだけなど、耐えられなかったのだ。 「さすがに俺一人じゃ、この先やばいってことはわかってるよ。だからまず、人材斡旋所で仲間を……」 言いかけて、日向は言葉を途切れさせた。前触れもなく、狛枝が右肩に触れてきたせいだった。先ほどまで大笑いしていたとは思えない、真剣な表情で。 「ちょっと、じっとしてて」 裂けた衣服、血が滲み出ているその部分。まるで傷口を確かめ、手のひらで優しく包むかのごとく。 「え」 一瞬感じた痛みは、感じた途端に消えた。驚いて見ると切れた服はそのままに、傷だけが何事もなかったように治っている。白の回復魔法だ。 「あ……あれ? お前さっき、黒魔術使ってたよな?」 「別に黒専門ってわけじゃないよ。今時、両方使える魔術師も珍しくないでしょ」 「え、でも」 確かに希少というほどの存在ではないが、そもそも質の違う魔術を同時に習得することは至難の業であり、一握りの優秀な人間にしか無理だとされている。つまり狛枝は、それだけ優れた魔術師ということになるのだが。 「もしかして狛枝って、王家や富豪のお抱え魔術師とか、大魔術師の血を引く子孫とか?」 「……なんで?」 「だって……」 続けようとした日向の頬に、狛枝の指が触れてきた。そういえば、そこにも魔物の攻撃を受けた傷があった。思い出した日向は次の瞬間、身を震わせて絶句した。 指先でなぞり上げてくる、その感覚。痛みではなく、熱でもない。他の誰かの回復魔法では感じたことのない、痺れるような、突き刺すような、まるで―――。 「……ッ!」 どくんと大きく鼓動が跳ねて、日向は思わず身体を引いた。狛枝は手を伸ばした姿勢のまま、少しだけ目を丸くしている。 「あ、わ、悪い、怪我まで治してもらって」 妙な空気をごまかしたくて、日向は慌てて礼を言った。 「その、ありがとう」 「……ううん」 自分で触れて確かめてみた頬の傷は、やはり綺麗に治っている。先ほどの恐怖に似た違和感は、気のせいだったのだろうか。 「こちらこそ、笑ったりしてごめん。気にしないで。ここで会ったのも、何かの縁だと思うし」 ゆっくりと目を細めて、狛枝が微笑んだ。日向は取り繕うように剣を拾い、鞘に収めながら首を振る。 「いや。ここまでしてもらっておいて、気にしないわけにもいかないだろ。狛枝はこの先の町に住んでるんだよな? だったら、礼をさせてもらえないか」 「礼?」 「といっても、飯を奢る程度のささやかなことしかできないんだけど」 しかもあまり高級料理は無理だしと、道具袋を開いて笑ってみせる。村から預かった支度金は、同行者を雇うためのものだ。そうして仲間を得てから魔物討伐依頼で旅費を稼ぎ、情報を集めてゆくつもりだった。 「そんな、お礼なんていいよ」 「借りはきちんと返さないと、俺の気が済まないんだ」 「うーん……」 狛枝は眉尻を下げて悩んでいたが、じっと見つめる日向にやがて相好を崩してくれた。 「わかった。じゃあお言葉に甘えて、ごちそうになっちゃおうかな」 「おう」 はにかむような笑顔につられて、日向も安堵に破顔する。あ、でも、と狛枝が付け加えた。 「でもボク、まだ仕事が残ってるんだよ。先に町に行って、待っててもらえると嬉しいな」 「そういえば、たまたま仕事で通りがかったって言ってたな」 「そ、兎狩りの途中だったんだ。夕食用に、活きのいい野兎狩ってこいって言われてさ」 そっか、と日向は息をついた。狛枝が仕事を言いつけられていなければ、この辺りが兎の猟場でなければ、自分はあえなく力尽きていたかもしれない。本当に運がよかったのだと、改めて感謝した。 「それくらいなら、手伝おうか。狩りなら俺にだって」 「その剣で? 無理しなくていいよ、余計に傷んじゃうでしょ」 申し出ようとした日向は、狛枝のもっともな台詞に何も言えなくなってしまった。確かにこの刃こぼれ具合だと、ろくに使いものにならないだろう。一旦鍛冶屋に預けるか、いっそ新しい剣を都合した方がいいかもしれない。 「……わかった」 剣が使えなければ、ただの足手まといだ。それにあの魔物の大群を一瞬で消し炭にできる狛枝なら、兎狩りなどすぐに終わらせてしまうはずだ。渋々了承して、日向は気持ちを切り替えた。 「それじゃ、門の前で待ち合わせってことでいいか?」 「うん。あ」 そうだ、とふいに狛枝の手が日向の額に伸びてくる。 「もう平気だと思うけど、念のため、魔物除けのおまじない」 言いながら、軽く額を押された。目に見えない清廉な空気のようなものが、ふわりと日向を包み込む。土地に結界を施すほどではないが、対象に聖なる護りを与えるのも高位の白魔術だ。 「……ごめん。何から何まで」 「どうして謝るのさ。ボクが好きでやってることなんだから、キミはありがたく受け入れてくれればいいんだよ」 少しだけ頬を膨らませるようにして、狛枝が笑う。いい奴だな、と日向は再度頭を下げた。 「ありがとう。それじゃ、また後でな」 「うん、すぐに追いかけるから。気をつけてね」 「ああ!」 笑顔で手を挙げた狛枝に、日向も笑顔で手を振った。先ほど一掃されたせいか、周囲は驚くほど魔物の気配を感じない。町はすぐそこだ。これなら楽に門まで行けるだろう。 歩き出した日向はふと、狛枝が仲間になってくれればいいのにと思った。だが兎狩りを言いつけられたというからには、立派な雇い主がいるはずだ。雇用金も相場以上に違いない。残念ながら、そこまでの持ち合わせはない。 後ろ髪を引かれつつも、まあいいかと日向は笑った。まずは知り合いになれたことを感謝して、ささやかな食事を楽しもう。 安心したおかげか、忘れていた空腹を思い出す。一人よりも二人で食べる食事は、更に美味しく感じるはずだ。思いがけない新しい出逢いに胸が躍り、足取りも軽かった。 狛枝はそんな日向を見守るように、遠ざかる背中をしばらく目で追っていた。やがて木々の緑に紛れ、その姿が完全に見えなくなったところで、ふうと大きくため息をつく。それを合図にしたかのように。 「兎狩り、ですか」 突然、上から声が降ってきた。狛枝は驚きもせず、軽く肩をすくめてみせる。 「嘘は言ってないでしょ?」 見上げた先には、一羽の大鴉が飛んでいた。闇よりも深い漆黒の羽と、血のように赤い両の瞳。明らかに、普通の鴉ではない。 「まあ、そうですね。確かに嘘ではありませんけど」 妙に丁寧な言葉遣いで話しながら、鴉はふわりと狛枝の肩に舞い降りる。 「それにしても、夕食用の野兎とは……」 「事実じゃないか。野兎よりは利口だろうけどね」 くすくすと笑って、狛枝は日向が去った方角に目を向けた。 本来なら気にも留めない、若さと明るさだけが取り柄の平凡な人間。新鮮で活きのいい獲物に違いないが、話しているうちに気が変わったのだ。 「それで? 結局あの少年は、狩りの対象から外したのですか」 「そうだね。だって、面白そうじゃない? 将来性があるっていうか、もっともっと希望に輝けそうっていうか。とにかくもう少し成長を待った方が、美味しくいただけるかなって」 「……なるほど。あなたにしては珍しい」 呆れたように呟いて、鴉が緩く首を振る。あれ、と狛枝はわざとらしく瞠目してみせた。 「キミの方こそ、珍しいね。いつもツマラナイツマラナイってうるさいくせに、そんな風に納得するなんて」 「僕は単純に、予想のつかないことに興味があるだけですよ」 心外だとばかりに、鴉は一度大きく羽ばたいた。 「あなたがあの少年に興味を持ったのも、少年があなたを信用したのも、予想外だったというだけです。しかし、戯れも程々にしてくださいね」 「もちろん」 軽すぎる狛枝の返答に、鴉はやれやれと羽を広げた。宙に離れ、頭上で輪を描いて。 「とにかく、審判の日までは自重をお願いします。―――魔王様」 「はいはい」 最後に釘を刺すことも忘れず、鴉は言い残して飛び去ってゆく。狛枝はぞんざいに手を振って、再度大きく嘆息した。 「……まあ、確かに美味しそうだったけど」 ひとりごちて、日向の顔を思い出す。頬の傷に触れたときの、呆けたような、それでいて怯えたような表情。 彼は何かを感じ取ったようだった。田舎から出てきたばかりの見習い剣士のくせに、あんな雑魚を相手に苦戦していたくせに。だからこそ、狛枝は興味を抱いた。内に秘められた素質、彼が持っているだろう何らかの力に。 「食事だけで別れるのも、ちょっと惜しいよねえ」 同行を申し出てみようかと、狛枝は考えた。実はさっきの兎狩りを最後に失職しちゃったんだ、キミさえよかったらどうかな。 申し出に、驚く日向が容易に想像できた。もしかして自分が結果的に狩りの邪魔をしたせいかと、思い込んで青くなる様も予想できた。そんな予算はないと言われたら、出世払いでかまわないと返してやろう。金銭など別に必要ないのだが、きちんと契約を交わした上でなければ、あの少年は譲らないに決まっている。 「日向クン、真面目で義理がたそうだからなあ」 そもそも狛枝は雇われ魔術師ではないし、町の人間でもないし、人材斡旋所に登録されてもいない。本当にたまたま立ち寄って、いたずらに魔物をけしかけてみて、気が変わって助けてしまっただけだ。だがこれも自らの運が招いた、宿命のようなものだとしたら。 「……んうぅ。それはそれで、楽しそうだよね」 一人で納得しながら、狛枝は知らず口角を上げた。心の中では早くも、日向の旅に同行することが決定事項になっている。とりあえずは更なる信用を得るため、斡旋所に手を回しておこう。あの場所には既に何人も部下が入り込んでいて、書類や証明書を偽造することは簡単だ。 どうせ全ては、その日が来るまでの退屈しのぎにしかすぎない。しばらく付き合ってみるのもいいだろう。 「さあ、日向クン」 これから楽しくなりそうな予感に、狛枝は笑顔のまま呼びかけた。 「キミは、どんな希望を見せてくれるのかな?」 囁くように言って、無意識に人差し指を舐める。日向の頬に触れ、傷口を辿り、なぞり上げた赤い血を。 命を屠ろうとした欲望が灯る、冷たいその指先を。
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