◆ 眼鏡狛枝と照れ屋日向 ◆







「なんだよ、それ」

 振り返った狛枝を見て、日向は思わず訊ねていた。

「何が?」

 狛枝は椅子にもたれながら、きょとんと首を傾げている。その顔には、見慣れないシンプルな眼鏡。

「お前って目、悪かったっけ?」
「ああ、これか」

 思い出したようにブリッジを上げて、狛枝は小さく笑った。

「パソコン用だよ。最近デスクワークが多すぎて目が疲れるって言ったら、左右田クンがくれた」
「……ふうん。あ、書類。これも追加だってさ」

 気のないふりで、手にした紙束を差し出してやる。えー、と狛枝が唇を尖らせた。

「なんか上の人たち、人使いが荒くなってない? もうボクらは危険人物じゃないって、わかった途端にこれ?」
「まあな……」

 愚痴を零している狛枝は、眼鏡のせいかいつもと雰囲気が違って見える。どこかそわそわした気分になって、日向は部屋を見回した。

 普段は他の仲間たちも作業をしている十四支部だが、ちょうど出払っているのか誰もいない。二人きりを意識すると、ますます居心地が悪くなった。

「日向クン?」

 立ち尽くしている日向に、狛枝が不思議そうに声を掛けてくる。

「見張ってなくても、ちゃんと仕事するってば」
「あ、ああ、悪い」

 苦笑混じりに言われて初めて、狛枝を凝視してしまっていたことに気づいた。日向はごまかすように咳払いをすると、彼の隣、自分の椅子に腰掛けた。

 片付けなければならない書類は、同様に山積みだ。期限が迫るせいで、ここ最近パソコンを睨みっ放しでもある。確かに目は疲れているし、肩凝りもひどくなっているかもしれない。

 眉間を揉むようにしながら、日向はこっそり狛枝を見た。パソコン用の眼鏡があれば、そういう症状もある程度は抑えられると聞く。効果はどうなんだと、何気なく訊いてみるつもりだったのだが。

 画面を見つめる狛枝の横顔に、何故か鼓動がことりと動いた。

 眼鏡というアイテムの持つ先入観が、彼を妙に真面目で大人っぽく演出しているのだろうか。見慣れた顔と髪型とスーツに、見慣れない物が一つ加わっただけというのに。

 淡いクリアカラーのフレームは、本人の色素の薄さと相まって透明感を際立たせている。整った鼻筋と、輪郭を縁取る柔らかな髪と、書類を睨む真剣な瞳。

 綺麗だな、と日向は素直な感想を抱いた。これで性格に難がなければ、せめて口を開かなければ、周囲の女性も放っておかないだろうに。

「……日向クン」

 パソコンに向かったまま、狛枝がぽつりと言ってきた。

「そんなに熱っぽく見つめられたら、集中できないんだけど」
「え」

 からかうような指摘に、日向は慌てて我に返った。いつの間にか見惚れていたことを自覚して、ゆっくりと恥ずかしさがこみ上げてくる。

「熱っぽくって、お前」
「なんだか火傷しちゃいそうなほど、情熱的な眼差しだったよ? 眼鏡を掛けたボクがそんなに珍しい? あ、もしかして見惚れちゃった?」
「ちっ、違う、そうじゃなくて、その……」

 面白がられているとわかっていても、熱くなる頬はどうしようもない。言い訳も出てこなくて、しどろもどろになってしまう。狛枝がくすくすと笑って立ち上がった。

「ふふ。真っ赤だね、日向クン」

 真正面から覗き込まれて、日向は反射的に顔をそむけた。至近距離でまともに見ては駄目だ。そんな危機感から、手を伸ばして眼鏡を奪い取ってやった。

「わ」
「俺も前からこういうの使ってみたかったんだ、ちょっと貸してくれ!」

 わざと大声で言って、ぎこちなく掛けて、勢いよくパソコンに向き直る。そのまま書類の続きを打ち込もうとするが、忙しない心臓のせいで集中できない。更にフレームが思ったより視界の邪魔になるのと、そもそも眼鏡に慣れていないのと、それから。

「……ああ、日向クン」

 熱を帯びた吐息と共に、狛枝が独り言のように呟いた。じっとこちらを見つめながら、うっとりとした口調で。

「キミの気持ち、今わかった。これは、見惚れちゃうね」
「……そうかよ」

 凝視してくる視線が落ち着かない。ぶっきらぼうに答えてやるが、頬の熱さはしばらく収まりそうになかった。









◆ デレデレ狛枝と未来機関スーツ日向 ◆







「どうしよう、日向クン」

 狛枝の真剣な声に、日向は何事かと振り向いた。

 未来機関第十四支部、施設の端にある資料室。会議に必要な書類を探すため、二人揃ってここを訪れたのだが、部屋は思ったより乱雑に散らかっていた。

 これは時間が掛かりそうだと、うんざりして見渡したのがつい先ほど。とりあえず手分けして片っ端から探すべく、狛枝に後ろの棚を任せた矢先である。

「ど、どうした?」

 少々の不安と共に、日向はこちらを凝視する狛枝に訊ねた。彼の才能のことだ。目当ての書類ではなく全く別の、とんでもない物を見つけてしまった可能性がある。例えばこんな場所に保管されているはずのない重要機密書類とか、あり得ない額の小切手とか。

「どうしよう」

 狛枝は小さく震えると、勢いよく身を乗り出した。

「ああ、どうしよう。今すぐキミにキスしたくなっちゃったんだけど!」
「……………………は?」

 あまりに予想外かつ斜め上の台詞を、日向はしかめ面で受け止めた。一瞬でも心配した自分が馬鹿だった。

「何言ってるんだ、仕事しろ」

 言いながら額を弾いて、確認途中だったファイルに戻る。分類された棚にきちんと収めてあればいいが、どこか別の場所に紛れ込んでいるとすれば厄介だ。相棒がこの調子では、今日中に終わるかどうかも怪しい。

「ひどいよ、日向クゥン……」

 鼻を鳴らす犬のように、狛枝が額を押さえて嘆いている。

「こんな誰もいない部屋で二人きりなんだからさあ、その気になっても仕方がないじゃないか……」
「何の気だよ。勤務中だぞ」

 ファイルを捲る手を止めないまま、日向は嘆息と共に釘を刺した。

 元々スキンシップ過多なところがある狛枝だが、恋人と呼ばれる関係に至って更にひどくなった。倫理や節度を気にもせず、何かと理由をつけて触りたがるのだ。時と場所さえ選んでくれれば、日向もやぶさかではないというのに。

「最近忙しくて日向クン不足なんだ。早急に補給しないと、やる気が出ないよ」
「はいはい。うーん、見つからないな……」

 まだ何か言っている狛枝をあしらって、唸りながら棚を見上げる。下段のファイルは全て調べ終えたから、次は上かと最上段に手を伸ばしたとき。

「あっ、日向クンそのままストップ!」
「え」

 唐突に指示されて、思わず固まってしまった。今度は何だと恐る恐る振り向けば、妙に興奮した様子の狛枝と目が合った。

「そうやって伸びしたときの、腕から足にかけてのライン! あと上着の隙間から覗く白いシャツとか、ベルトに強調された細腰とか、きゅって引き締まったお尻とかにそそられちゃ痛っ!」

 聞くだけ無駄だったと、話半ばでまた額を弾いてやる。強めにお見舞いしたせいか、狛枝が情けない悲鳴を上げた。

「ちゃんと聞いてよ、スーツを着たキミの魅力について力説してるんだから!」
「しなくていい。大体、今言うことじゃない」
「だってボクがどんなにキミを好きなのか、いつでもどこでも伝えたいんだもん」

 不満げに言って、狛枝は頬を膨らませている。好意が嬉しくないといえば嘘になるが、今はまともに相手をしない方が賢明だ。日向は眉間を押さえながら棚に向き直った。

「そういうことは後で好きなだけ力説してくれ」

 あくまでも突っぱねる態度を変えず、妙な空気をシャットダウンする。それでもめげない狛枝が、背後から肩に顎を載せてきた。

「えー、日向クン冷たいよー。ねー我慢できないよーキスしようよ日向クーン」
「お、おい」

 頭を揺らしてぐりぐりと顎を埋める仕草は、正に甘える駄々っ子だ。抱きしめるように腹に手を回されて、日向は慌てて身を捩った。

「だから今はよせ、勤務中だって言っただろ」
「やだ、今すぐがいい」
「お前な……」

 基本的に常識人の日向としては、TPOに加えて世間体も気になってしまう。いくらあまり使われない資料室の片隅とはいえ、突然誰かが入ってこないとも限らないではないか。

「とにかく駄目だ。寮に帰ってからなら、いくらでもしてやるから」
「ね、少しだけ」

 精一杯の譲歩を示しつつ拒否したものの、狛枝は話を聞かずに畳み掛けてくる。

「少しだけ、ちゅってさせて。そしたらそれで我慢して、真面目に仕事するから。……ね?」
「っ、う」

 反射的に身体が震えてしまった日向は、恨みを込めて背後を睨んだ。熱っぽくかすれた吐息混じりの声と、首や耳をくすぐる柔らかな髪。

「……お前、わざとだろ」
「え? 何が?」

 無邪気な笑顔で、狛枝が首を傾げる。このまま拒否し続けても素直に引き下がるどころか、焦れて無理やり実行されてしまいそうだ。そうなると悲しいかな、なし崩しになることが目に見えている。

「……本当だな?」

 そんな予感に、大きなため息が零れ落ちた。

「本当に、真面目に仕事するんだな?」
「うん!」

 顔を輝かせる狛枝に、日向は渋々身体を反転させる。向かい合う姿勢になって、鼻先に指を突きつけて。

「わかった。少しだけなら、許可してやる」
「日向クン……!」

 強気に言ってやったが、了承した時点で狛枝の思うつぼなのだろう。手のひらの上で踊らされている、というやつなのかもしれない。

「……ふふ」

 自嘲していると、頬に両手を添えて撫でられた。

「日向クンって、ボクに甘いよねえ」

 囁きに嬉しさと狡猾さを滲ませて、笑みの形の唇が近づいてくる。何とでも言えとばかりに、日向は諦めの境地で目を閉じた。





 この後狛枝の不運により棚が将棋倒しを起こし、更に狛枝の幸運により目当ての書類が転がり落ちてくるまでがお約束。









◆ 未来機関スーツ狛枝と男前日向 ◆







 ネクタイを締めて、狛枝は小さなため息を吐いた。

 堅苦しく着慣れない、黒いスーツの上下。全身を映す鏡の中の自分は、いかにも憂鬱ですといった表情だ。これからほぼ毎日この格好をしなければならないのかと思うと、眉間に皺ができてしまった。

「サイズは合ってるけど、動きにくいなあ……」

 ひとりごちながら、腕や足を軽く上げてみる。特に首元が気に入らず、もういいとばかりにネクタイを解いた。ついでにシャツのボタンも二番目まで外して、ようやく解放された気分になった。

 機関で働くことに異議はないが、服装の義務付けはなんとかならないものだろうか。ドレスコードではあるまいし、出張時や公の場だけでいいと思うのだが。

「おーい、着替えたか狛枝?」

 待ちかねたらしく、カーテンの向こうから日向の声がする。彼は明日から正式に所属機関員となる狛枝の、当面の教育係であり相棒だ。嘆息混じりに頭を掻くと、狛枝は勢いよく簡易試着室を出た。

「これでいいよ。袖や丈の長さもちょうど」

 解いたネクタイをぶら下げて、軽く肩をすくめてみせる。そうか、と日向が笑った。

「じゃ、在庫があれば同じ物を確保しておいてもらおう。なければ発注で、よろしく頼む」

 サイズを確認していた担当スタッフが、日向の指示に了解を示した。狛枝はそのやり取りを横目に、無造作に襟元を開く。

「終わった? もう着替えちゃっていいんだよね?」
「いや、まだだ。ネクタイもちゃんとしろ、なんで解いてるんだよ」
「えー」

 脱ぎかけた上着を押さえられ、思わず抗議の声が零れた。

「やだよ。サイズも確認したし、まだ着てる必要あるの?」
「やだってお前な……いいからほら、バッジが曲がってる。頭もぼさぼさじゃないか」

 呆れながら未来機関所属章を直され、苦笑混じりに髪を撫でつけられる。まるで入社式を控えた朝、息子の世話を焼く母親のようだ。そんな連想をしてから、下らないと振り払った。

 同じスーツ姿の日向は、ボタンやネクタイをしっかりと締めている。彼は狛枝より先に機関員になったから、それなりに着慣れているのかもしれない。

 思えばジャバウォック島の、あのプログラムでもそうだった。南国の暑苦しい気候の中、毎日きちんと身につけられていた草色のネクタイを思い出す。真面目なところは今も変わらず、実に日向らしいという感想を抱いた。

「キミは慣れてるかもしれないけど、ボクはこういうの苦手なんだよ」

 普段はTシャツにパーカーというラフな格好だけに、体型に合わせたスーツはどうも好きになれない。本格的な勤務となれば仕方なく着るが、今はサイズ合わせの試着中である。用が済めばこんな服、さっさと着替えてしまいたいというのが本音だ。

「このまま、名簿用の証明写真を撮るんだ。ちょっと移動するぞ」
「え、聞いてないよ?」
「ああ、言ってなかったか。まあついでだし、すぐに済む」

 しれっと応える日向に唇を尖らせつつ、狛枝は渋々ネクタイを結び始めた。ワンタッチ式ならまだしも、一から締めるには少々時間が掛かる。

「はあ……これから毎日面倒だなあ」
「そうか?」
「だから、キミは慣れてるかもしれないけどさあ」

 不思議そうな日向に、先ほどの台詞を繰り返してやる。左右田製の義手のおかげで、指先を使う細かい作業に不自由はない。とはいえ、面倒なものは面倒なのだ。

「ッ、きつい!」

 諦めの境地でせめて緩めに仕上げたというのに、ネクタイは日向の手で締め直されてしまった。

「苦しいよ日向クン!」
「これくらい締めないと、だらしなく見えるだろ」
「キミ真面目すぎ!」

 軽く咳き込むも、はいはいと聞き流されるだけだ。苦しさに辟易していると、ふと日向が眩しそうに目を細めた。

「思ったとおりよく似合うな、スーツ」
「え」

 独り言じみた呟きと、不意打ちの微笑。褒められているのだと気づいて、狛枝は一瞬絶句してしまった。

「背も高いしスタイルもいいし、黒に髪の白が映えるのかもしれないな」

 戸惑う狛枝をよそに、日向は満足げにこちらを眺めている。まさかそんな風に見られているとは思わず、狛枝はごまかすように口を開いた。

「せ。背が高いのは、キミも同じでしょ?」
「手足の長さとか、体格が違うだろ。それにきちんとしたスーツ姿って初めて見るから、なんていうか、普段とのギャップ? 悔しいけどかっこいいぞ、狛枝」

 笑顔の日向は視線を逸らして照れるわけでもなく、頬を赤く染めるわけでもない。まっすぐで自然な称賛に、狛枝の方が動揺してしまった。もちろん悪い気はしない、けれど。

「えーと、日向クン?」
「ん?」

 まだ歪みが気になるのか、日向は狛枝の胸元の機関所属章を弄っている。見上げる瞳を覗き込んで、狛枝は勢いよく身を乗り出した。

「つまり、いつもと違う服が新鮮で燃えるってこと? いわゆるコスチュームプレイ的な?」
「は?」
「わかるよ、ギャップっていいよね、そういうきっちりした格好のキミを乱したくなるのと同じだよね!」
「一緒にするな。というか、いきなり力説するな」

 拳を握る狛枝とは対照的に、日向は苦笑いで脱力している。何事かと注目するスタッフを適当にあしらうと、そのまま出入り口へ向かった。

「とにかく行くぞ。撮影が終わったら、すぐに着替えてもいいから」
「んうぅ、わかったよ」

 促されて、狛枝は上着のボタンを留めながら従った。あんな風に手放しで褒めてくれるなら、たまにはスーツもいいかもしれない。

「あ、でも狛枝」

 現金な己に自嘲しつつ後を追うと、日向がドアを開けて振り返った。

「本当は今日一日、その格好のままでいてくれると嬉しいんだけどな」

 そう言って明るく笑った後、ふいに狛枝の耳に唇を寄せて。

「……だから着替えは、俺の部屋に帰ってからでいいだろ?」

 暗に誘いかける言葉が、弾丸のように胸を貫いてゆく。

 『コスチュームプレイ』などと冗談めかした先ほどの発言を、狛枝は甘い痛みと共に反芻していた。









◆ ツンツン狛枝と世話焼き日向 ◆







 嫌なものを見てしまった。

 食堂に入ろうとした狛枝は、すぐしかめ面になって踵を返した。

 しばらく食堂は避けよう。そう思いつつ売店で適当にパンを買って外に出ると、小春日和の青空が広がっていた。

 棟と棟の間に設けられた中庭は、機関員のちょっとした憩いの場になっている。ベンチで資料を広げている男性、木陰で弁当を取り出す女性、既に食べ終えたのか談笑している若者たちなど。狛枝はそれらを横目に手近なベンチに座り、売店袋を下ろして一息ついた。

 世界復興を目的とする未来機関も、実情は他の一般企業とあまり変わらない。幸運の才能を活かせず、主に事務仕事や書類整理を任されている身としては尚更だ。

 忙しい中ようやく取れた昼食休憩だというのに、どうにも心がざわめいて落ち着かない。先ほどの食堂の光景が、脳裏に焼きついて離れないせいだ。狛枝は苛々とペットボトルの蓋を捻った。

 昼食時ということもあって、食堂は混雑していた。空いている席を探して見渡すと、一際賑やかな集団が目立った。その輪の中心には、見慣れた笑顔。

「……相変わらずモテモテなんだね、日向クン」

 低く吐き捨てた声は、我ながら不機嫌極まりない。まるで嫉妬しているかのようだと、自嘲に唇を歪ませた。

 凡人ならではの人心掌握術とでもいうのか、日向の周囲はいつも人が絶えない気がする。思えば、あのジャバウォック島にいた頃からそうだった。二度にわたるプログラムではもちろん、その後仲間たちと過ごした保護観察期間でも。

「別に、どうでもいいけどさ」

 狛枝はため息と共にひとりごちた。日向は同僚であり友人であり、それ以外の何者でもない。とにかく昼食を終えてしまうべく、苛立ちのままサンドイッチにかぶりついた時。

「狛枝」

 聞き覚えのある呼びかけに、知らず内心で舌打ちをする。不運だ。会いたくないから食堂を避けたというのに、結局顔を合わせてしまうのか。

「今から昼食か?」

 半ば渋々目を向けると、思ったとおり日向が一人でこちらにやってくるところだった。見ればわかることだろうに、屈託なく話しかけてくる。

 食堂から職場に帰るだけなら、中庭に出る必要はないはずだ。脇に抱えられた資料や報告書に、会議棟に用事があるのかもしれないと推測できた。

「相変わらず少食だな。それだけで足りるのか?」
「十分だよ」

 訊ねてくる日向をあしらって、サンドイッチを嚥下する。部署は別、担当も別、寮も別だというのに、最近は何故か会う機会が多くて辟易する。この不運を糧に、どんな幸運が訪れるのだろう。そう思うことは簡単だけれど。

「仕事、忙しいみたいだな」

 そのまま去ればいいのに、日向は当たり前のように狛枝の隣に腰を下ろしてきた。世間話がしたいのか、あるいは彼なりの気遣いなのか。

「……何か用なの?」

 暗に邪魔だという文句を込めて睨みつけると、ふ、と何故か微笑まれた。まるで、子どもを見守る母親のごとく。

「マヨネーズ、口のところについてるぞ」

 そう言いながら、日向が顔に指を伸ばしてくる。恐らく、それを拭うつもりだったのだろう。だが狛枝は反射的に仰け反って、彼の手から逃れようとした。

「お、おい?」

 目を見開く日向が、ゆっくり遠ざかって逆光になる。背中に衝撃を受けて初めて、狛枝はベンチから後方の芝生へ倒れてしまったことを知った。一瞬、己に何が起きたのか全くわからなかった。

「ふっ、はは」

 きょとんとしている狛枝に、日向は堪えきれない様子で笑い出す。

「そんなに驚くことないだろ。正に鳩が豆鉄砲だったぞ」
「……あ、っそ」

 ぶっきらぼうに言って、狛枝はぐいと口端を拭った。誰のせいだと思っているのだろう。

「ほら、起こしてやるから」

 まだ笑いながら、日向が再度手を差し出してくる。まるで兄か保護者のような振る舞いに、狛枝は更に機嫌が下降するのを感じた。

 なんだか、悔しい。妙に余裕ぶった態度が気に食わない。

 一矢報いたくなって、まずは素直にその手を取る。そうして起こそうとする力に反し、思いきり引っ張ってやった。

「わ、何」

 珍しく慌てたその表情に、少しだけ気分が上を向く。倒れ込んできた日向を抱きとめる形になって、体温がスーツ越しに伝わった。

 触れた彼のぬくもりに、鼓動が大きく跳ね上がる。

 それが不運か幸運か、今の狛枝にはわからなかった。









◆ とある未来の一日の終わりに ◆







 屋上に出た途端、初秋の風が髪を撫でた。

 夕焼け空は晴れているものの、空気はうっすらと寒々しい。茜色の陽光の中、日向は後ろ手にドアを閉める。見渡すまでもなく、捜し人は容易に見つかった。

 夕陽に照らされた西側の、柵のない端。コンクリートに腰掛けて宙に足を投げ出す、黒いスーツの背中。

「狛枝」

 声を掛けながら歩み寄っても、返事は返ってこなかった。いつものことだと気にしないまま、日向は言葉を続ける。

「後輩が捜してたぞ。行方不明になった、って」
「……んー」

 生返事だけして、狛枝は振り向こうともしない。日向はため息を一つ、彼の視線と同じ方向を眺めた。眼下に広がるのは、一連の絶望事件から復興しつつある東京だ。

 未来機関本部の建物は近辺で最も高く、半壊した街をまるでミニチュアのように見下ろせる。もうすぐ日が暮れるというのに、街に灯る光は少ない。かつて賑やかだった『東京』のイメージも、今やはるか遠い過去だ。

 ジャバウォック島からここへ異動して約半月。既に見慣れてしまった景色を、日向はぼんやりと目で追った。

 狛枝はこの屋上が好きだと言っていた。扉は常に内から施錠されているのだが、合い鍵でも入手したのかもしれない。休憩時間や定時後はもちろん、勤務中も消えたと思えばここにいる。機関の規則では一応、立ち入り禁止になっているから厄介だ。

 狛枝先輩が見当たらないんですけど、日向先輩知りませんか。後輩にそう訊ねられて、屋上じゃないかと答えられるわけもない。心当たりを捜してみるよと、結局日向自らこうして出向くことになる。

「ねえ、日向クン」

 ふいに狛枝が言って、その場で立ち上がった。

「ここから落ちたら、死んじゃうかな?」

 風に煽られてふらつく様は、誰が見ても危なっかしい。足を踏み外せば、間違いなく地上へ真っ逆さまだろう。

「……さあな」

 日向は肯定も否定もせず、ただ小さく笑ってみせた。たとえ落ちたとしても、彼のことだ。あり得ない確率の奇跡を引き寄せて、あっさりと生還してしまうに違いない。

「お前自身が死を願わないうちは、死にたくても死ねないんじゃないのか?」

 日向の答えをどう思ったのか、狛枝がきょとんとして振り返った。しばらく視線を絡ませた後、嬉しそうに微笑んで。

「うん。そうだね、そのとおりだ。恋人に自殺をほのめかしても笑って聞き流される不運、心配すらしてもらえない不運。些細とはいえ、それらはボクが生きるための幸運に変換されるだろうからね!」

 言葉にはほのかな嫌味が混じっているが、狛枝の表情は底抜けに明るい。

「心配してほしかったのか……」

 わかりにくいにもほどがある。呟いた日向に、そりゃそうでしょと狛枝は唇を尖らせた。

「だって思いつめた顔で屋上にいたら、普通は心配して当然じゃないの? 何か悩みがあるのか、とかさ」
「何か悩みがあるのか?」
「ないよ?」

 自分から言い出したくせに即答であしらって、狛枝は悪びれず笑っている。脱力する日向を横目に、そのまま綱渡りのようにふらふらと屋上の縁を歩き始めた。

「狛枝」

 日向はそれに付き合って、隣を歩きながら忠告する。

「なんでもいいけど、特に何もないなら仕事に戻ってくれ。後輩も困ってたし、業務にも支障が出るし、このままだとまた残業だぞ」
「んー」

 狛枝はやはり生返事しか返してこない。だが何かを思いついたかのように、突然顔を輝かせた。

「あ。日向クンがキスしてくれたら、仕事に戻ろうかな」
「……は?」

 脈絡のない要求に、日向は疑問符と共に眉根を寄せた。狛枝が笑顔で首を傾げる。

「大丈夫。誰も来ないし、誰も見てないよ」
「そういう問題じゃない」

 盛大なため息を吐いて、少し高い位置にある灰色の瞳を睨む。普段は変わらない目線も、段差のせいで十五センチほど上だ。

「ふざけてないで早く戻れ。それくらい、寮に帰ったら好きなだけしてやるから」
「……好きなだけ? それは楽しみだ」

 ふ、と口角を上げた狛枝は、意味深に目を細めてみせた。その場でくるりと回ってから、軽やかに日向のそばへ飛び下りて。

「ねえ、日向クン。ボクがこの場所を好きな理由、話したことなかったよね」

 独り言のように言いながら、右手で街を示す。

「ここからなら、ボクたちが滅ぼしてしまった世界がよく見える。一度絶望に染め上げられた景色が、再び希望に塗り替えられてゆく過程を、ゆっくり見渡すことができるから」

 黄昏に縁取られているせいか、その表情はどこか淋しげだ。陽光に映える彼の横顔を、日向は無言で見守った。この男がこんな風に、訊かれてもいないことを自ら話すのは珍しい。

「……だったらその希望のためにも、まずは目先の仕事を頑張ってくれ」

 そう言うなり狛枝の腕を取って引き寄せ、頬に軽くキスをしてやる。不意打ちに驚いたらしく、狛枝はあからさまに目を丸くした。

「ひっ、日向クンってば、今日はツンデレモードなの? うわあ、積み上げられた書類と戦う気力体力が、これで一気に回復した気がするよ! さすがだね、希望だね!」

 一転して盛り上がる様子に、日向は内心で嘆息した。

 狛枝は大っぴらに愚痴を零すことも、悩みを打ち明けることもしない。だがこうしてわかりにくくも弱みを覗かせるのは、大抵気分が沈んでいるときなのだ。

 ―――何があったのか知らないが、後でちゃんと話を聞いてやるか。

「それじゃ続きは帰ってから、な」

 心に留めて手を振って、じゃあなとばかりに踵を返す。また左右田や九頭龍あたりから、相談窓口などとからかわれそうだ。そう思うと、わずかに苦笑がこみ上げた。

 甘え下手な恋人が、背後から慌てて追いかけてくる足音が聞こえた。











未来捏造狛日小話まとめ
20150830 ブレイクショット!3発行無料配布本+ペーパー再録
20150921UP


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